第14話 偏った罰
長期更生棟の廊下を離れても、
さっきのレンの波形が、頭のどこかでちらついていた。
《Anger_Pre》
怒りになりきらない揺れ、というラベル。
削られたレンの中で、
あそこだけが異物みたいに、生々しく残っている。
「こっち」
ミラが歩く方向を、少し変えた。
観察棟へ戻るルートから、半歩だけ外れる。
それでも、天井から吊られた案内プレートは、
まだ「職員」「ケースレビュー」といった言葉を指していた。
「今日は“導線確認”だからね。
ついでに、あんたにも見せたい場所がある」
彼女は、何でもないことのように言って、
廊下の角を曲がった。
◇
曲がった先の壁に、白いパネルが貼られていた。
《本日の情動ケース一覧》
そう書かれた見出しの下に、細かい文字がぎっしり並んでいる。
時刻。
E-Indexのピーク値。
感情ラベル。
処遇レベル。
整然と並んだ表。
「……何これ」
足が、勝手に止まった。
「今日、この施設に上がってきた“揺れ”の代表サンプル。
ぜんぶじゃないけど、見せてもいい分」
ミラが、あっさり答える。
数字だけ見れば、どれも似たようなものだった。
《118.2(Fear)》
《121.0(Sadness)》
《119.7(Anger_Pre)》
その横に、小さく処遇が書き込まれている。
《長期更生棟Bフロア移送》
《短期観察フロア→経過観察》
《情動ケア・ラウンジ紹介》
《家庭ケアプログラム案内》
最初は、ただバラバラの記号に見えた。
でも、何行か追っているうちに、
目が同じところで引っかかる。
処遇欄のさらに右端。
紙の余白みたいなスペースに、小さな文字が添えられていた。
《区域コード:LZ-LOW》
《区域コード:LZ-MID》
《区域コード:LZ-CALM》
上層、中層、下層。
それぞれの居住区域。
「……」
私は、行を上下にたどった。
たとえば、昼前の欄。
《11:02 E-Index 120.8(Anger)》
処遇:長期更生棟Bフロア移送
区域コード:LZ-LOW
その数行下。
《11:17 E-Index 121.3(Anger)》
処遇:情動ケア・ラウンジ紹介+家庭ケアプログラム案内
区域コード:LZ-CALM
数字はほとんど同じ高さで跳ねている。
なのに、行き先はまるで別物だ。
片方は「長期更生」。
もう片方は「ラウンジ」と「家庭」。
LZ-LOWという文字が並ぶ行の端には、
《長期更生》《即日収容》の文字が目立っていた。
こんな一覧のどこかに、
レンの行も紛れている気がしてならなかった。
「……同じくらい揺れてるのに」
声が、勝手に漏れた。
ミラが、肩をすくめる。
「表向きは“数値と回数で決めてます”って言うよ。
でも、あの右端の小さい文字のほうが、よく効く」
それだけ言って、彼女は表から視線を外した。
私の頭の中で、「区域コード」という欄だけがじわじわと膨らむ。
◇
少し先に進むと、
《ケースレビュー室》と書かれたプレートが現れた。
ドアには小さなガラス窓。
中の様子が、ほんの少しだけ見える。
モニタが壁一面に並び、
白衣や制服の人間が何人か座っていた。
ミラがノックする。
「観察外来からの導線調査でして。
レビュー室前までのルートを確認させてください」
業務用の声。
「どうぞ」
中から声がして、
ドアが数センチだけ開いた。
ミラは敷居を越えない。
足は廊下のこちら側のまま、
視線だけをドアの隙間から滑り込ませる。
私も、その横からそっと覗き込んだ。
モニタの一つに、見覚えのある路地が映っていた。
くすんだ壁。
濡れた床。
むき出しの配管。
下層ブロックの一角。
画面の中央で、誰かがうずくまっていた。
十代くらいの男の子。
顔を両手で覆い、肩を細かく震わせている。
映像の端に、E-Indexの波形が重ねて表示されていた。
数値がじわじわ上がり、
120の手前で跳ねる。
《Sadness》の文字が、途中から《Anger_Pre》に変わる。
その瞬間、画面の隅を、ドローンの影が横切った。
続いて、白いマスクの輪郭が入り込んでくる。
映像が止まった。
別のテキストが一瞬だけ画面の右側に重なる。
《……更生棟Bフロア》
《家族支援なし》
《LZ-LOW》
全部は読めない。
でも、行き先だけは分かった。
別のモニタが切り替わる。
そこには、広いリビングが映っていた。
白い壁に掛けられた抽象画。
ガラスのテーブル。
柔らかそうなソファ。
Calm区域の家。
画面の中央で、少年が叫んでいた。
テーブルのグラスを手で払って、床に叩きつける。
