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EMOTION CONTROL ACT ―その涙は違法です―  作者: 鳥のこころ


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第9話 災害の教本

 「以上で、初期検査は終了です」


 係員が、書類のない書類のような口調で言った。

 「最後に、感情災害に関する安全説明映像をご覧いただきます。こちらへどうぞ」


 安全説明。

 “こちらへどうぞ”と言われると、拒否する選択肢は最初から存在しない。


 記録整理室を出ると、少し広めの廊下を曲がり、突き当たりの小さな扉の前で止まった。

 扉には「啓発ルーム」と書かれている。

 教室でも劇場でもない名前。

 ただ、教えたいことだけを詰め込む空間。


 中に入ると、薄暗い部屋だった。


 壁一面がスクリーンになっている。

 椅子が二列に並び、すでに数人が座っていた。

 年配の男。

 付き添いらしい女。

 目元の強ばった青年。


 誰も話さない。

 誰も、この部屋が何度目なのか言わない。


 「おかけください。まもなく開始します」


 係員がマニュアル通りの笑顔を作る。

 その笑顔の筋肉には、何度も練習した跡がついている。

 揺れないための笑い方。


 私は後ろの列の端に座った。

 背もたれは少し柔らかい。

 緊張を吸うための配慮かもしれないし、長く見せるための罠かもしれない。


 照明が落ちる。

 スクリーンに「感情災害(Eruption)について」と文字が現れた。


 落ち着いた女の声が、天井から降りてくる。


 「かつて、この都市は、ひとつの災害によって大きな被害を受けました。

  それが、“感情災害(Eruption)”です」


 画面に、やわらかい線で描かれた街の俯瞰図が映る。

 実写ではない。

 線画と、薄い色の塗りつぶし。

 地図アプリのやさしいモードみたいな街。


 「ある日、明確な前兆もなく、都市各地で情動指数が急激に上昇しました。

  不安、恐怖、怒りが連鎖し、人々は自傷行為、放火、暴力行為へと駆り立てられていきました」


 線で描かれた人型が、頭を抱え、うずくまり、暴れる。

 火の色だけが、他より少しだけ濃い。

 でも血は描かれない。

 崩れた骨も、焼けた皮膚も、ここにはない。

 本物の映像は、きっとどこかにあるはずなのに、ここには一枚も使われていない。


 「特に、下層居住区では、狭い空間と密集した居住環境のため、

  感情の連鎖が一気に広がりました」


 画面がズームし、地図の下側に赤い色が広がっていく。

 上層のブロックは淡い橙色で止まり、下層のブロックだけが真っ赤になる。


 私は無意識に、画面の左下を見た。

 地区番号。

 棟コード。

 配達の仕事で何度も見た記号が、ゆっくり焼かれていくみたいに赤くなっていく。


 そこには、私とレンが暮らしてきたエリアの番号も含まれていた。


 「情動保安局(当時は“都市情動対策部”)は、

  懸命な鎮静活動の末、事態を収束へと導きました」


 画面に、今より少し古い制服の鎮静官たちが描かれる。

 白いマスク。

 眩しくない範囲のライト。

 伸ばされた手。


 誰かの腕を掴んで引き止めている。

 でも、掴まれた側の顔は描かれない。

 倒れている人の輪郭も、曖昧なままぼかされる。


 「この悲惨な出来事を二度と繰り返さないために、

  Emotion Control Act──情動抑制法が制定されました」


 文字が画面に大きく出る。


 Emotion Control Act。

 その下に、見慣れた条文の一部が流れていく。

 「市民は日常的な情動指数の維持に努める義務を有する」

 「強い情動状態を誘発、助長する行為はこれを禁ずる」

 「違反者に対しては、適切な更生措置を講ずる」


 「感情を抑えることは、私たち自身と、

  周りの人々を守るためのやさしさです」


 ナレーションは、そう締めくくった。

 スクリーンに、グレイの錠剤と、バンドのアイコンが並ぶ。

 それらは、救命具か、首輪か。


 映像は全体で五分もなかった。

 短く、要点だけ、だと作り手は思っているのだろう。


 短いのに、妙に長く感じた。


 照明が少し明るくなる。

 係員が前に出てきて、定型句を並べる。


 「本日の映像は以上です。

  ご不明点があれば、各担当までお問い合わせください。

  最初のEruptionを乗り越えたこの都市を、

  今後も安全に保つため、ご協力をお願いいたします」


 協力。

 それは、従うという言葉の柔らかい翻訳。


 前列の中年男性が小さく頷いた。

 付き添いの女は、目を伏せたまま動かない。

 青年は、スクリーンと係員の間の何もない空間を見ている。


