第13話 怒りの手前
長期更生棟の空気は、観察棟とは匂いが違った。
どちらも同じ白い壁で、
同じ規格の照明が天井に埋め込まれているはずなのに、
ここには、戻ってこないものの匂いがした。
ミラが、何気ないふりで壁のプレートを指さす。
《長期更生棟》
《対話セッション室》
《職員専用フロア》
「昔は、ここ“家族面談室”って書いてあったらしいけどね」
ミラが、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやく。
「今は“対話セッション”。
関係を確認するのは、バンドと数字だけ」
その言い方は、笑っているのか怒っているのかよく分からなかった。
ここには、「戻される人」と、
「戻らないままにされる人」がいる。
観察棟の廊下ですれ違った患者たちは、
不安げに周囲を見回したり、
落ち着かなさを身体のどこかでごまかしていた。
この階の人たちは違う。
歩幅も、視線の高さも、一定だ。
自分がどこへ運ばれているか、もう分かっている歩き方。
「対話セッションの協力者の方ですね」
白衣ではなく、グレーの制服を着た職員が近づいてきた。
胸元の名札の下に、
小さなプレートがぶら下がっている。
《情動観察プログラム 外部刺激担当》
「本日の対象者は、長期更生プログラム継続中の少年です。
年齢は、あなたと同世代」
職員は、マニュアル通りの口調で言う。
対象者、少年。
名前は、ここでは呼ばれない。
「あなたには、“外部刺激”として、
簡単な世間話や日常の話題を提供していただきます」
職員の視線が、ちらりと私の胸元をかすめた。
そこには、ミラが用意したカードがぶら下がっている。
《情動観察プログラム 協力者》
「セッション中、こちらで情動指数をモニタリングします。
対象者が大きく揺れた場合は、鎮静プロトコルに移行しますので、
その際は指示に従ってください」
「……はい」
声が少し上ずる。
手首のバンドが、その揺れを拾って震えた。
《E-Index:微増(Tension)》
職員は、画面を確認しているふりをしただけで、何も言わなかった。
「対話セッション室3、こちらです」
長い廊下の突き当たりに、小さなドアがあった。
窓はない。
横のプレートには、部屋番号だけが印字されている。
職員がカードをかざすと、ロックが外れる音がした。
「開始前に、もう一度だけ確認を」
ドアの前で、職員が振り返る。
「不必要な身体接触や、
対象者の情動指数を大きく揺らす発言はお控えください。
万が一の場合は、バンドの緊急ボタンを押してください」
「……分かりました」
それでも、私は今日ここまで来た。
レンに会うために。
職員がドアを開ける。
◇
部屋の中は、驚くほど簡素だった。
小さなテーブルが一つ。
向かい合わせの椅子が二脚。
壁の一面は、鏡張りになっている。
普通の鏡のように見えるが、
おそらく向こう側からもこちらが見えているのだろう。
天井の隅には、小さなカメラ。
赤いランプが点灯している。
「こちらにお掛けください」
職員が、私に椅子を勧める。
私はうなずいて、テーブルの片側に腰を下ろした。
「対象者を入室させます」
職員がインカムに短く告げる。
それから一歩下がり、部屋の隅に控えた。
数秒後、反対側のドアが開く。
少年が一人、無言で入ってきた。
──レン、の形をした誰か。
最初にそう思ってしまった。
髪の長さも、背の高さも、
記憶の中のレンと大きくは違わない。
けれど、歩き方が違う。
昔のレンは、
いつもどこか落ち着きなく周囲を見ていた。
誰かの痛みに気づくたびに、
視線が揺れ、足が止まっていた。
今、部屋に入ってきた少年は、
足元だけを見て歩いている。
「そこに座ってください」
職員が短く指示する。
レンは言われたとおりに椅子に腰を下ろした。
動きが、丁寧すぎるくらい丁寧で、
何も考えていない機械のようにも見える。
「それでは、セッションを開始します」
職員がインカムに向かってもう一度告げた。
「私は室外でモニタリングしますので、
なにかあれば、先ほどお伝えしたボタンを」
そう言って、私に向かって会釈し、
部屋を出て行く。
カチリ。
ドアのロックがかかる音。
残されたのは、私とレンだけだった。
◇
「……レン」
