第2話 地下市場とミラ
改札を抜けた瞬間、都市の空気が少しだけ変わった。
駅の天井は低く、壁は無機質な白で、表示板は数字だけを淡く光らせている。誰も喋らない。喋ってもいいのは、必要な情報だけだ。感情の匂いが混じる声は、駅の空調にすぐ吸い取られる。
私は運搬用の薄いケースを胸に抱え、指定された車両に乗った。
車内には、同じケースを持つ人が数人いる。誰がどこへ何を運ぶのか、互いに知らないし、知ろうともしない。知らないことが安全だ。安全のために、私たちは互いの存在を薄くする。
車窓の外は、相変わらず灰色の街だった。
上には上層の空。下には下層の路地。都市は階で分かれている。ここから先、私は“境界”を下る。
終点の一つ手前で降り、人気のない連絡通路を歩く。監視カメラの視線と、情動バンドの視線。二つの視線を同時に浴びている感覚がいつもある。
通路の奥で、靴底が金属に触れる音がした。
古い鉄の扉だった。
私は扉の前で立ち止まり、ケースの裏側に貼られた小さなタグを確認する。
宛先コード。
C-12。
Calm-Block-7。
これは地下の仕分け場に持ち込む便の番号だ。番号はただの番号だ――そう扱えるほど、私はここに長くいる。
扉の横のセンサーに情動バンドを近づける。
0.37。
今朝の数字が読み取られる。
地下側が規格をハックしている。低値なら、偽装認証で扉は開く。
音もなくロックが外れ、扉が薄く開いた。
隙間から、空気が漏れてくる。
都市の白い無臭とは違う、湿った土と油と、古い鉄の匂い。鼻の奥がひりつく。
地下だ。
私は息を浅くして中へ入った。
背後で扉が閉まり、外の世界が薄紙みたいに遠ざかる。
階段を下る。
照明は暗く、壁には古い配管がむき出しになっている。水滴がどこかで落ちる音がして、靴音に混じって消えていく。
昔、ここは鉄道の整備通路だったらしい。今は、街が捨てたものの裏側を、街の捨てられた人間が使っている。
階段の最後の段を踏むと、ざわめきが耳に届いた。
音楽ではない。歌でもない。
人の声だ。囁きが層になって、湿気と一緒に肌にまとわりつく。
地下市場の入口は、そのざわめきでわかる。
通路の脇で、男が一人、「感情を取り戻そう」と熱っぽく演説していた。足を止める人もいれば、関心なさげに素通りして奥の売り場へ向かう人もいる。
そのすぐ足元には、うずくまっている老婆がいた。 首筋に、改造された粗末な端子を押し当てている。端子の先で、使い古されたカセットが濁った黄色に点滅していた。
「……ああ、あったかい……」
老婆は虚ろな目で笑い、よだれを垂らしている。 安堵(Relief)の過剰摂取だ。現実の寒さも、空腹も忘れて、脳内だけの幸せに浸っている。 彼女のバンドは、安らぎを示す緑色ではなく、エラーを示す灰色に染まっていた。
その先に広がる空間は、古いホールの骨組みだけが残っていて、天井の鉄骨の隙間から配線が垂れている。壁には落書きや古い広告が貼られ、褪せかけた赤や青が、灰色の視界に刺さる。
色がある。
それだけで、心臓の鼓動が一拍だけ速くなる気がした。
人がいる。
地上より多い。
目が合えば、お互いに何かを感じてしまいそうな距離で。
私は視線の高さを一定にして、指定のブースへ向かった。
地下のルールは、表向きは緩い。
でも緩い分、いつ誰が誰を売るかわからない。
だから私は、歩幅と呼吸を揃えて歩く。平らでいるための動作だ。
ブースの奥に、ミラがいた。
壁にもたれて煙をくゆらせている。地上では嗅いだだけで即通報されるものだ。ここでは、煙はただの道具か、ただの誇示か、ただの癖だ。
ミラは私を見ると、口の端だけで笑った。
笑いの気配が数字に出ないのが、彼女の怖さだ。
「遅かったね」
声は軽い。
「正常ルートで来た」
私はケースを机の上に置いた。
ミラは指先でケースの蓋を撫で、宛先タグを確認する。
「C-12か。ハブ便ね。上層行きはここで一度寝かせる」
「Calm相手は金になる」
金になる、という言い方がミラらしい。 彼女はこの地下市場でも古株の『エモ屋』だ。感情を切り売りする商人を、ここではそう呼ぶ。
私はそのまま頷いた。
ミラがケースを開ける。
中には、薄い透明のカセットが三枚入っている。
それぞれ小さな文字で、感情種と純度が書かれていた。
《悲しみ 0.82》
《安堵 0.46》
《懐旧 0.51》
この三つが、今日のCalm-Block-7に届く予定の“商品”だ。
ミラはカセットを一枚取り出し、光にかざした。
「いい悲しみだね。薄くない。ちゃんと刺さるやつ」
