第10話 軍師の孤独、あるいは偽りの凱旋
北方の雪原から帝都へと戻った俺を待っていたのは、英雄としての喝采ではなかった。
薄暗い軍務省の会議室。円卓を囲むのは、前回の晩餐会で俺に恥をかかされたロイター公爵派の貴族たちと、俺という利権を使い潰そうとするグレンダル侯爵だ。
「……報告書によれば、新型兵器の故障率は三割を超え、投入した志願兵の損失は死傷合わせて半数。さらには敵の重装騎士を取り逃がしたそうだな」
ロイター公爵が、冷ややかな声で俺をなじった。
彼の手元には、俺が北方で苦戦した記録が克明に記されている。おそらく、同行した兵士の中に間者がいたのだろう。
「バートレット男爵。其方の言う『魔法を凌駕する兵器』とは、雪が降っただけで爆発するおもちゃのことだったのかね?」
周囲から嘲笑が漏れる。
グレンダル侯爵もまた、助け舟を出すどころか、冷めた目で俺を見ていた。
「レイン、釈明を聞こう。我が家が君に投じた莫大な予算。その結果がこれでは、陛下への面目が立たん」
俺は俯いたまま、心臓の鼓動を整えていた。
脳内では、北方の寒空の下で消えていった平民兵たちの断末魔が再生されている。
――いや、それは嘘だ。
彼らの悲鳴は、今の俺の脳内では「不適切なノイズ」としてミュート(消音)されていた。
――記憶残存率:九十七・九パーセント。
消えたのは、前世での「高校時代の部活動の合宿で食べた、カレーの味」。
そして、この世界でアーサーと笑い合った、ある午後の記憶。
感情を司る領域が削られたことで、俺の思考は「恐怖」や「恥」から完全に切り離された。今の俺にあるのは、この窮地を脱するための「最適な解」を導き出す計算能力だけだ。
「……釈明などありません、侯爵。すべては私の『設計の甘さ』が招いた結果です」
俺の声に、嘲笑が止まった。
言い訳を並べると思っていた彼らは、俺のあまりの潔さに、逆に不気味さを感じたようだった。
「ほう。非を認めるか。ならば、設計図の権利を国に返上し、其方はその席を……」
「ですが、公爵」
俺はゆっくりと顔を上げた。瞳には、光の一片も宿っていない。
「今回の故障データにより、私は『完璧な兵器』への最後のピースを手に入れました。……これまでの連発弩は、あくまでテストモデル。本番はここからです」
俺は懐から、一冊の新しい手帳を取り出し、円卓に叩きつけた。
「北方の極寒、魔力干渉、そして騎士による反射障壁。それらすべてを逆手に取った『新型・第ニ種連発弩』の構想です。……この計画を完遂できるのは、世界で私一人しかいない。……もし私をここで更迭すれば、帝国は、ロイター家が密かに隣国と進めている『新型鎧の開発計画』に対抗する手段を永遠に失うことになりますが……よろしいので?」
ロイター公爵の顔から血の気が引いた。
彼が秘密裏に進めていた計画。それは、ゼノが渡してくれた裏帳簿にも載っていない、俺が北方での戦闘中、敵騎士の挙動から逆推計して導き出した「推論」だった。
「……貴様、何をデタラメを……っ!」
「デタラメかどうかは、あなたの領地の地下工房を調べれば分かることです。……さあ、どうしますか? 私を処罰して帝国に内乱の種を撒くか。それとも、私の『孤独な研究』を支援し続け、最強の軍隊を手に入れるか」
沈黙。
会議室を支配したのは、権力者たちの「損得勘定」という名の重圧だった。
グレンダル侯爵が、ニヤリと口角を上げた。
「……面白い。レイン、君にはもう一度だけチャンスをあげよう。だが次は、言葉ではなく『結果』で示せ。……行け、軍師どの」
会議室を出た俺の足取りは、鉛のように重かった。
廊下を歩いていると、曲がり角に人影があった。
「……レイン」
ルナだった。
彼女は学園を休学してまで俺を追ってきたはずなのに、今の彼女の瞳には、深い後悔が滲んでいた。
「さっき、扉の外で聞いてたよ。……あなた、ロイター公爵を脅したんだね。……昔のあなたなら、あんなこと絶対に……」
「……ルナ。生き残るためには、牙が必要だ。……今の僕は、君が知っているレインじゃない。……いい加減、僕に期待するのはやめるんだ」
俺は彼女の横を通り過ぎようとした。
だが、ルナが俺の袖を掴んだ。その指先は、小刻みに震えている。
「……あなたが忘れても、私は忘れない。……あなたが、あの日森で私を助けてくれた時の、あの優しい目を」
「……あの日?」
俺の脳が、そのキーワードで検索を開始する。
……ヒットしない。
森で彼女を助けた? そんな重大なイベントが、俺の記憶のインデックスから完全に消失していた。
――記憶残存率:九十七・八パーセント。
消えたのは、「ルナを救ったという、俺の人生の転換点」。
俺は、彼女の手を冷酷に振り払った。
「……悪いけど、何の話か分からない。……ルナ、君という『変数』は、今の僕の計画には邪魔なんだ。……二度と、僕に近づかないでくれ」
ルナが絶望したように、その場に崩れ落ちる。
俺は一度も振り返らず、ゼノの待つ時計塔へと向かった。
時計塔の最上階。ゼノは、窓から帝都を見下ろしながら、ワインを傾けていた。
「素晴らしいよ、レインくん。君はついに、自分を支えていた『愛』という名のバラスト(重石)を投げ捨てた。……これで君は、どこまでも冷たく、どこまでも高く飛べる」
「……ゼノ先生。もう、戻る道はありませんね」
「道? 君が進んでいるのは道ではないよ。君自身が、地獄へ続くレールそのものなんだ。……さあ、次の仕事を始めよう。……君の新型兵器を、隣国への『宣戦布告』の合図にするんだ」
レインは設計図を広げた。
そこにあるのは、もう「誰かを守るための武器」ではない。
より遠くから、より確実に、より多くの命を「効率的」に奪うための、ただの計算機だった。
レイン・バートレットは、人としての幸福を捨て、帝国の闇に咲く「毒花」となった。
心は、もう痛まない。
ただ、胸の奥に、説明のつかない「空虚」という名の穴が、大きく広がっているだけだった。