名前が、勝手に口からこぼれた。
レンの肩が、わずかに揺れる。
うつむいていた顔が、
ゆっくりとこちらを向いた。
目が、私を認識するまでに、
数秒かかった。
「……姉ちゃん?」
かすれた声。
レンの手首のバンドが、小さく震えた。
《対象者E-Index:微増(Recognition)》
“姉ちゃん”と呼んだくらいで、ここで血縁が確定することはない――さっき廊下で会った子と同じように、ログの上ではせいぜい「擬似家族」のタグが一つ増えるだけだ。
私は、ごく浅く息を吸った。
職員にとっては、私はあくまで
“本日限りの協力者”でしかないはずだ。
「来ちゃいけなかった?」
自分でもおかしな質問だと思う。
でも、何か言葉を出していないと、
胸の中の揺れが溢れそうだった。
レンは、首を横に振る。
ゆっくりとした動きなのに、
迷いはない。
「来ないと思ってた」
間を置いて、そう言った。
抑揚の薄い声。
でも、その奥に、かすかな何かが揺れている。
「どう、ここ」
他に何を聞いていいか分からず、
ものすごく愚かな質問をする。
「……静か」
レンは答える。
「朝、薬。
昼、作業。
夜、記録」
それだけ。
短い単語が、必要最低限だけ口から出てくる。
「痛いこと、されてない?」
今度は、少しだけ踏み込んだ。
私のバンドが、喉の奥の揺れを拾う。
```
《E-Index:微増(Fear)》
```
レンは少し目を伏せた。
「……分からない」
その言い方が、かえって怖かった。
「眠らされてる間のことは、覚えてない。
起きてるときは、質問される」
「どんな質問?」
「“今、どんな気分?”」
レンは、鏡張りの壁のほうを一瞬だけ見た。
「“何も感じてません”って答えると、
“いい子だね”って言われる」
バンドが、かすかに揺れる。
《対象者E-Index:微増(Irritation_Pre)》
怒り、というほど形になっていない。
でも、何かがそこにいる。
「ここでは、“怒ってる”って言ったら、
薬が増える」
レンは続ける。
「“悲しい”って言っても、
“怖い”って言っても、
ぜんぶ、薬が増える」
言葉の最後で、
ほんの少しだけ息が荒くなった。
《対象者E-Index:+0.5(Anger_Pre)》
天井のどこかで、機械音が小さく鳴る。
私は、テーブルの縁を指で掴んだ。
「だから、“何も感じてない”って言う」
レンは言う。
「そう答えると、
“その調子”って言われる」
その瞬間だけ、
レンの目に、はっきりとした揺れが走った。
鏡の向こうから見れば、
それも「微増」とラベルされるだけかもしれない。
でも、私には分かる。
それは怒りの、一歩手前だ。
◇
「姉ちゃんは?」
不意に、レンが訊ねてきた。
「外、どう」
どう、と言われても、
どこから説明していいか分からない。
「相変わらず、灰色」
とりあえず、それだけ言う。
「グレイ飲んで、
バンド見て、
仕事して」
レンの目が、わずかに細くなる。
「みんな、ちゃんと飲んでる?」
「……分かんない」
即答はできなかった。
地下の市場で見た、
本物のグレイと、薄めたグレイと、飲んだふり。
そのどれもが、頭をかすめる。
「どうせ、ここには届かない」
レンは、乾いた声で笑った。
笑っている形をしているのに、
目は笑っていない。
「ここには、“正しい量”が来る」
レンは、自分のバンドを指で軽く叩いた。
「揺れが、
薬の効き目が、
全部、数字になる」
彼の声は、他人事のようで、他人事ではない。
「“正常”と“異常”の線を、
毎日少しずつ書き換えてる」
「怒ってる?」
思わず、そう聞いていた。
ここで訊くには危険すぎる問いだと分かっていながら。
レンは、しばらく黙った。
沈黙のあいだ、
バンドの数値が静かに揺れる。
《対象者E-Index:+0.3》
《Emotion_Label:判定不能(Flat)》
「分からない」
さっきと同じ答え。
でも、今度の「分からない」は、さっきより重かった。
「ここで“怒ってる”って言ったら、
それも薬の量の計算に入る」
レンは言う。
「“悲しい”って言っても、
“悔しい”って言っても、
ぜんぶ、“調整の必要あり”になる」
バンドが、また震える。
《対象者E-Index:+0.6(Anger_Pre)》
怒りそのものは、
