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刻印の徒  作者: 生クリーム王子
第1章『忘却のゆりかご、軍師の産声』

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第1話 砂時計の最初のひと粒

意識の浮上は、泥の底から這い上がるような感覚だった。

 

 最初はただの暗闇だった。音も、熱も、自分という存在の境界線すら定かではない混沌。そこから徐々に、世界が色と音を持って俺を侵食し始める。

 

(……ああ、そうか。俺は、死んだんだな)

 

 その確信は、冷徹な事実として脳の片隅に張り付いていた。

 

 前世の俺は、どこにでもいる「ただの人」だった。

 名前は――。まだ思い出せる。佐藤、だったか。いや、苗字なんてどうでもいい。

 地方の私立大学を卒業し、中堅のIT企業に入り、毎日決まった時間に満員電車に揺られ、定型文のようなメールを送り、上司の機嫌を伺いながら、休日は動画配信サービスを眺めて終わる。

 特別な才能もなければ、燃えるような野心もなかった。ただ、物事をロジカルに整理し、効率を求めることだけが、退屈な日常をやり過ごすための唯一の癖だった。

 そんな男が、深夜のオフィスで心臓を掴まれるような激痛に襲われ、デスクに突っ伏した。それが、俺という「一般人」の幕切れだったはずだ。

 

「……見て、あなた。この子の目。もう、こんなにしっかり世界を見ようとしているわ」

 

 鼓膜を震わせる声。それは、前世で聞き慣れたどの言語とも違っていたが、なぜか意味だけが直接脳に染み込んでくる。

 

 視界が開ける。

 赤ん坊の未発達な視覚は、ひどく狭く、ぼやけていた。だが、そこには確かな「熱」があった。

 自分を抱きかかえる温かな腕。ミルクの甘い匂い。そして、覗き込んでくる若い女性の、慈愛に満ちた瞳。

 

「ああ、マリア。彼はきっと賢い男になる。バートレットの名を継ぐにふさわしい、勇気ある騎士にね」

 

 視界の端に、逞しい体格をした男の顔が映る。

 彼らがこの世界の俺の親なのだろう。俺は、彼らの言葉から自分に与えられた新しい名前を知る。

 

 レイン。

 レイン・バートレット。

 

 それが、これからの俺だ。

 

 俺は赤ん坊特有の頼りない手足を動かし、目の前の「新しい人生」を認識しようとした。

 転生。

 ネット小説や漫画で飽きるほど見た現象が、自分の身に起きている。

 

(……チート能力とか、あるのか? あるいは、魔法か?)

 

 期待が胸をかすめる。

 もし前世の知識を保ったまま、超常的な力を持てるなら。あの退屈だった日々とは違う、鮮やかな人生を送れるかもしれない。

 だが、その期待は、直後に訪れた「違和感」によって冷や水へと変わった。

 

 ――脳の奥で、何かがパチンと弾けるような音がした。

 

(……あれ?)

 

 今、何かが消えた。

 俺は慌てて、自分の記憶の棚をかき回す。

 

 昨日の晩飯は何だったか。……牛丼だ。紅生姜を多めに乗せた。

 仕事の内容は。……クライアント向けの進捗報告書の作成だ。

 通っていた小学校の名前は。……市立第一小学校。校庭に大きな銀杏の木があった。

 

 まだある。まだ、覚えている。

 だが、その記憶の「色」が、急速に色褪せていくのを感じる。

 まるで、古い写真が強い日光にさらされ、みるみるうちに白く飛んでいくような。

 あるいは、砂時計のくびれから、一粒ずつ砂が零れ落ちていくような。

 

(消えていく……?)

 

 俺は戦慄した。

 これは、赤ん坊という未熟な器に、大人の意識を無理やり詰め込んだ弊害か。

 あるいは、この世界のシステムが、異物である「前世の俺」を修正しようとしているのか。

 

 消えていくのは、ただの知識ではない。

 その時の感情、匂い、肌に触れた風の感触。

 俺を俺たらしめていた「経験」という名のアイデンティティが、一秒ごとに、確実に削り取られている。

 

 このままでは、俺はただの「無垢な赤ん坊」に戻ってしまう。

 前世の俺は、本当の意味で消滅し、二度目の死を迎えることになる。

 

(冗談じゃない……!)

