第18話 計算された平和、あるいは鋼の揺り籠
帝都グラナダが、かつてのような「人の喧騒」を失ってから、三ヶ月が経過した。
今の帝都を支配しているのは、石畳を打つ馬蹄の音でも、市場の威勢のいい声でもない。それは、街の至る所に張り巡らされた魔導伝導体から漏れ出す、微かな低周波の唸り――『都市管理システム・ゼウス』の鼓動である。
俺――レイン・バートレットは、王宮の最上階に設置された「統合演算座」に鎮座し、数百万人の民のバイタルデータをリアルタイムで処理し続けていた。
――記憶残存率:八十・四パーセント。
脳を焼くような苦痛は、すでに「不快な電気信号」として処理され、無視されている。
今回消えたのは、前世での「冬の朝、吐いた息が白く染まるのを見て、なぜか心が躍った記憶」。
冷たさや季節の移ろいを感じる情緒は、今の俺には贅沢すぎる不要な機能だった。
「……第十四区、労働効率が〇・八パーセント低下。原因は……局所的な栄養不足、および睡眠の質の悪化。……配給される合成魔導食糧のカロリーを三パーセント増加させ、全戸の照明魔導具に強制的な催眠波を重畳させろ」
俺が指先一つ動かさず、思考のままに命令を出せば、街全体がその通りに動く。
病気は流行する前に予兆を検知され、犯罪は「殺意の脳波」が観測された瞬間に自律型警備ゴーレムによって未然に防がれる。
失業はなく、飢えもなく、争いもない。
かつての人類が夢見た理想郷は、今や一人の少年の脳が計算し続ける、冷徹な「定数」によって維持されていた。
「……完璧だ。……これこそが、不確定要素を排除した、世界のあるべき姿だ」
俺の視界には、常に全帝都の熱分布、魔力密度、幸福指数の統計グラフが表示されている。
人々は、俺が決めた時間に起き、俺が決めた仕事をし、俺が決めた時間に眠る。
そこに「意志」はないが、代わりに「苦痛」もない。
だが、その静寂を破る存在が、一人だけいた。
「……また来たのか、ルナ」
背後の重厚な扉が開く音がした。
かつてルナが俺に駆け寄ってきた時の、あの弾むような足音ではない。
今の彼女の歩みは、泥沼を歩くように重く、悲しみに満ちている。
「レイン……。もうやめて。……街を見て。みんな、笑わなくなった。……確かに死ぬ人はいないかもしれないけど、これじゃあ、みんな大きな箱の中で飼われているお人形と同じだよ」
ルナは、俺の前に跪き、鋼鉄の椅子に固定された俺の手を握った。
彼女の体温。かつてなら、俺の心を温めたであろうその熱さえ、今の俺には「摂氏三十六・五度の熱源」としてしか計測されない。
「……ルナ。……『笑う』という行為は、感情の起伏に伴う過剰なエネルギー消費だ。……平穏という定常状態を維持するためには、感情の振幅は最小限に抑えられるべきだ。……それが、生存確率を最大化させるための最適解だ」
「そんなの、生きてるって言わない! ……ねえ、思い出して。……初めてあなたが私に連発弩を作ってくれた時のこと。あの時、あなたは『誰かを守りたい』って笑ってた。……あの笑顔は、計算の結果だったの!?」
――記憶残存率:七十九・八パーセント。
脳の奥底で、エラーメッセージが赤く点滅した。
消えたのは、「ルナと初めて出会った時の、彼女の瞳の色に対する純粋な驚き」。
「……当時の僕の行動は、生存可能性を向上させるための、未熟な社会的投資に過ぎない。……今の僕には、そのような回りくどい手段は不要だ。……ルナ、君もだ。……君の存在は、僕の演算リソースの二・五パーセントを無駄に占有している。……これ以上の介入は、君の『人格消去』を検討せざるを得ない」
俺は、無機質な瞳で彼女を見下ろした。
ルナは絶望に顔を歪め、俺の手を振り払った。
「……わかった。……あなたがそう言うなら、私は最後まで、あなたの『ノイズ』であり続ける」
彼女が去った後、俺は再び閉ざされた暗闇の中で計算を再開した。
