第12話 中枢へ続く通路
朝の観察棟は、夜よりも静かだった。
照明は少しだけ明るくなっているのに、
人の声の数は増えていない。
廊下を行き来する足音だけが、時間が進んでいることを教えてくれる。
「おはようございます。昨夜は眠れましたか」
カーテンを少し開けて、看護師が顔をのぞかせた。
「……まあ、なんとか」
眠れたと言い切るほどでもないし、
まったく眠れなかったわけでもない。
中途半端な答えしか出てこない。
看護師はそれ以上追及せず、
バンドに小さな端末を当てた。
「失礼しますね」
ピッ、と短い音。
手首のあたりが一瞬だけ温かくなる。
端末の画面には、昨夜から今朝までの揺れが、
細い線でまとめられていた。
「数値は安定しています。
基準範囲の真ん中あたりですね」
彼女はタブを切り替え、短く続ける。
「担当医の判断になりますが、
このまま大きな変動がなければ、
今日中に『短期観察』は一区切りにできそうです」
「……ここから、出られる?」
思わず、確認するように口に出していた。
看護師は小さくうなずいた。
「ええ。ただ、“終わり”ではなく“形を変える”だけです。
月に一度こちらに来て、ログを見せて、
問題がなければそのまま帰る。
そういう通い方に切り替わります」
要するに、通院。
でも、それはただの義務じゃない。
施設への出入り口が、
正式に一つ、与えられるということだ。
「退棟の手続きが整いましたら、お呼びしますね。
それまで、お部屋でお待ちください」
看護師はそう言って部屋を出ていった。
ドアが閉まる音がして、
また静けさが戻る。
私はベッドの端に座ったまま、
自分の手首を見つめた。
バンドの表示は、基準値の真ん中近くでゆっくり揺れている。
ここから出る道は、
そのまま、ここに戻る道でもある。
そこに、何を持って出入りするかは──
まだ誰にも決められていない。
◇
退棟手続きエリアは、観察棟の端にくっついていた。
受付カウンター。
番号札。
名前を呼ぶ声。
ここだけ、一瞬だけ「街の窓口」に見える。
「情動観察終了手続きの方、
番号札二十四番の方──」
呼ばれて、立ち上がる。
カウンターの奥には、さっき診察室で見た医師とは別の男が座っていた。
白衣ではなく、灰色の事務服。
声も、作業の一部のように平坦だ。
「短期観察は本日で終了です。
以後は、観察外来での経過観察となります」
彼は用意された文面を読むみたいに、
必要最低限の説明だけを口にした。
「月に一度、こちらの『観察外来』にお越しください。
その際、情動ログを提出していただきます」
つまり、月に一度、ここに来て、
バンドの中身を見せて、
“問題なし”の判子を押される。
男はプラスチックカードを一枚差し出した。
《情動観察外来 認証カード》
名前と番号。
次回の来院予定日。
その下に、小さなコード。
「入口はこちらになります」
壁の案内図に、小さな赤い印がついている。
「観察外来専用入口」。
すぐ横に、別の印があった。
「職員通用口」。
患者と職員。
表示の上では別々なのに、
矢印の向きはほとんど同じだった。
説明は、あっけなく終わる。
「ご不明点がなければ、これで退棟手続きは完了です。
出口までは、あちらのスタッフにご案内させます」
スタッフ。
そちらを振り向いたとき、その「スタッフ」の顔を見て、
心臓が一瞬だけ早く打った。
白衣に似た上着。
首から下げた業者用のIDカード。
いつもの口紅より少し色を抑えた唇。
ミラだった。
◇
「観察終了のお客様ですね。
出口までご案内します」
ミラは、見知らぬ人の声で言った。
抑揚の少ない、マニュアルに載っていそうな口調。
私の名前を呼ばない。
視線も、真正面からは合わせない。
「外部委託のアンケートスタッフです。