 ゆっくりと、人が立ち上がり、出ていく。

 係員が出口の方で「お疲れさまでした」と同じ声を繰り返す。


 私は立ち上がるふりをして、少しだけ動きを遅らせた。

 ほんの少し、足もとの力を抜く。


 「……顔色がすぐれませんか?」


 出口近くにいた別の係員が、こちらを見た。

 目の奥は、心配よりも“手続きの分岐条件”を確認する視線だ。


 「大丈夫です。すこし、目が回っただけで」


 私はそう答える。

 嘘ではない。

 地図の赤と、さっきの記録室の黒い帯が、頭の中でまだぐらぐらしている。


 「少しこちらでお座りいただいても構いませんよ。

  次の案内まで、少し時間がありますから」


 係員は、視聴室の後ろ側の壁を指さした。

 そこに、小さなカウンターと、立ったままでも使える端末が二台並んでいる。

 「説明資料閲覧用」と小さくプレートが貼ってあった。


 こういう端末は、どの啓発ルームにもある。

 「ちゃんと学んだ」という記録を残すための、半分は市民向けで半分は施設向けの窓口だ。


 補足資料。

 教本の余白。


 「ありがとうございます。少し……見てもいいですか」


 自分でも驚くほど自然な声が出た。

 係員は「どうぞ」とだけ言って、出口の方へ戻っていく。


 視聴室の中には、もう誰もいない。

 スクリーンは真っ白に戻っている。

 白い壁と、白い光。


 私は端末の前に立った。


 さっきと同じように、診療番号カードを取り出す。

 左下のスロットへかざす。


 カチ。


 画面が暗くなり、《認証中》の文字が点滅する。

 一瞬だけ《権限不足》の赤枠が出て、すぐ消えた。


 画面が切り替わった。


 《教材補足資料》

 《Eruption関連統計》


 一覧が並ぶ。


 「発生当時の情動指数推移(区域別)」

 「人口分布と被害レベルの相関」

「介入タイムライン(ESB・対策部)」


 私は、まず「区域別推移」を選んだ。


 画面にグラフが現れる。

 横軸に時間。

 縦軸に平均E-Index。

 線が何本も重なっている。

 線ごとに、区域コードが割り当てられている。


 最初に跳ね上がった線は、最下段の下層地区ではなかった。


 上層居住区のラベル。

 特別棟のコード。

 そこから、指数が先に立ち上がり、そのあとに別の区域が連鎖している。


 映像では「都市全域で同時に」「特に下層で被害が拡大した」と言っていた。

 この線は、「同時でも、下層発でもない」と言っている。


 私は別の表示モードに切り替えた。

 「熱マップ」というアイコンがあった。


 指で触れると、地図ビューに変わる。


 Eruption発生当時の都市俯瞰図。

 さっきスクリーンに映っていた線画の街より、少しだけ情報量が多い。

 配達コードで見慣れたブロック名とエリア境界線が、そのまま使われている。


 時間のバーを少しずつスライドする。


 最初の数分。

 上層特別区の一角が、じわっと橙色になる。

 次の数分で、その周囲が黄色に変わる。

 それから、一気に地図の下側へ、赤い筋が走る。


 あたかも、何かの線を伝って流れ込んだみたいに。

 自然な波紋というより、“配線”を通って流されたような広がり方。

 地下を走る電力ラインか、都市OSのデータ回線みたいに。


 私はバーを行ったりきたりさせた。

 線が戻り、また走る。

 上層から下層へ。

 特別区から、居住区へ。


 「……」


 言葉は出ない。

 代わりに、配達のルート図が頭の中で重なった。


 上層の特別棟に届ける荷物は、必ず一度、中央のハブを通る。

 そこから、地下のベルトラインを経由して各フロアへ散る。


 この赤い筋の走り方は、あのベルトのラインに似ていた。


 自然に広がったのか。

 それとも、どこかから“流された”のか。


 私は切り替えボタンを押し、「人口分布と被害レベルの相関」を開いた。


 表と、もう一枚のグラフ。


 人口密度と、負傷・死亡・行方不明の件数。

 下層のブロックには、赤い印がいくつも並び、数字が横にぶら下がっている。

 上層のブロックにも印はあるが、数字は小さい。

 「行方不明」の項目は、上層ではほとんどゼロに近い。


 下層では、行方不明の数字が不自然に多い。

 「死亡」の数字と、「行方不明」の数字を足すと、人口の何割かになる区もある。


 「……鎮圧」


 映像でそう言っていた。

 鎮静のための介入。

 その結果、数字の中に溶けていった人たち。


 私は気づかないふりをしていた記号を、ひとつひとつ拾い上げるような気分になった。


 自分たちの住んでいたブロックのコードを探す。

 LZ-4F。


 画面の中で、そのブロックが真っ赤な円で囲まれている。

 「被害レベル:最深」

 「行方不明:高」

 「事後調査:完了」


 完了。

 何が、どう終わったと、誰が決めたのか。


