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EMOTION CONTROL ACT ―その涙は違法です―  作者: 鳥のこころ


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第4話 涙の逃走

 窓の外の灰色は、夜になっても薄く沈んだままだ。昼と夜の境目がどこにあるのか、この街ではいつも曖昧で、曖昧なものほど安全だと教えられてきた。安全のために、私たちはいくつもの境目を削り、削ったぶんだけ生活を平らにしてきたのだと思う。


 蛇口の水を出しっぱなしにして、私はレンの方を見ない。見れば意味が生まれる。意味は感情の入口で、入口が開けば数字が動く。


 レンの指先が、テーブルの上でわずかに震えている。小さな震えはまだ数字の外側にいる。でも外側にあるものは、いつもいちばん先に私の胸に触れる。触れた、と認識した瞬間に熱が走る気配がして、私はすぐにその気配から目を逸らした。


 「……なんでもない」


 レンはそう言って言葉の行き先を折りたたんだ。なんでもない、という語彙は逃げ道だ。逃げ道があるうちは、まだ崩れない。


 私は頷いた。頷き方を小さくする癖が、最近はもう身に染みついている。


 夜の同期まで、あと少し。無音字幕のニュースが壁に流れている。《違反件数:本日14件》の次に、《Red判定:3件》。さらに《更生施設への送致手順、改定》。文字だけが滑っていく。刺激を抜いた文字のはずなのに、改定という語はいつも冷たい棘みたいに残る。


 レンの指がふっと止まった。止まったまま字幕を見ている。何も言わないのに、視線の形だけで引っかかりが伝わってくる。


 やがて情動バンドが皮膚の下を三回震わせた。合図。私は立ったまま呼吸を一定に保つ。数字を確認する必要はないのに、目の端で表示を拾ってしまう。


 0.38。


 平らだ。平らでいればいい。


 レンのバンドが続いて震える。カチ、と小さな音。表示が浮かび、すぐ消える。


 0.61。


 朝の0.54より高い。高いだけで危険というわけじゃない。でも私は差を覚えてしまう。差を覚える癖が、私の仕事を支え、私たちの首を締める。


 レンは私の視線に気づいて肩をすくめた。いつも通りの仕草のはずなのに、今夜のそれはためらいの形に見えた。


 「寝る?」


 規定の挨拶で訊く。


 レンは頷いた。けれど部屋に戻るまでの足取りがどこか決めきれていない。私は見ないふりをした。見ないふりの技術だけは誰にも負けないくらい身についてしまった。


 私はテーブルを片づけ、蛇口を閉め、部屋の空気を整える。整えているはずの空気の中に、整えきれないものが紛れ込んでいる気がして、手の動きがほんの一拍だけ遅れた。


 その遅れと同じタイミングで、レンの部屋のドアが静かに開いた。


 レンが出てくる。さっきより目が冴えている。無表情の練習がうまくいかない顔。


 「外、行ってくる」


 外。夜の外。


 「だめ」


 私は平らに言う。


 レンは小さく首を振った。


 「……匂いがする」


 匂い、という語彙はこの街ではほとんど使われない。香りは禁止されていて、匂いのない生活が正しさになっている。それでもレンは時々こう言う。匂いじゃないものを匂いと呼んでいるのだと、私は知っている。


 「どこかで、ざわっとする」


 声はほとんど揺れていなかった。でも揺れていないのに、背中がもう外を向いている。


 「見ないといけない気がする」


 ニュースの《改定》の棘と、レンの体の反応が、細い糸で繋がっているのがわかる。今夜、どこかで誰かが連れていかれる前触れを、レンは嗅いだのかもしれない。


 私は息を吸って吐いた。その間に、彼の決断が決まってしまうのがわかった。


 レンは玄関で簡易の外履きを引っかけ、扉を閉めた。閉まったことだけが部屋に残る。


 追えば、私の数字が揺れる。

 でも追わなければ、レンの宛先が決まってしまう。


 だから靴を履いた。


 外の空気は冷たく、無刺激設計の匂いのない風が通り抜けていく。街灯は白く、影も薄い。遠くで交通磁気レールの低い唸りが鳴り、すぐ静けさに飲まれた。


 レンの背中が少し先に見える。私は距離を保って歩く。追うように見えない距離、見失わない距離。そんな数え方をしている時点で、私はもう平らじゃないのかもしれないと思いかけ、思いを途中で止めた。


