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EMOTION CONTROL ACT ―その涙は違法です―  作者: 鳥のこころ


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第3話 レンのRed

 旧劇場の裏は、地上の地図から消えかけた場所だった。


 駅の高架の影をくぐり、物流用の薄い通路を抜けると、街の色が少しだけ濃くなる。濃くなると言っても、灰色の中の灰色の差だ。古いコンクリートに雨が染みた跡が残り、壁の割れ目に黒い草が生えている。ここには、都市の“整えられた白さ”が届きにくい。


 私は胸の金属箱を抱えたまま、指示された扉を探した。

 ミラの言葉がまだ耳の奥に残っている。


 ――仮置きだよ。宛先が決まるまで寝かせる場所。


 旧劇場は、もう劇場としては使われていない。廃墟でもない。行政の管理から外れ、誰も予算をつけず、誰も解体を提案しないまま、ただ残っている。残っているものは、都市にとって“感情の余白”だ。


 そしてここは、配達の終点じゃない。

 宛先が決まるまで感情を眠らせる、中継の穴だ。


 扉は半地下にあった。


 金属のプレートに小さな番号が刻まれている。

 P-03。

 私は箱に貼られた仮タグを確認し、ノックを二回した。


 中から、細い隙間が開く。

 眼だけがのぞく。眼だけで十分だ。


 私は箱を差し出し、何も言わない。

 受け取った相手が、短く頷く。

 扉が閉まり、箱は闇の向こうに消えた。


 これで、今日の“仮”の配達は終わる。


 私は踵を返し、来た道を戻る。

 街に戻るほど、空気が薄く、平らになっていく。


 ……怒りの箱。


 思い出した瞬間、喉の奥がきゅっと締まる。水もないのに嚥下を一度する。余計な動きは数字を揺らす。だからその一回で終わらせた。


 宛先が決まっていない感情。

 私の手から離れているのに、まだどこかで重い。


 駅へ向かう途中、道路脇の広場に小さな人だかりができていた。


 広場は“無刺激空間”として設計されているはずなのに、そこだけ空気の密度が違う。誰も声を出していない。出せない。けれど、何かが薄い膜の向こうで膨らんでいる感じがした。