私は返事をしない。喉の奥に言葉が引っかかるのを感じたが、飲み込んだ。
「宛先間違ってない?」
ミラが言う。
「Calmに悲しみを送るの、好きだなあ」
私は目を伏せたまま、数字のことだけを考える。
「宛先は指示通り」
「そりゃそう」
ミラは悲しみカセットを戻し、別のカセットを手に取った。
表面の宛先コードを、爪でなぞる。
「感情はね、どこに届くかで意味が変わるんだよ」
その台詞が、地下の湿った空気の中で、妙に澄んで聞こえた。
「下層に安堵を送ると依存になる。上層に送ると鈍感になる。
悲しみは……」
ミラは言葉を切り、私を見た。
「悲しみは、痛みの場所に届けば道になる。
痛みを知らない場所に届けば、刃になる」
彼女はそう言いながら、指先でテーブルの縁を二度叩いた。
値段を暗算するときの癖みたいなリズムだった。
「今日は、刃の方だろうね」
ケースの中に仕切り板を挟み直し、カセットが規定の順番で並べ替えられる。まるで配膳みたいに、無駄がない。
「次は?」
私が訊くと、ミラはもう別の箱を足元から引き寄せた。
箱は薄い金属で、地上の公用ケースに似た形をしている。
蓋を開けた瞬間、私は中を見てしまった。
透明のカセットの束。
その一部に、赤いラベルが混じっている。
《怒り》
喉がきゅっと狭くなった。息が一拍だけ乱れ、情動バンドが微かに震える気がした。
私はその感覚の行き先を探さず、ただ視線を外した。
怒りは、地下でも扱いが難しい。
悲しみや安堵は“嗜好品”として流れることがある。
怒りは、流れた先で事故になる。
ミラは気づいていないふりをした。
あるいは、気づいていて見せた。
「次の荷」
彼女は赤いラベルを隠すように、仕切りをずらした。隠したことで、逆に存在が強くなる。
箱の中で、赤い部分だけが妙に近く見えた。触れていないのに、触れたみたいに。
「これ、どこへ?」
私は聞いてしまった。
口から出た瞬間、舌が冷える。
ミラは笑うでも怒るでもなく、肩をすくめた。
「まだ宛先は決まってない。
宛先が決まる前の感情もあるんだよ」
“宛先が決まる前の感情”。
そんなものがあるのか。
私はそれを、箱の重さと一緒に受け取ることにした。
ミラは箱を閉じ、私の方へ押しやった。
「これを運んで。今日は下層の外れ、旧劇場の裏」
彼女は一拍置いて付け足す。
「仮置きだよ。宛先が決まるまで寝かせる場所。だから“まだ未定”でいい」
なるほど、と頭の奥だけで思う。
思ったことが数字に流れないように、私は頷き方を小さくした。
「いつもより早く来て。今日の市場は変な風が吹いてる」
変な風。
地下の人間は、よくこう言う。実際に吹いているのは風じゃなく、数字だ。
「了解」
私は箱を受け取り、胸に抱えた。金属が肌を冷やす。
ミラが煙を吸い、遠くに吐いた。
「ユイ」
私の名前を呼ぶのは、いつも彼女だけだ。
その呼び方に、背中の皮膚が薄くなる。
「レンの数字、また跳ねてる?」
私は動かなかった。
その問いが、まず“知っていること”として引っかかったからだ。
なぜ知っているのか。
地下は、情報が壁をすり抜ける場所だ。
そう理解した瞬間に意識が深く沈みそうで、私は呼吸を整えただけにした。
「……今朝、少し」
ミラは頷いた。
「そいつは、痛みの匂いを嗅げる子だ。
この街じゃ生きづらい。
でも、生きる理由にもなる」
彼女はそう言いながら、どこか遠くの値札を見ている目をしていた。
私は箱を抱え直す。抱え直すことで、返事の代わりにした。
「だから、気をつけな」
ミラはそれだけ言って、別の客の方へ目を向けた。
もう、話は終わりだという合図。
私はブースを離れた。
市場の奥で誰かが小さく笑い、すぐ低い声で叱られる。地上の規則が、ここにも染みている。
途中、壁に貼られた古いポスターが目に入った。
色褪せた舞台の写真。
泣いたり笑ったりする人間の顔。
この街がまだ感情を持っていた頃の広告だ。
私は立ち止まらずに通り過ぎた。
視線だけが、ほんのひと呼吸遅れて追いつく。
階段を上り、鉄の扉に手をかける。
外へ出れば、また白い街だ。
扉が開く直前、情動バンドが微かに震えた。
理由はわからない。
理由を探せば、数字が動く。
私は震えを無視し、地上へ戻った。
今日の配達は、いつもより重かった。
怒りの箱の重さのせいか。
ミラの言葉のせいか。
それとも、宛先が決まっていない感情が、どこかで居場所を探しているせいか。
私は歩く。
歩くことで、考えない。
――ただ、あの赤いラベルの行き先がどこになるのか。
その先に誰がいるのか。
そのことだけが、数字にならない場所で、ずっと引っかかっていた。




