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EMOTION CONTROL ACT ―その涙は違法です―  作者: 鳥のこころ


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第8話 黒塗り

初期棟の奥は、さらに静かだった。


 待機室から出されるとき、何も説明はなかった。

 「一時的な情動変動です。問題ありません」

 そう言われただけだ。


 問題がないなら、あの女の膝はなぜ床についたままなのか。

 そういう問いは、ここでは“問題”に含まれない。


 廊下を歩くあいだ、係員の足音だけが前で均等に並ぶ。

 私の足音は、その一歩ぶん後ろを追いかける。

 追いかけ続けると、どちらが前でどちらが後ろか、よく分からなくなる。


 「こちらへ」


 係員が止まった。


 扉に「記録整理室」と書かれている。文字のフォントは、街中の案内と同じだ。

 ただここでは、その文字が“入口”じゃなく、“入口の前に置かれたフィルタ”に見える。

 記録は整理される。整理された記録だけが、残る。


 中に入ると、小さな事務室のような空間があった。


 壁に沿って端末が三台。

 向かい合わせのデスクが二組。

 椅子が六脚。


 無臭。

 無音。

 紙は一枚も見当たらない。


 「ここでお待ちください。数値は安定していますが、最終確認がありますので」


 係員はそう言って、端末のひとつにログインする。

 画面の中だけが、忙しく動き出した。


 私は部屋の隅の椅子に座るよう指示される。

 端末から少し離れた位置。

 「関係はあるけれど、触る必要はない人間」のための距離。


 椅子に腰を下ろす。

 視線は床へ落とす。

 落としながら、視界の端で端末の画面の光の動きを拾う。


 棒グラフ。

 折れ線。

 円。


 統計の形をした、人々の揺れ。


 係員の指が、無造作にそれらを切り替えていく。

 切り替えるたびに、誰かの一日の波がまとめられ、平均化され、数字に溶けていく。


 「……少々お待ちください」


 内線の呼び出し音が鳴った。

 係員が首を傾け、通話ボタンに手を伸ばす。


 「はい、記録整理室です──」


 そのまま、部屋の外へ一歩出た。

 扉は閉められないまま、係員と声だけが廊下の方へ伸びていく。


 端末の前が、空いた。


 ミラの声が、地下の湿った空気ごと頭の中に蘇る。


 ――施設の端末を見つけたら、左下のスロットにこれをかざしな。

 ――閲覧だけなら、向こうのシステムが勝手に「担当者」だと誤解して開いてくれる。


 渡された診療番号カード。

 バンドと紐づけられた偽装ID。

“診療枠”という名の、観察対象。


 私は椅子から立ち上がった。


 立ち上がる動作を、焦りではなく“指示を待つ患者の小さな体勢変更”に見せる。

 扉の方を一度だけ見る。

 係員の声が、まだ廊下の奥の方で何かの確認をしている。


 足音は近づいてこない。


 私は端末の方へ歩いた。


 歩幅を広げない。

 速度を上げない。

 ただ、そこに水を飲む機械でもあるかのように、まっすぐ向かう。


 端末の前に立つ。


 画面には、先ほどの統計の一覧が並んでいた。

 「情動変動指数 週次推移」

 「違反件数分布」

 「棟別安定性スコア」


 いずれも、感情を“揺れた”順に並べるためのグラフだ。


 私は診療番号カードを取り出し、左下のスロットへかざした。


 カチ、と小さな音がした。


 画面が一瞬だけ暗くなる。

 《認証中》の文字が点滅し、

 続けて一瞬だけ、《権限不足》という赤枠が浮かんで消えた。


 息が、肩のあたりで固まる。


 すぐに画面が切り替わる。


 《閲覧権限:ローカルログ(閲覧のみ)》

 《認証:済》


 私は固めていた息を、音を立てないように吐き出した。