まだ言葉の外側で踏みとどまっている。
怒りの手前だけが、
ここに残されているみたいだ。
「……ごめん」
気づけば、そう言っていた。
「連れていかれたとき、
何もできなかった」
レンが、じっと私を見る。
私のバンドも、静かに揺れた。
《E-Index:微増(Sadness)》
「姉ちゃんのせいじゃない」
言葉だけ見れば、ありふれた慰めだ。
でも、その出し方は違っていた。
「ここにいる人たちは、
みんな、“誰のせいでもない”ってことになってる」
レンの視線が、一瞬だけ鏡をかすめる。
「“システムのせい”でもなくて、
“誰か一人のせい”でもなくて。
だから、誰も謝らなくていい」
《対象者E-Index:+0.7(Anger_Pre)》
怒りの手前の針だけが、
少しずつ長くなっていく。
◇
廊下側のほうから、
かすかな物音が聞こえた。
誰かが転びかけたような、
鈍い衝突音。
レンの視線が、反射的にドアの方を向く。
鏡の向こう側の音声が、
わずかに拾われてスピーカーから漏れた。
「ほら、ちゃんと歩け。
時間押してるんだよ」
苛立った職員の声。
小さく「ごめんなさい」と謝る子どもの声。
その「ごめんなさい」に、
レンの指先が反応した。
バンドの数値が跳ねる。
《対象者E-Index:+1.0(Anger_Pre)》
「……また、他者事象で反応ですね」
隣の観察室にいる職員の声だろう。
落ち着いた、慣れた口調。
“他人の痛みで揺れる子”というラベルだけを、
手慣れた動きで貼っていく声。
「外部刺激セッション時は、やはり出やすいですね」
「外部刺激者に“姉ロール”を投影しているようです」
ここで“家族”と認められることはない。
家族は、いつだって数字の外側に追い出される。
私は、テーブルの下で拳を握った。
怒っているのは、たぶん私のほうだ。
でも、私がここで怒りきってしまったら、
レンの揺れと一緒に、
「危険」として処理される。
それが分かってしまうのが、
この施設のいちばん気持ち悪いところだった。
◇
天井の隅のスピーカーが、小さな音を立てる。
《対象者E-Index:変動幅 基準値内。
対話セッション、残り五分》
無機質な女性の声。
レンの目の揺れが、少しだけ収束する。
「時間」
彼は、淡々と言った。
「また来れる?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
「……分からない」
本当のことを言う。
「でも、
来れるようにする」
それは約束というより、
自分への指示だ。
レンは、短くうなずいた。
「姉ちゃん」
最後の呼び方だけ、
ほんの少し昔の声に戻った気がした。
バンドが、私とレンの手首でほぼ同時に揺れる。
《E-Index:微増(Sadness)》
《対象者E-Index:微増(Recognition)》
ドアがノックされる音。
グレーの制服の職員が、顔を覗かせた。
「本日の対話セッションは、ここまでです」
マニュアル通りの声。
「ご協力、ありがとうございました。
このデータは、今後の情動安定プログラムに活用されます」
レンは、ゆっくりと立ち上がる。
私も、椅子から腰を上げた。
「また、“協力者”としての参加をお願いすることがあるかもしれません」
職員が、私に向かってそう言う。
最後まで、「家族」という言葉は使われない。
でも、レンの「姉ちゃん」という呼び方が、
その穴を埋めてくれていた。
鏡張りの壁には、
私とレンの姿が淡く二重に重なって映っている。
その像が、いつか本当に
“家族面談”と呼ばれる日が来るのかどうか。
今の私には、まだ想像がつかなかった。
廊下に出ると、ミラが壁にもたれて待っていた。
「どうだった? “外部刺激”の手応えは」
からかうような声に、
私はうまく答えられなかった。
代わりに、手首のバンドを見下ろす。
《E-Index:基準値+0.8(Anger_Pre)》
私の中にも、怒りの手前だけが、
細く残っている。
ログに出ていない不安なんて、
ここでは存在しないことになっている。
だから私は、ここでは言葉にしない。
代わりに、
中枢まで届く別のルートを選ぶ。
「……行くよ」
自分にだけ聞こえる声でつぶやいて、
私は長期更生棟の廊下をあとにした。