 レンは大通りを外れ、下層の細い道へ入っていく。旧いコンクリートに雨の筋、割れ目に黒い草。都市の整えられた白さが届きにくい場所の色は、灰色の中で少しだけ濃い。


 歩くほどに空気が重くなる。重さに名前はつけない。つけたら胸の中で形が立ってしまう。


 レンが急に足を止めた。


 路地の奥に、誰かがしゃがみ込んでいる。黒いフード。肩に細いケースを背負っていた。地下の運び屋だ、と私でもわかる形だった。


 そのケースが、地面に落ちて割れていた。


 音は小さい。けれど、割れた瞬間に空気が変わるのがわかった。匂いがないはずの街に、匂いが立つ。色のないはずの夜に、目に見えない色が滲む。そんな感じの変化。


 運び屋は慌ててケースを押さえようとする。遅い。薄い膜みたいな何かがすでに路地の中へ流れ出している。


 その瞬間、近くの通行人が一人、ふらりと膝をついた。もう一人が壁に手をつき、息を失うように立ち尽くす。声は出ない。泣き声も叫び声もない。ないのに、この場にだけ“何かが起きている密度”が上がっていく。


 レンのバンド数字が跳ね始めた。


 0.79。

 0.86。

 0.93。


 私はレンの背中に呼吸を合わせる準備をする。彼の吸う間と吐く間に、自分の呼吸を滑り込ませるための微細な調整。調整で、戻す。


 レンの肩が一度だけ上下した。


 0.97。


 戻りかける。


 運び屋が割れたケースを抱え、必死にフードの内側へ押し戻そうとする。押し戻す動きが乱れ、その乱れがまた波になる。誰の感情でもないはずの波。誰のものでもないのに、誰にでも流れ込む波。