 画面にリストが並ぶ。


 《情動ログ 今日》


 時刻。

 個別ID。

 棟番号。

 階層タグ。

 短いメモ。


 さっきの待機室の時刻のところに、見覚えのある番号がある。

 待機室の番号と一致する棟コード。


 指を画面に滑らせる。

 触れた場所が波形に変わる。


 《対象:待機室B-03》

 《情動種別:Fear(恐怖)》

 《最大揺れ:1.03》

 《平均揺れ:0.72》

 《対象人数:7》

 《処置:鎮静投与/経過観察》


 波形が、さっきの部屋の空気をなぞるみたいに立ち上がっては沈んでいる。


 女が膝をついた瞬間。

 男の肩が固まった瞬間。

 少年のバンドが点滅した瞬間。


 全部が、この薄い線の中に押し込められている。


 さらにスクロールすると、個別のログが出てきた。


 《ID:B03-02 階層タグ:General》

 《揺れ種別:Fear/軽度》

 《記録:情動漏洩による一時的変動。鎮静後、数値安定》


 文字数は少ない。

 その少なさが、かえって重い。


 「……こうやって、書き換えるんだ」


 「災害」じゃなく、「一時的変動」。

 「壊れかけた部屋」じゃなく、「鎮静後、安定」。


 数字の外にあったわたしの感覚は、ここでは存在しないことになっている。


 私は息を整え、フィルタの項目を探した。


 階層タグ。

 棟区分。

 情動種別。

 処遇。


 「Calm Class」のチェックボックスを見つける。

 そこに指を置く。

 押す前に、ほんの少しだけ躊躇した。


 躊躇は、期待の手前だ。

 期待を持つと、落差が揺れになる。


 私は指を下ろした。


 画面が切り替わる。


 一覧が静かに並び替えられる。

 上層居住区のコード。

 特別棟の番号。

 その横に、さっきと同じように時刻とIDが並ぶ。


 ただひとつ違うのは、波形の部分だった。


 さっきまで線が走っていた場所に、黒い帯が引かれている。


 波形全体を覆うように、長方形の黒が乗っている。

 そこだけ、画面が抜け落ちたみたいに沈んでいる。


 《閲覧権限制限》

 という薄い文字だけが、その上に重なっている。


 私は別の行を開いた。


 《ID:U21-17 階層タグ:Calm》

 《情動変動:記録済(要権限)》

 《処遇:特別枠》


 波形は見えない。

 揺れの高さも、形も、どの感情だったのかも、全部黒い帯の下に隠れている。


 「……何もないから、痛みがないわけじゃない」


 思わず、心の中で言葉が組み上がる。


 痛みがないように見えるのは、

 最初から何も起きていないからじゃない。

 起きたものが、ここから“見えない場所”に移されているからだ。


 線の代わりに置かれた黒。

 波の跡ごと、蓋をされた画面。


 塗りつぶされた揺れは、どこへ行くのだろう。


 スクロールを続ける。


 黒い帯──いや、波形の欄がどこも一様な影に塗りつぶされた一覧が続く。

 時刻とIDと、曖昧なメモだけが延々と並ぶ。


 その中に、一つだけ違う表示があった。


 《ID:U19-05 階層タグ:Calm》

 《情動変動:Anger(抑制済)》

 《二次利用:情動カセット化処理済》

 《搬出ログ:LZ-4F-K-…》


 Anger。

 怒り。


 そこだけ、情動種別の文字が黒塗りじゃなかった。

 ただし波形は、やはり黒い影の下に隠れている。


 下に小さく書かれた搬出ログのコードが目に入る。


 LZ。

 4F。

 K。


 地下市場で、ミラのブースの奥の棚に貼られていたラベルを思い出す。

 「LZ-4F」の文字。

 “出どころは気にしない方がいいよ”と言って笑った顔。


 上層の怒り。

 抑制済みのAnger。


 これがカセットに変えられているのかもしれない。