ガラス片が跳ねる様子が、無音の映像でも分かる。
波形が跳ねた。
《E-Index 121.3》
さっきの男の子と、ほとんど同じ高さ。
モニタの隅に、小さなロゴが光っている。
都市OSのマーク。
その横で、《推奨処遇レベル》《感染リスクスコア》といった文字列が、
自動的に更新されていた。
声が、ガラス越しにかすかに漏れ聞こえる。
「……ラウンジの枠、前倒しで」
「ご家庭向けのサポート資料も──」
途切れ途切れの単語だけ。
画面の端に、一行だけはっきり見えた。
《情動ケア・ラウンジ優先/家庭ケアプログラム》
《LZ-CALM》
《ログ一部:機密》
同じ高さまで跳ねた揺れ。
違うラベル。
違う出口。
ミラが、わずかに顎を引いた。
「導線は確認できました。
ありがとうございます」
きっちりした礼とともに、
ドアが静かに閉まる。
廊下の音が戻ってきた瞬間、
自分が息を止めていたことに気づいた。
「同じ熱でもさ」
歩き出しながら、ミラがぽつりと言う。
「“そのまま捨てる熱”と“取っておく熱”がある」
研究用のラベルを貼られて棚に乗る熱と、
排水として流される熱。
下から上がった揺れは、
最初から後者に分類されている。
レンの波形も、
ああいうモニタのどこかで、
廃棄予定のサンプルとして眺められたのだろうか。
胸の奥が、ゆっくり熱を帯びる。
◇
観察棟に戻るための廊下に出たとき、
ちょうど、子どもたちの一団とすれ違った。
白い服。
同じ施設のバンド。
そのうちの一人は、
汚れたスニーカーと擦り切れた裾で、
どこから来たのかが一目で分かる。
LZ-LOW。
その子が、小さな声で呟いた。
「なんで、俺だけ……」
言葉の続きは聞こえなかった。
前を歩いていた職員が、振り返りもせずに言う。
「反省ノート、今日の分を追加。
矯正セッションも一つ増やします」
それが、「ケア」と呼ばれるものの口調だった。
少し離れた別の廊下から、
別の声が漏れてくる。
「もう、こんなとこ来たくない」
姿はよく見えなかったが、
ちらりと視界の端に映ったのは、
整えられた制服と、きれいな靴。
落ち着いた色の服。
Calm区域の子だろう。
そばにいた職員の声だけが、耳に残った。
「最近、学校も大変だもんね。
今度、ラウンジでゆっくり話そうか」
同じくらいの不満。
違う形の返事。
バンドが、手首の内側で震えた。
数値が、怒りのゾーンの手前までじわりと上がる。
私は、無意識に指でバンドを押さえた。
怒りを否定したかったわけじゃない。
ここで跳ねれば、
私自身が、次の「ケース」になるだけだからだ。
「見ての通り」
ミラが、淡々と言う。
「下から上に漏れる揺れは、すぐ“消す対象”。
上から落ちてくる揺れは、そのまま“教材”」
教材。
「“ほら、こういうときにも落ち着きましょうね”って、
下に向かって教えるための見本よ。
誰が多めに痛い目を見るか、
最初から決めてある」
彼女の声には、怒りも悲しみも入っていなかった。
ただ、事実を読み上げている音。
それが、逆にきつい。
◇
観察外来フロアに戻ると、
壁にはあの啓発ポスターが貼られていた。
《全階層で、情動の安定が進んでいます》
明るいグラフ。
右肩下がりの違反件数。
カラフルな棒が、階層ごとの差をならしている。
どの棒も、ほとんど同じ高さまで下がっていた。
「……嘘じゃないのが、厄介なんだよね」
ミラが、グラフを見ながらぼそりと言う。
「平均を取れば、きれいに揺れは減ってる。
でも、その平均の下で、
誰が多めに痛みを引き受けてるかまでは書かない」
私は、さっきの一覧を思い出す。
《LZ-LOW》の行に並んだ「長期更生」「収容」。
その上に重ねられた、「全階層」という言葉。
口が勝手に動いた。
「この都市は、痛みまで均等には配らない」
ミラが、少しだけこちらを見る。
「そう。
ならしてあるのは、見える表面だけ」
ならされていない場所に、
痛みが溜まっていく。
なら、「返す分」まで均等である必要はない。
上から押しつけられた偏りに、
ただ「均等な悲しみ」を降らせるだけじゃ、
何も変わらない。
どこに、どれだけ返すのか。
誰に、どの感情を届けるのか。
中枢の送り状に手を伸ばすとき、
決めなければならないのは、そこだ。
「……行き先、選ばないとね」
自分に向けた言葉とも、
都市そのものに向けた言葉ともつかない。
バンドの数値が、
怒りのラインから少しだけ下へ戻る。
怒りの手前。
泣き出す一歩手前。
レンの波形と重なったその揺れを抱えたまま、
私は観察外来の出口へ歩き出した。