出口までの導線確認も兼ねておりますので」
彼女は事務服の男にそう言って、
首から下げたカードを軽く持ち上げて見せた。
カードの端に、小さなロゴが入っている。
公共サービス委託会社の、ありふれたマークに見える。
「お願いします」
事務服の男は、それ以上興味を持たない。
私は、言われるままに立ち上がった。
「では、こちらへ」
ミラは、一定の歩幅で廊下を歩き出す。
私は、その半歩後ろをついていく。
しばらくは、誰が聞いても差し障りのない会話だけが続いた。
「施設でのご滞在中、不便に感じた点はありましたか」
「スタッフの対応で、気になった部分は」
答えやすい質問と、
答えなくても成立する質問。
前から、小さな足音が近づいてきた。
まだ私よりずっと幼い男の子が、グレーのパジャマのすそを引きずりながら歩いてくる。少し離れたところを、職員がタブレット端末を見ながらついていた。
男の子の視線が、私の胸元のカードと、手首のバンドで止まる。
「……お姉ちゃん?」
唐突な呼びかけに、足が止まりかけた。
その一音の高さが、耳の奥で別の声を呼び起こす。
暗い部屋で、布団から半身を起こしていたレン。
眠れない夜、私の袖をつかんで、
「姉ちゃん」と何度も呼んできたときの声。
胸のどこかがひゅっと縮んで、
手首の内側でバンドが小さく震えた。
《E-Index:微増》
職員がこちらを一瞥したが、慌てるでもなく、端末に視線を戻す。
「外部刺激時の擬似家族反応ね」
聞こえるか聞こえないかの声で、事務的にそう呟き、
画面に何かタグを一つ追加する。
男の子は、私の返事を待つこともなく、
職員に連れられて角の向こうに消えていった。
残された「お姉ちゃん」の響きだけが、
少し遅れて胸の中に落ちてくる。
レンの声とは違う。
でも、その違いが、かえって重なりを濃くした。
廊下の角を曲がり、人の気配が途切れたところで、
ミラの声の温度が、ほんの少し変わった。
「──大丈夫? 顔色」
初めて、私の方を見る目になった。
「……ここでその顔を見たくはなかったけどね」
「ここの子たちさ、外から来た人を“お母さん”とか“お姉ちゃん”とか呼びたがるのよ」
隣を歩きながら、ミラが言う。
「ログ上は“擬似家族”ってタグが一個増えるだけ。まあ、情操教育の一環ってことで、施設内の移動制限が少し緩くなったりするらしいけど、ほんとの家族かどうかなんて、このフロアじゃ誰も確かめない」
「ミラ」
名前を出すと、
彼女は小さく肩をすくめた。
「声、抑えて。
ここ、耳が多いから」
彼女は廊下の天井をちらりと見上げる。
小さな黒い点が、一定の間隔で並んでいた。
「退棟ルートを一回通るとね、
次からは“迷わなくて済む”ってシステムは判断する。
つまり、“一人で来られる”ってこと」
「ここに?」
「そう。
観察外来のほうに、ね」
ミラは、何でもないことのように言った。
「出入りの権利っていうのは、大事よ。
持っていない人は、裏口から入るしかない。
持っている人は、表を歩きながら、
必要なときだけ裏に降りられる」
「裏」
「下よ」
彼女は、足もとの床をつま先で軽く叩いた。
「患者は、いつも“上”ばかり歩かされる。
白い廊下、診察室、啓発ルーム。
本当に大事なものは、たいてい“下”を流れているのに」
薬。
バンド。
ケーブルの束。
データ。
目に見えるものと、見えないもの。
「観察外来の入口、見せてあげる」
そう言って、ミラは進行方向を変えた。
案内図に載っていた「観察外来専用入口」の矢印から、
ほんの少しだけ外れたルート。
すぐ隣に、「職員通用口」と書かれた扉が見えてくる。
「ねえ」
ミラは、少しだけ歩調を落としながら言った。
「ここから先、
“表の出口”と“裏の入口”は、ほとんど同じ場所にあるの」
確かに、案内表示の矢印は、
