第6話 偽装と施設門前
明け方前の地下は、いちばん静かだ。
市場の灯りが落ち、通路の奥で誰かが咳き込む音が一度だけ響き、それきり何も起きない。静かさの中にあるのは眠りじゃなく、待機だ。地下はいつも何かを待っている。数字か、荷か、回収か。
私は袋を肩にかけたまま、ミラのブース前に立っていた。
ギドが無言で近づき、私の手首に薄い外装をかぶせる。情動バンドの外側だけが別の型番に変わる。触れられると、皮膚の下の機械が一瞬だけ冷える。冷えたぶんだけ、私の呼吸が整う。
「診療枠の型番。Calm向けのやつだ」
ミラが言った。
診療枠。治療の名を借りた採取の入り口。私はその言葉を胸の中で転がさない。転がすと角が立つ。
ギドが次に差し出したのは、白い小さなケースだった。空の薬容器。だけど蓋の刻印は本物と同じだ。私は受け取って、ポケットに入れる。
「持ってるだけでいい」
ミラが言う。
「見えれば手順が通る」
手順。ここから先は、手順を利用するしかない。
ミラは足元の端末を閉じ、指先でテーブルの縁を二度叩いた。値段を暗算するときの癖みたいなリズム。そのリズムが、今は合図に聞こえる。
「行く道は覚えてるね」
私は頷く。
「旧連絡通路。地上の記録じゃ物流層扱い。監視が薄い」
言い切ると、地下の湿った壁が一瞬薄くなる気がした。穴を知っていることは、生き延びる技術だ。
「門前で余計なことは考えない」
ミラが言う。
「考えた瞬間、数字が動く。門前は数字しか見ない」
私はもう一度頷いた。頷きの角度を小さくする。
「名前は“ユイ”じゃない」
ミラが短く言う。
「診療番号で呼ばれたら、返事するだけ」
診療番号。名前より安全な語彙。
「……了解」
それだけ言って、私はブースを離れた。
地下の通路は長い。長いのに、いつも短く感じる。地上へ出るときの距離だけは、都市が決めている気がする。私は壁に沿って歩き、古い鉄の階段を上った。
鉄扉のセンサーに手首を近づける。
0.36。
低値。偽装認証の範囲。扉は音もなく開く。
冷たい無臭が流れ込んだ。鼻の奥が一瞬ひりつく。地下の匂いが背中にすがりついたまま、私は白い街へ出た。
夜明け前の地上は、昼よりも整って見える。街灯の白が均一で、影が薄い。足音が吸われる。空気が軽い。軽いから、歩くと自分の身体だけが重い。
私は人の少ない道を選ぶ。
選ぶ、という行為に余計な意味がつかないように、ただ最短経路として選ぶ。施設は上層の外縁にあった。白い壁と白い道が続く区域の向こうに、ひとつだけ色の濃い影が立っている。
更生施設。
地上の言葉でそう呼ばれる場所。
近づくほどに、建物の輪郭が平らになる。窓がない。角が少ない。壁の素材が空気の光を吸うみたいに鈍い。無刺激の白じゃなく、吸い取る白。
上空でドローンの羽音が規則的に回っている。規則の音。耳に届くたびに、体が勝手に呼吸の深さを調整する。調整しないと、数字が揺れる。
門前に灯りが点っていた。
門は二つあった。ひとつは物流用の大きな扉。もうひとつが、診療・送致用の入口。白いラインが地面に引かれ、そこに沿って数人が立っている。静かに。視線を合わせない距離で。
患者の列だ。
再調整の“自主来院枠”は、表向きは普通の診療と同じ扱いだ。来る理由は人それぞれ、ということになっている。理由の中身は、誰も問わない。
列の中には、上層の服の人間が混じっている。布の質が違う。靴の音が違う。数字が違う。
小さな白い車が一台、音もなく滑り込んだ。後部座席から、白いコートの男が降りる。バンドの表示は見えない。見えないこと自体が、上層の余裕だ。
彼は列に並ばない。係員がすぐに近づき、別の入口へ誘導した。白い靴音だけが、違う手順の方へ消えていく。
私はそれを見ないふりをする。
見ないふりをした瞬間、胸の奥に薄い引っかかりが生まれかける。引っかかりは感情の芽だ。芽は今ここで育てられない。私は呼吸を一定にして、列の最後尾に立った。
前の女が、ゆっくりと腕を差し出す。係員の端末がバンドに触れ、数字が映る。
0.29。
女は無表情のまま門を通る。
その後ろの男は0.33。次の青年は0.41。数値の列が淡々と処理され、白い扉の内側へ吸い込まれていく。吸い込まれるたびに、門の向こうの静けさが少し濃くなる気がした。
順番が来た。
私は手首を差し出す。
係員の端末が外装バンドに触れた。触れたときの冷たさが骨まで届く。機械が私の皮膚の下の何かを舐めていく感覚がある。私は視線を水平に保つ。目の焦点が揺れると“怖い”の印になる。
端末に数字が浮かぶ。
0.35。
係員が一拍だけ私の顔を見る。
その一拍の中で、私は“家族は一緒に回収される”という手順を思い出しそうになる。思い出したら、数字が上がる。上がれば、回収される。私はただ息を止める。止めたことに意味を与えない。
係員の視線が、私のポケットの白い薬ケースに一度だけ落ちる。
それで十分らしい。
係員は視線を戻し、淡々と頷いた。
「診療番号」
私はギドに渡されたカードを差し出す。
P-…いや、読むな。読むと意味が生まれる。
係員が番号を確認し、端末に入力する。入力が終わると、白い扉の横の細いゲートが開いた。
「中へ」
声に感情が混じらないのが、逆に怖い。
私は一歩踏み出した。
境界を越える足の裏の感覚が、薄い膜を踏むみたいに鈍い。ゲートの内側の空気は、地上の白より冷たい。匂いがない。音が減る。自分の呼吸だけが異常に響く。
背後で、扉が閉まる音がした。
金属の擦れる、短い音。
外の白が、そこで切れた。
それは、配達のとき箱の蓋が閉まる音に似ていた。
届いた合図。
私はその合図に意味を与えないまま、奥へ進む。
廊下は白い。
白いのに、光がないみたいに見える。
天井のラインに沿って、小さなカメラが一定間隔で埋め込まれている。壁の内側から、数字の気配がする。見えない視線。見えない測定。
私は歩幅を一定にし、呼吸を一定にする。一定の身体だけが、ここでは存在を許される。
遠くで、別の扉が開閉する音がした。
誰かの足音が近づく。白い靴底の、規則の音。
私は足を止めない。
止めれば、待機が生まれる。待機が生まれれば、考えが生まれる。考えが生まれれば、数字が生まれる。
私は手順の中を、手順として歩く。
レンの宛先へ向かって歩く。
まだ届いていないものを取り戻すために歩く。