 搬出先のコードを見て、そう思わずにはいられなかった。


 送られた先のひとつが、地下なのではないか。

 その考えが、喉の奥に小さな棘みたいに引っかかる。


 私は喉の奥がひゅっと狭くなるのを感じた。

 狭くなる感覚が、そのまま数字に変換されそうで、すぐに息を整える。


 ミラは“届ける”ことに迷いがない。

 宛先さえあれば、どんな感情でも商品になる。


 ここで抜かれた怒りは、

 上では見えないままにされ、

 どこかで売り物になっているのかもしれない。


 痛みの空白は、空白じゃない。

 ただ、見せないだけだ。


 私はさらにスクロールしようとした。


 指が動く前に、外から足音がした。


 複数。

 硬い底の靴が二人分。

 片方は、聞き覚えのあるリズムだった。


 私は画面左上の戻るマークを押した。

 統計画面に戻る。

 円と棒グラフと折れ線。

 「全体的に安定」と緑の文字が並ぶ画面。


 端末の前から半歩下がる。

 振り向く。


 扉のところに、係員と、黒いコートの影が立っていた。


 鎮静官。


 白いマスク。

 無駄のない背筋。

 一度だけ見たことのある歩き方。


 レンが連れていかれた夜の路地。

 私の涙を見逃した矛盾。


 目元はマスクで隠れているのに、

 視線がこちらをかすめた感覚だけは分かった。


 目が合ったわけじゃない。

 でも、見られた気がした。

 バンドではなく、内側の揺れの方を。


 鎮静官は何も言わず、係員に視線だけを送る。


 「数値は安定しています。先ほどの変動も、一過性のものとして処理されています」


 係員が端末を操作し、画面に安定グラフを表示させる。

 緑色のラインが水平に近い角度で続いている。


 「問題はありません」


 表示されたのは、「問題なし」とラベルのついた世界だった。


 黒く塗りつぶされた波形も、

 Angerの文字も、搬出コードも、そこには映っていない。


 鎮静官は短く頷き、踵を返した。

 コートの裾が、白い廊下の空気を少しだけ揺らす。


 揺れはすぐに元の白に吸収された。


 「診療番号の方、こちらへ」


 係員が私に向き直る。


 私は端末から離れ、呼ばれた椅子へ向かう。

 歩幅を一定に保つ。


 座る前に、もう一度だけ端末の画面を見る。


 そこには、何も映っていない。

 揺れも、黒も、怒りも。


 ただ、「安定」という二文字だけが、静かに点っていた。

 その裏側で何が削られたのかは、この画面には含まれない。


 私はゆっくりと腰を下ろした。


 ミラは「中枢のログを取ってこい」と言った。


 ここにあるのは、枝の先の、加工済みの一部だけだ。

 それでも、十分にわかった。


 上層の痛みは、

 なかったわけじゃない。


 抜かれ、塗りつぶされ、

 別の場所へ配達されている。


 この施設のログは、世界の宛先表だ。

 誰の感情が、どこへ捨てられ、どこへ“再配達”され、どこで商品になるかの。


 私は胸の奥に残っている、さっきの恐怖の残滓に指を触れるような気持ちで、ひとつだけはっきりと決めた。


 黒い帯の向こう側まで届く記録を、手に入れる。


 中枢のログ。

 都市全体の配達記録。


 それを見なければ、レンの行き先も、この都市の行き先も変えられない。


 「まもなくご案内します」


 係員の声が、室内の白い空気に溶けた。


 私は何も言わず、ただ前を見た。

 目の前には、何も書かれていない壁がある。


 そこに、黒い帯の向こうに隠された揺れを、勝手に想像しないようにする。

 想像は揺れになる。

 揺れは、まだここでは使えない。


 使う場所は、もっと奥だ。


 レンのいる方角と、

 都市の中枢が重なる場所。


 そこへ向かうために、私は呼び出しの声を待った。


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