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EMOTION CONTROL ACT ―その涙は違法です―  作者: 鳥のこころ


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第7話 小さな事故

 右手の袋の重みを確かめた、次の瞬間だった。


 廊下の白は、外の白より薄いのに、息を吸うたび肺の奥へ沈んでいく。白が視線を返さない。返さないから、自分の影だけが内側から濃くなる。歩幅を一定にしているはずなのに、足音が自分の骨に当たって反響する。


 壁に埋め込まれたカメラが、私を見ている。見えない目の集合。目がある場所ほど無音が厚い。


 「診療番号」


 前を歩く係員が、私を名前じゃないもので呼ぶ。私はカードを胸の位置まで上げ、頷く。頷きの角度に余計な揺れが入らないように。


 係員は扉の前で止まり、端末を一度かざす。扉が音もなく開いた。


 中は待機室だった。初期棟の端にある、小さな箱。椅子が同じ間隔で並び、壁は同じ色で、天井の光は同じ強さで落ちている。同じ、同じ、同じ。ここにいる人間から、違いを抜くための部屋だ。


 椅子にはすでに数人が座っていた。


 目を合わせない。

 声を出さない。

 それでも、体の向きや指の動きのクセが、互いの数字を警戒しているのがわかる。


 私は一番端の椅子に腰を下ろした。背中をつけすぎない。背筋が固まると数字が揺れる。揺れはいたくない。痛い、は言ってはいけない語彙だ。


 天井のスピーカーから、無味の案内が流れる。


 「Red再計測は同期直前に行います。待機室で動かずにお待ちください」


 Red再計測。

 私のためじゃないはずの言葉が、胸の奥に薄く刺さる。


 私の外装バンドはCalm向けだ。数値も低い。低いから通った。それでも、ここは施設だ。間違いは利用される。利用されたあとに“正しい手順”として整えられる。


 隣の椅子に座る少年が、小さく肩で呼吸している。静かに、でも早い呼吸。唇が乾いて、指先が膝を掴んでいる。膝を掴む手に力が入りすぎると、数字が上がる。上がれば、ここに来た意味が増える。意味は危険だ。


 私は視線を床に落とした。床の白い点々を数える。数えると呼吸が一定になる。一定になると、世界が一拍だけ楽になる。


 扉の外で、カートの車輪の音がした。


 金属が滑る、湿らない音。

 白い空間にだけ許された機械の足音。


 扉が開き、白衣のスタッフが二人入ってきた。間に細いカート。上には透明なケースが二つ載っている。透明と言っていいのか分からない透明だった。色がないのに、奥行きだけが濃い。