 視線の先に、女が一人立っていた。

 幼い子を抱え、肩を震わせている。

 子どもの頬に手を当てて、何かを必死に飲み込んでいる。泣く寸前の顔だと、私は思ってしまい――思った瞬間、背筋の一部が冷える。

 数字に変える前に、私は呼吸を整え直した。


 女の手首のバンドが、規則的な赤点滅を繰り返している。


 0.96、1.02、0.99――。


 赤は点滅なら黙認される。

 点滅が“点灯”に変わった瞬間、都市は手を伸ばす。


 揺れのたびに、子どもの目が不安に泳ぐ。

 周囲の人は遠巻きのまま動かない。

 見ているのに、間に線を引く。


 遠くで羽音が変わった。


 追跡ドローンが降りてくる。金属の影が女の肩に落ちる。

 子どもが小さく身をすくめた。


 女は何か言おうとした。

 「だいじょう――」

 言い終わる前に、鎮静官が背後から現れる。


 白いマスク。

 手順は淡々としていて、優しさとも残酷さともつかない。

 女の腕を支え、薬剤を打ち、身体から力が抜ける。


 女が崩れ落ちる前に、鎮静官は子どもを抱き上げた。

 子どものバンドが点滅しそうになり、ぎりぎりで止まる。

 泣き声は出ない。出せない。


 広場の空気が、また平らに戻る。

 誰も拍子を乱さない。

 誰も、助けなかったことに触れもしない。


 私はそこを通り過ぎた。


 通り過ぎることは、ここでは日常だ。

 日常という形で、街は私たちを守り、同時に削っていく。


 ――でも、レンは違う。


 私は広場を抜けたあとで、弟の顔を思い出した。


 レンは、他人の数字に反応する。

 反応するだけではなく、嗅ぎつけるみたいに引き寄せられる。


 それは体質だ。

 病気だとされている。

 “Red傾向”。

 私たちの生活をゆっくり脅かす、名前のついた危険。


 帰宅すると、レンはいつものテーブルにいた。

 簡易栄養食の袋が開いたまま置かれている。

 彼は食べるでもなく、見ているでもなく、袋の角を指で折ったり伸ばしたりしている。


 私は靴を脱ぎ、静かに部屋に入る。


 「ただいま」


「おかえり」



 規定の挨拶。

 規定の返答。

 それでもレンの声は、少しだけ薄い震えを含んでいるように聞こえる。聞こえた、という事実が先に胸に落ちそうで、私は手元のコップを強く握って体の外に逃がした。


 レンの手首のバンドに目をやる。

 0.61。

 今朝より高い。


 「……どこか行ってた?」


 私の問いは、確認のための言葉だから許される。


 レンは少しだけ間を置いて、曖昧に頷いた。


 「外、少し」


 それ以上は言わない。

 言わないほうが安全だと、彼も知っているのかもしれない。

 私は理由を訊ねない。その線を越えれば、私の数字が揺れる。


 私は冷蔵庫の水を取り、コップに注いだ。

 レンにも渡す。


 「ありがとう」


 ありがとう、という言葉は礼儀であって感情ではない。

 でも、レンが言うとときどき、礼儀の枠を少しだけはみ出す。

 そう感じた瞬間に、私のバンドが0.37から0.40へほんのわずかに動いた気がした。私は見なかったことにして、蛇口の水音を長めに出し、思考の端を薄めた。


 背を向けると、過去の記憶が静かに上がってくる。


 レンは幼い頃から、こうだった。


 たとえば、あの夜。


 下層の夜道で、迷子の子どもがしゃがみこんでいた。泣き声は出ていなかった。出せないはずなのに、顔はもう泣いていた。

 レンが立ち止まり、近づく。

 私は反射で手を引いた。


 その瞬間、レンのバンドが跳ねた。


 0.92、0.98、1.05。


 赤。


 空気が張りつめ、遠くでドローンの羽音が変わる。

 私はレンの肩を抱き寄せ、路地の影に押し込んだ。二人で息を止め、壁の冷たさに体温を預ける。


 「見ないといけない気がする」


 レンが小さく言った。

 私は返事をしなかった。返事の代わりに、彼の呼吸に自分の呼吸を重ねた。


 数値が0.97に戻ったとき、ドローンは通り過ぎた。


 私はあのとき、迷子の子の顔を見なかった。

 見なかったことでレンを守った。

 でも守ったものの中に、何か別の欠けができた気がしている。


 それが何か、私はまだ言葉にしない。


 レンの数字は、私の知らないところで生まれる。

 私が代わりに抱えられないものが、彼の中で勝手に膨らむ。


 それが怖い――と、私は言えない。

 言えないから、数字で管理するしかない。


 0.8を超えたら外に出さない。

 0.9を超えたら薬を増やす。

 1.0に近づいたら、彼の呼吸を私の呼吸に合わせる。


 それでも、レンをずっと閉じ込めておくほど、私は強くない。

 彼は私の手の届かないところで、勝手に外へ出る。

 それが、今の私たちの現実だ。


 夜、レンが寝つけずに起きているとき。

 無音字幕に、事故や連行のニュースが流れたとき。

 あるいは、上層の街の映像が映ったとき。


 上層の街を見ると、レンの数字は決まって揺れた。


 整いすぎた白い生活。

 喪失の痕跡がない街。

 人が死んでも泣く場所がない街。


 「上の人たちって、誰かを失ったことあるのかな」


 レンが一度、そう呟いたことがある。

 家の中で、誰にも聞こえないはずの音量で。


 その瞬間、彼のバンドが赤に触れた。


 1.02。


 私はレンの口に手を当て、二人で息を止めた。理由を考えないようにして、息だけを合わせた。


 赤は、すぐ引いた。


 でも、引いた赤の代わりに、私の中に小さな棘が残った。


 “誰かを失う”。


 都市の中で、その言葉がどこに置かれているのか、私はまだ知らない。


 レンは水を一口飲み、ふいに私の方を見た。


 「ねえ、姉ちゃん」


 姉ちゃん、と呼ぶのは規定の語彙じゃない。だから、毎回少しだけ胸がざらつく。


 私はレンの目を見ないまま返事をする。


 「なに」


 「今日、広場でさ……」


 レンの声がそこで止まった。

 止まったのは、彼自身のせいなのか、私の空気のせいなのか。


 レンのバンドが、ゆっくり上がっていく。


 0.72、0.79、0.86。


 私は息を整える準備をした。


 レンは唇を噛み、首を振った。


 「……なんでもない」


 なんでもない、という言葉は逃げ道だ。

 逃げられるうちは、まだ安全だ。


 私は頷いた。


 頷きながら、テーブルの上のレンの手に目を留めた。


 指の先が、微かに震えている。


 震えはまだ“数字の外側”にいる。

 数字の外側にいるうちは、都市は気づかない。


 私はその震えを、見逃さなかった。


 見逃さないと決めた瞬間、胸の奥に熱の走る気配がある。熱に名前はつけない。つけたら測られる。


 夜の同期まで、まだ少し時間がある。


 私は窓の外の灰色を見ながら、

 レンが言いかけた「広場でさ」の続きを、聞かないまま蛇口の水音を出し続けた。


 聞けば数字が動く。

 動けば、誰かが来る。


 でも、来るのはドローンだけじゃない気がしていた。

 明日の朝、レンの数字が、どこまで跳ねるか――胸のどこかで、もう知っているみたいな静けさがあった。


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