だが、俺のデータベースに、存在してはならない「警告」が舞い込んできた。
――警告。……北方の辺境、亡命貴族軍が集結。
――彼らを率いるのは……。
――『全魔力解放』を起動した、ゼノの死体。
「……先生。……死してなお、僕の計算を乱しに来るというのか」
ゼノは、自らの死体さえも「魔力爆弾」へと作り変えていた。
彼は隣国の残党を煽動し、この完璧な帝都を破壊するために、自らの存在そのものを「論理的な自殺攻撃」へと昇華させていたのだ。
北の空が、不気味な紫色に染まる。
ゼノが放ったのは、空間の魔力密度を極限まで引き下げ、連鎖的な空間崩壊を引き起こす『虚無の種子』。
それが帝都に到達すれば、俺が築き上げた管理システムは、その基盤である魔力網ごと消滅する。
「……防衛プロトコル、フェーズ・ナイン。……帝都全域を『絶縁障壁』で包囲しろ」
障壁を展開するためには、膨大な魔力が必要になる。
帝都にあるすべての魔石、そして……。
民の命を繋いでいる、生命魔力の九割を徴収しなければならない。
「……計算完了。……帝都の人口の四十二パーセントが、障壁展開の代償として『機能停止』する。……だが、残りの五十八パーセントと、帝国の物理インフラは維持される。……これが、現状における最も合理的な生存戦略だ」
俺は、徴収ボタンの上に指を置いた。
四十二パーセント、約五十万人の命。
それを犠牲にすれば、この「完璧な平和」は続く。
だが、その時。
俺の視界に、一人の少女のデータが強制的にポップアップされた。
――対象:ルナ。
――魔力適性:極めて高い。
――徴収優先度:最高。
――計算上の生存確率:〇・〇〇パーセント。
「…………」
俺の指が、止まった。
論理的には、彼女を真っ先に犠牲にすべきだ。彼女一人の魔力で、数千人の一般市民を救うことができる。
――記憶残存率:七十八・二パーセント。
消えたのは、「前世での、母が作ってくれた味噌汁の温かさ」。
脳内が火花を散らす。
なぜ、ボタンを押せない。
なぜ、この一人の少女という「変数」を切り捨てることができない。
「……バグだ。……これは、深刻なシステムエラーだ」
俺は、自らの脳を強制的に再起動しようとした。
感情を殺し、ただの機械になればいい。
そうすれば、五十万人を殺し、彼女を殺し、世界を救える。
だが、エラーメッセージは消えない。
【ERROR: REQUIRED VARIABLE 'LUNA' IS MISSING IN FUTURE FORMULA】
(エラー:未来の数式に、必須変数『ルナ』が存在しません)
俺の深層意識が、俺の論理に抗っていた。
ルナのいない世界を、俺の演算回路は「価値のない無」として定義してしまったのだ。
「……認めない。……僕は、こんな情緒という名のバグに敗北したりはしない」
俺は、座席から身を乗り出した。
徴収ボタンをキャンセルし、代わりの術式を書き込み始める。
「……全徴収を停止。……全生命魔力を、市民に返還しろ」
――警告。……障壁が維持できなくなります。帝都は消滅します。
「……代替エネルギー(だいたいエネルギー)を供給する。……供給源は……。……個体識別名:レイン・バートレット。……僕自身の、全存在だ」
――警告。……その行為は、自己崩壊を招きます。記憶残存率は〇パーセントになります。
「……構わない。……『心』がない世界を守るために心を捨てたというのなら。……最後は、『心』を取り戻すために自分というシステムを破壊する。……これが、僕の導き出した、最後にして唯一の……『非合理的な正解』だ」
俺は、自らの全神経を外部の魔導網へと接続した。
――記憶残存率:七十パーセント、六十パーセント……。
脳から直接、魔力が噴き出す。
視界が真っ白になり、前世の、そして今世の記憶が、濁流となって俺の魂から流れ去っていく。