 あのブロックで私が覚えているのは、

 朝のパン屋の行列と、雨漏りする廊下と、

 レンがよく立ち止まっていた角の柱くらいだ。

 どこにも、「災害」の跡なんてなかった。


 私の記憶に、あの区画での「災害の記憶」はない。

 街には碑も、花もない。

 ニュースも、特別番組もない。


 あるのは、Red判定者が多いというレッテルと、

 収容施設の案内ポスターだけだ。


 最初から危険だったのか。

 危険だと決められたから、そこに危険が集まっていったのか。


 私は目を閉じた。


 波形。

 黒い帯。

 赤い地図。


 全部が、頭の内側で別々の場所からやってきて、

 一箇所に重なろうとしている。


 再び目を開け、別の項目を選んだ。


 「介入タイムライン(ESB・対策部)」。


 時間軸に沿って、どのタイミングでどの部隊が投入されたかを示す表。

 そこに、細かい注釈リンクがいくつも付いている。


 私は、適当に見えるリンクをひとつ開いた。


 《E.C.A都市情動研究班 レポート13抜粋》


 短い文章。

 「Eruption時における情動波の空間伝播特性」についての要約。


 その末尾に、関係者クレジットが並んでいる。


 主任の名前。

 データ解析班。

 OS統合担当。


 アルファベットと数字が混じったIDの列の中に、目にひっかかる綴りがひとつあった。

 「SIG-07」と読み取れる文字列。

 個人名なのか、部署コードなのか、判別はつかない。

 舌で転がすと、短い音になりそうな綴り。

 意味は分からないのに、目の裏側にだけ残った。


 指先が、そこに触れそうになった。

 触れたところで、何が出てくるわけでもないと分かっていても。


 私は指を止める。

 代わりに、画面を閉じるボタンへ向けた。


 視聴室の外から、足音が近づいてきたからだ。


 係員の靴。

 一人分。

 その後ろに、もうひとつ別の靴音が重なる。


私は統計画面に戻し、端末から半歩下がった。



 スクリーンはまだ真っ白だ。

 あの啓発映像の色は、もうどこにも残っていない。


 扉が開く。


 「お待たせしました。ご案内できます」


 係員の声が入ってくる。

 その後ろで、一瞬だけ黒い影が動いた気がした。

 廊下の向こうを通り過ぎる、黒いコート。

 白いマスク。


 振り向いたときには、その姿はもう扉の影に消えていた。


 係員は、私のすぐ横には来ない。

 少し距離を保ちながら、「大丈夫ですか」とだけ尋ねる。


 「はい」


 私はうなずく。

 バンドを見ている視線を感じる。

 数値は安定している。

 安定しているように、必死に抑えている。


 端末の画面には、今は「全体的に安定」という緑の文字だけが表示されていた。

 さっきのグラフも、地図も、名前も、そこには映っていない。


 「行きましょうか」


 私は端末から離れ、係員の後を歩き出した。

 視聴室を出る前に、もう一度だけ振り返る。


 白いスクリーン。

 何も映っていない壁。


 あの壁に、本当はどれくらいの映像が乗っていたのか。

 どれくらいの炎と、どれくらいの泣き声と、どれくらいの沈黙があったのか。


 「災害」という言葉は、

 誰の痛みを守るために使われ、

 誰の痛みを隠すために使われているのだろう。


 上層の痛みは、公式映像には出てこない。

 数値の黒い帯の下に押し込められ、

 抜き取られた揺れは、別の場所へ運ばれる。


 下層の痛みは、赤い地図として教本に残される。

 「危険」や「暴走」の印として。


 この都市のやり方は、一貫している。


 見せたいものだけを、見せる。

 見せたくない揺れは、黒く塗りつぶすか、どこかへ配達する。


 この施設のログは、世界の宛先表だ。

 誰の感情が、どこで切り離され、

 どこへ“再配達”され、

 どこで商品になるかの。


 ミラは「中枢のログを取ってこい」と言った。

 ここで見えたのは、その外側の、ごく一部だ。


 でも、それだけでも十分だった。


 レンを連れていったのは、

 ただの鎮静官一人の判断じゃない。


 この街の歴史の書き方と、

 痛みの置き方と、

 配達先の決め方だ。


 そのどこかが、決定的に間違っている気がした。


 私は何も言わず、係員の背中の少し後ろを歩く。

 歩幅を一定に保ちながら、胸の奥でひとつだけ決める。


 あの教本に書かれていない揺れを、

 黒い帯の向こう側まで含めて、

 自分の目で見てから、判断する。


 中枢のログ。

 都市全体の配達記録。


 そこまで行かなければ、

 この街で、何が起きたのかを本当に知ることはできない。


 廊下の角を曲がった先に、

 レンの方角と、都市の中枢が、少しずつ重なり始めている気がした。

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