 スタッフは誰にも声をかけない。声をかけないまま、壁際の端末の前でカートを止める。端末の斜め下に、カセット用のスロットが口を開けていた。


 「動かないでください」


 言葉は短い。熱のない命令。


 少年の肩が一度だけ跳ねた。跳ねたのが意味になりそうで、私は目を逸らす。逸らしたまま少年の数字の気配だけを読む。読むけど掴まない。掴まない、掴まない。


 スタッフの一人が透明ケースを持ち上げ、スロットに差し込む。

 カチ、と端末がそれを噛んだ音がした。


 画面が立ち上がる。

 スタッフの指が、その上で一瞬止まる。

 操作を待つように、白い枠が点滅する。


 誰も触れていないのに、枠が勝手に消えた。


 表示が切り替わる。


 《局所還元テスト開始》

 《対象:情動カセット No.2847》


 普段なら、この待機室で見ることはない種類の文字列だと、直感でわかった。


 スタッフの眉が、ほんの僅かに動く。

 説明を求める前に、端末のスロットから音のない風が一度だけ吐き出された。


 風と呼ぶには薄すぎる。

 でも空気の角度が変わるのが分かった。

 匂いがないはずの部屋に、匂いみたいな“手触り”が立つ。

 視界の端に、色じゃない色が滲む。


 スタッフが停止ボタンへ手を伸ばした。遅い、というほどの遅さでもない。

 ただ、その半拍より、波の方がわずかに速かった。


 薄い膜のようなものが端末の前から立ち上がり、部屋の中を這っていく。


 誰の感情でもないはずの波。

 でも誰のものでもない波が、誰かの中で勝手に形を取る。


 最初に変わったのは、座っていた中年の女だった。


 女の瞳が開く。開いたまま一点に留まる。

 その目が、何か“逃げ道”を探すように微かに泳いで、すぐ凍りつく。

 口がわずかに開いて、息が止まる。止まった息が、次の息を呼べない。


 次に、壁際の男が椅子の背を握りしめた。指が白くなるのに、力を抜けない。

 肩が引く。引いた肩が、戻り方を忘れたみたいに固まる。

 固まったまま、視線だけが落ち着きなく左右へ散る。


 声は出ない。

 泣き声も叫び声もない。


 ないのに、部屋ごと密度が上がっていく。


 少年のバンドが短く震えた。

 点滅。

 彼の数字が跳ねる。


 私の手首の内側も、薄く一度だけ熱を持つ。

 0.35のまま、上がろうとする“気配”がある。

 気配は数字の手前だ。

 手前にいるうちは、歯を食いしばって戻せる。


 私は息を吸って吐く。

 吸う時間と吐く時間を揃える。

 揃えるだけで、体の奥の揺れが少し引く。


 けれど波は、呼吸より速い。


 部屋の誰かが、無言のまま床に膝をついた。

 膝をついた姿を見ると、そこにあるはずのない“理由”が生まれそうになる。


 理由は感染する。

 感染が、災害になる。


 私は目を閉じ、耳だけで波の方向を読む。

 運び屋のとき、カセットの漏れを避けるために身につけた感覚。

 薄い膜の厚さ。

 空気の温度の変わり方。

 皮膚の裏に触れる“圧”。


 これは――恐怖だ。

 輪郭のない恐怖。

 喉の奥で鳴らない呼吸になったまま、吐き出されなかった恐怖。


 恐怖は、静かに、でも真っ直ぐに人の中へ入り込む。

 入った先で勝手に増える。

 増えた恐怖は、次の恐怖を呼ぶ。


 少年が短く息を吸い、吸ったまま止める。

 止めた瞬間に、彼の肩が震えた。


 1.00。


 点滅域。


 私は咄嗟に少年の前の床へ視線を落とす。

 視線を落とすだけで、彼の呼吸が少しずれる。

 ずれた呼吸の隙間に、私は自分の呼吸を滑り込ませる。


 「息、合わせて」


 声を出さない。

 口の形だけで言う。


 少年の喉仏が上下した。


 0.98。

 0.95。


 戻りかける。


 しかし別の椅子で、誰かが立ち上がった。


 立ち上がりは、恐怖の最悪の形だ。

 逃げようとする。

 逃げると、逃げの波が生まれる。


 ドン、と椅子が倒れる。

 倒れた音が、また別の誰かの内側を叩く。


 波が増幅する。


 たった一室の中で、感情の地滑りが起きている。


 私はその地滑りの速度を、体で測っていた。

 秒ごとに増える揺れ。

 半径を広げる伝播。

 この薄さでこれなら、もし波が都市に出たら――


 私は初めて、数字じゃなく、世界そのものの壊れ方を想像しかけた。


 想像すると、胸の奥が熱を持つ。

 熱は危険だ。

 私はすぐに、想像の入口を閉める。


 スタッフが動いた。


 動きは早い。

 早いのに無音だ。

 無音で、正確で、ためらいがない。


 「動くな」


 短い命令が上から落ちる。


 別のスタッフが、倒れた椅子の横にしゃがみ、注射器を首筋へ刺す。

 刺す角度が、荷物の固定と同じだ。

 声を上げる前に、対象の身体が沈む。


 壁際の端末のスロットから、まだ微かな波が吐き出されている。

 スタッフは緊急停止ボタンを押し、スロットの上に遮断用のカバーをかぶせた。

 かぶせると、空気の揺れが少し減る。


 減る、はずなのに。


 係員の端末が、机の上で立ち上がった。

 画面に、薄い波形が走っている。

 波形の横に「情動漏洩:微量」「拡散半径:4.2m」「収束予測:68秒」と無機質な表示。

 その右下に、ほとんど見えない小さな文字で――「学習中」。


 数値化。

 分類。

 記録。


 波は、ここでは“現象”として扱われる。

 人の中の何かとしてじゃない。


 スタッフの一人が私の方へ歩いてきた。

 私の外装バンドを一瞥する。

 「診療枠」タグを確認する視線。

 視線が、私の体温に触れない。


 私は息を揃えたまま、視線を床に置き続ける。


 スタッフは何も言わず、通り過ぎた。

 通り過ぎる直前、隣の少年の手首を掴み、別の側室へ引きずる。


 少年は声を出さない。

 声を出さないまま、連れていかれる。


 スタッフの手は、やさしい手順じゃない。

 でも上層の服の男が壁際で震えかけたときは、別の白衣がすぐに寄り添って支えた。

 支える手の角度が、さっきの掴む手と違う。


 違いは、ここにもある。


 波は、やがて薄れた。


 椅子に戻された人たちの肩が、ゆっくり落ちる。

 落ちるたびに、部屋の密度がほどけていく。

 ほどけた後の空気だけが、妙に冷たい。


 私は自分の外装バンドの内側の熱が、ようやく引いたのを感じた。

 数字を見なくても分かる。

 引く、という感覚は数字の外側で先に起きる。


 この程度の薄い漏れで、部屋は壊れかけた。


 壊れかける速度も、連鎖の仕方も、私の身体に焼きついた。


 感情を一気に撒けば、世界は救われる――

 そんな簡単な話じゃない。


 撒いた瞬間、まず壊れる。

 壊れた後に、誰が拾うかは分からない。


 拾うのは、都市だ。

 拾うのは、手順だ。

 拾うのは、感情を持たない誰かだ。


 私はその結論を、言葉にしないまま、ただ胸の底に沈めた。


 スタッフが端末のログ画面を開き、何かを確認している。

 閉じる前に、画面の一部が黒く塗られているのが一瞬だけ見えた。


 黒い帯。

 そこだけ、波形が途切れている。


 見間違いかもしれない。

 でも見間違いでないなら、記録は途中で消されている。


 私は立ち上がった。


 立ち上がる動作を、驚きに見せない。

 ただ指示された通りに動く患者として。


 身体の内側にだけ、さっきの薄い恐怖の残滓が残っている。

 残滓が残っているから、私は次の宛先を決められる。


 この施設の記録を、見なければならない。

 黒く塗られる理由を、確かめなければならない。


 そのために、私は奥へ進む。


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