 

 俺は叫ぼうとしたが、喉から出たのは「あうー」という情けない吐息だけだった。

 

 何の特徴もない一般人だった。

 誇れる功績も、誰かに語るようなドラマもなかった。

 それでも、あの二十数年は、俺が必死に生きた唯一の証だったはずだ。

 それを、こんなに簡単に、無かったことにされてたまるか。

 

 俺は必死に抵抗した。

 消えゆく記憶の欠片を、脳の皺に深く刻み込むように。

 

 だが、抗えば抗うほど、脳は熱を持ち、意識は混濁していく。

 記憶の消去は、生理現象に近い無慈悲さで進行していく。

 

 ……月。

 先ほど見た、窓の外の月。

 前世の月は、何個だった?

 一個だ。

 

 ……太陽。

 前世の太陽は、何色だった?

 オレンジだ。夕暮れ時には、ビル影を長く伸ばしていた。

 

 ……母親。

 前世の母親の、名前は。

 

 …………思い出せない。

 

 嘘だろ。

 

 俺は、今、自分の親の名前を忘れた。

 数分前まで確かにそこにあった、最も基本的なはずの記憶が、霧のように霧散した。

 

(ああ、クソッ……!)

 

 涙が溢れた。

 それは赤ん坊としての生理的な涙ではなく、一人の男としての、魂が削れる痛みによる慟哭だった。

 

 マリアが、異変に気づいて俺をあやす。

「どうしたの、レイン。お腹が空いたの? よしよし、大丈夫よ」

 

 優しく背中を叩かれる振動。

 それが、皮肉にも俺の中の「前世」をさらに揺さぶり、落としていく。

 

 この時、俺は理解した。

 俺に与えられた「二度目の人生」は、贈り物などではない。

 それは、自分が自分であることを忘れていく過程を、ただ見守るしかない、残酷なカウントダウンだ。

 

(……いや、待て)

 

 俺は混濁する意識の中で、必死に思考を回転させた。

 一般人としての、唯一の武器。

 「どうすれば、この状況を最適化できるか」という、システムエンジニア的な論理思考。

 

 記憶が消えるのは止められない。

 器が足りないのなら、器の外に書き出すしかない。

 

 だが、今の俺は言葉も話せなければ、ペンを握ることもできない。

 脳内の記憶を、どうやって保存する?

 

 その時、俺の視界に、不思議な「文字」のようなものが浮かび上がった。

 それはマリアが俺をあやす際、無意識に指先から零した、微かな光の粒子。

 

 この世界の魔力。

 

 その粒子は、空中に一瞬だけ留まり、すぐに霧散していった。

 

(……あれだ)

 

 閃きが走る。

 魔法を、単なる現象として放つのではない。

 現象を「固定」し、そこに「意味」を付与することができれば。

 俺の記憶を、魔力のコードとして、この世界の理そのものに「刻印」できるのではないか。

 

 俺は、震える右手を伸ばした。

 マリアが不思議そうに、俺の小さな手を見つめる。

 

「まあ、何かに触ろうとしているのね」

 

 俺は指先に、全力の意識を集中させた。

 消えゆく記憶のエネルギーを、魔力という変換装置を通して、空中に固定する。

 

(留まれ。消えるな。そこに、在れ)

 

 脳を焼き切るような熱波。

 一般人には耐え難いほどの精神的負荷。

 だが、俺は止まらなかった。

 

 これが、俺の最初の魔法。

 【遅延発動ディレイ・ログ】。

 

 本来、放たれた瞬間に消えるはずの魔力現象を、時間の檻に閉じ込め、保存する術式。

 

 俺の指先から出た微かな光が、俺のゆりかごの縁に、小さな、小さな、目に見えないほどの「点」となって定着した。

 

 そこには、俺が今、忘却の彼方に手放したばかりの記憶――。

 「前世の母の、カレーの匂い」という、どうしようもなく平凡で、愛おしい情報が、魔力の信号として刻まれていた。

 

(……できた)

 

 俺は、深い疲労感とともに、意識を失いかけた。

 

 ゆりかごに刻まれたその「点」は、数十年後の俺が見れば、ただのゴミにしか見えないかもしれない。

 だが、これは俺の宣戦布告だ。

 

 世界が俺を忘れさせようとするなら。

 俺は、忘れる以上の速度で、この世界に「俺」を刻みつけてやる。

 

 一般人の、底力を見せてやる。

 

 ……レイン・バートレット。

 その名は、いつかこの大陸の全土に、消えない「傷跡」として響き渡ることになる。

 

 五つの巨大な国家。

 六人の最強の星。

 そして、暗黒の大陸。

 

 そのすべてをハックし、書き換えるための、砂時計の最初のひと粒が、今、落ちた。

 

 俺の、二度目の人生が、始まった。

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