 レンの目が、その波の中心に吸い寄せられる。目の奥が揺れた。揺れは数字の外側だ。でも外側の揺れは、いちばん先に数字に火をつける。


 1.00。


 点滅域。


 私はレンの手首に触れた。触れるだけ。掴まない。掴むと感情の行為に見えるから、触れるだけ。


 「レン、息を合わせて」


 声に揺れが出ないように低く言う。


 レンが頷く。頷いたはずなのに、波がまた一段強くなる。


 誰かが路地の奥で、無言のまま顔を覆った。覆う動作は抑制できないほどの体内反射に見えた。反射は感染する。


 レンの数字が赤に触れた。


 1.01。


 赤だ。

 輪郭が、点滅から点灯へ変わる。

 点灯になった瞬間、都市は手順に入る。


 レンのバンドが警告振動を始めた。連続の震え。皮膚の下で虫が走るみたいな感覚。レンは唇を噛み、波の中心から目を逸らせない。


 遠くで羽音が変わった。追跡ドローンが降りてくる。金属の影が壁に落ち、空気が張りつめるのがわかる。


 私はレンの手首を今度は掴んだ。掴みたくないのに掴んだ。掴んだ指先に熱が残る。熱はまだ名前を持たない。


 ドローンが上空で止まる。待機状態。測定完了の合図――のはずなのに、羽音が一拍、乱れた。


 路地の中で複数のE-Indexが同時に揺れている。波の出所が定まらない。都市が「誰を先に回収するか」の選別で迷っているのがわかった。


 その一拍の迷いが、私には永遠みたいに長い。


 路地の入口に、鎮静官が現れた。白いマスク。白い制服。動きは淡々としていて、優しさとも残酷さとも区別できない。


 鎮静官はまず運び屋へ視線を置いた。割れたケースを見て、ほんの一瞬だけ立ち止まる。感情の残滓を嗅ぐような間。


 それからレンの腕を取った。


 薬剤が触れる。レンの身体から力が抜けていくのがわかる。


 「待って」


 私は口から出してしまった。規定の外の語彙。言った瞬間、舌が冷え、喉が詰まる。


 私のバンドが一度だけ震えた。


 0.46。


 低いはずの数字が、上に寄っている。


 レンが崩れ落ちる前に、私を見た。


 目の奥が揺れる。数字の外側の揺れ。測れない揺れ。


 口が動く。声は出ない。でも形だけで、姉ちゃん、と言っている気がした。


 その形に触れた瞬間、胸の奥の熱が一気に上へ突き上げ、喉の詰まりを押しのけて、目の奥をどうしようもなく濡らした。


 涙が、勝手に落ちた。


 一滴。二滴。


 落ちた事実がまず身体に伝わる。理解するより先に、頬を冷たい水が伝っていく感覚だけがあって、私はそれを止める方法を知らない。


 情動バンドが強く震えた。警告振動。皮膚の下で虫が暴れるみたいな連続の震え。


 ドローンの羽音が、また一拍迷う。

 今度は私の涙が、波と同じ種類の“ノイズ”になったのかもしれない。


 そこへ、若い鎮静官がもう一人近づいてきた。


 白いマスクは同じなのに歩き方が少し違う。余分な揺れがない。灯りの直下ではなく、光の縁に半歩ずれた位置に立つ。影を薄くする立ち方だ。


 彼の視線が、私の涙の筋に留まる。留めること自体が例外みたいだった。


 「……それ」


 短い声。


 「自然発生じゃない」


 断定だった。ためらいがない。

 それなのに、私をその場で引き倒す手順に入らない。


 私は返せなかった。喉は貼りついたままで、声を出せば壊れるのがわかる。


 運搬車が路地の入口に滑り込み、レンが乗せられる。荷物の姿勢。宛先のない箱が、誰かの手でどこかへ運ばれていく姿勢。


 扉が閉まる。黒い番号が横切る。番号に意味を持たせてはいけない。でも番号が付いたものは必ずどこかへ届く。


 レンは届いてしまう。


 届いた先から戻らないかもしれない。


 その理解が胸に刺さった瞬間、私の数字がさらに滑り上がる気配がした。


 0.50に触れそうになる。

 家族は、連行の付随物だ。Red点灯者の近親は、同調や隠匿の疑いで低い数字でも回収される。

 触れたら、私も連れていかれる。


 私は息を数え、無理やり数字を沈めた。沈んだぶんだけ胸の奥に空洞が残る。空洞の冷たさが背骨を伝っていく。


 ようやく足が動いた。


 家までの道がやけに短かった。短いはずがないのに短い。感覚に意味を与えないまま、私は玄関の鍵を開け、部屋に入った。


 バンドを見る。


 0.41。


 低い。低いのに胸の中はざらざらしている。ざらざらに名前はつけない。つけたら、また上がる。


 私は立ち上がった。立ち上がって、地下へ向かう準備をする。感情を抑える手順ばかり覚えてきたのに、今夜は手順の外側でしか動けない。


 私はバンドに触れなかった。いじれば、いじった痕が残る。

 代わりに、旧連絡通路の鉄扉へ向かう。


 そこは都市の通信が乱れる場所だ。古い鉄骨と地盤の歪みで、バンドの送信が届きにくい。完璧な監視にも、穴がある。下層の穴は、下層の人間がいちばんよく知っている。


 鉄扉の前に立つ。センサーにバンドを近づける。


 0.39。


 偽装認証の範囲。音もなくロックが外れ、湿った土と油と古い鉄の匂いが漏れた。


 階段を下りる。地下市場のざわめきが層になって耳に触れる。触れたら危ないのに、ここでは触れることでしか生きられない人たちがいる。


 ミラのブースは薄暗い角にある。彼女は壁にもたれて煙をくゆらせていた。私を見ると口の端だけで笑った。笑いの気配が数字に出ないのが、彼女の怖さだ。


 「顔色が灰色じゃないね」


 私は返事をしない。言えば喉から何かがこぼれそうだった。


 ミラは私のバンドをちらっと見る。


 「数字、動いてる」


 動いているのはわかっている。でも止める方法がない。


 「レンが、持っていかれた」


 声は平らにしたつもりだった。平らにしたぶんだけ奥のひび割れが増える。


 ミラの目が一瞬だけ細くなる。細くなって、すぐ平らに戻る。


 「更生施設だろうね」


 その語彙を聞いた瞬間、背中の一部が冷える。私は息を吸って飲み込む。飲み込みに名前はつけない。


 「取り戻せる?」


 私は訊いてしまう。訊くこと自体が今夜の私の限界だ。


 ミラは肩をすくめた。


 「取り戻したいなら、取引だ」


 足元から古い端末を引き寄せ、暗い画面を指で叩く。


 「施設の奥には中枢のログがある。そこに手を出すのは、地下でも危険だよ」


 淡々と言う。淡々と危険を言える人間の声だ。


 「でも、君なら入れる」


 どうして、という言葉が喉まで上がる。上がった言葉を飲み下し、飲み下した動作が数字にならないように、私は一度、深く息を整えた。


 ミラは私の沈黙に、短く言った。


 「弟を取り戻したいなら、中枢のログを取ってきて」

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