ほぼ同じ方向を指していた。
「患者は白いドアを使う。
職員と業者は灰色のドアを使う。
でも、床の下を通っている配線と、
ログのルートは──
どっちも同じ中枢に繋がってる」
「中枢」
その言葉は、
啓発ルームの映像で見た曖昧な図の中でしか聞いたことがなかった。
ミラはそれ以上説明を重ねなかった。
代わりに、自分の胸元からIDカードを外し、
職員用エレベーターのリーダーにかざす。
ピッ。
短い音。
ランプが緑に変わり、
エレベーターのボタンが反応する。
「ここから先は、ほんとは患者が歩くルートじゃないけど……」
そう言いかけたときだった。
エレベーターの扉が、
先に開いた。
中から出てきたのは、
黒いコートと、白いマスク。
シグだった。
ほんの一瞬、時間が止まったように感じた。
彼の目線が、
ミラのIDカードと、
私のバンドと、
エレベーターパネルを、順番に撫でる。
バンドが、手首の内側でかすかに震えた。
数字は基準値の範囲内に収まっているのに、
警告の一段手前の、予告みたいな揺れ。
「退棟手続きか」
シグが言った。
「……はい。
短期観察で、経過観察扱いに」
自分でも驚くくらい、
声は落ち着いていた。
ミラが、少しだけ頭を下げる。
「観察外来までの導線確認も兼ねております。
外部委託スタッフのミラと申します」
彼女は、業務用の口調で名乗った。
シグは何も答えず、
ミラのカードに視線を落とす。
カードの片隅。
普通なら誰も気にしないような、
小さな印と番号。
「……外部委託、ね」
呟きのような言葉。
拒絶でも、承認でもない声色。
彼はエレベーターの前から少し身を引いた。
黒いコートの袖で、扉を押さえるように。
「どうぞ」
通路を、開ける。
通せ、という意味にも、
ここで引き返せ、という意味にも取れる。
私は、一歩だけ前に出た。
すれ違いざまに、
シグの目が、私を一瞬だけ捉える。
「“問い合わせる場所”は、覚えているか」
低い声が、マスクの内側から漏れた。
十章の診察室で聞いた言葉が、
少しだけ形を変えて戻ってくる。
「……忘れません」
答えながら、自分の喉が乾くのを感じた。
「間違えたときは、その分の揺れも、
ちゃんとログに残る」
付け足された一言が、
廊下の空気を少しだけ冷たくする。
見逃しているのか、
試しているのか。
どちらにせよ、
彼はこの場を止めない、と決めた。
シグは、それ以上何も言わなかった。
扉の向こうへ足を踏み入れるとき、
彼の指がわずかに動いて、
階数ボタンの一つを押す。
そこに書かれた数字は、
すぐに視界から消えた。
扉が閉まり、
エレベーターが静かに動き出す。
「今の、バレてないの?」
扉が完全に閉まったあと、
私は小声で聞いた。
ミラは肩をすくめる。
「バレてない、っていうより──
“見逃された”感じ、かな」
「見逃された」
「鎮静官ってさ、
全部を止める役じゃないのよ。
止めるべき揺れと、
見ておくべき揺れを、
選ぶ役でもある」
彼女は、エレベーターの天井を見上げた。
「SIG-07。
あの人、こっち側の揺れにも興味があるタイプだわ」
◇
エレベーターは、
いったん下へ動いたあと、
途中の階で一度だけ止まった。
扉が、半分ほど開く。
冷たい空気と、金属と熱の匂いだけがこちらに流れてくる。
白い廊下。
壁に取り付けられた機器の影。
遠くに、アルファベットと数字が混ざったプレートがいくつか見える。
《DC-…》
《LOG-…》
読み切る前に、
誰かが外側からボタンを押したのか、
扉はするりと閉じた。
ミラは、一歩も外に出なかった。
「ここが、この施設の“下”の一部」
閉まりかけた扉を見ながら、彼女が言う。
「感情ログはね、
いったんこういうフロアを通ってから、
都市の奥に送られる。
保安局だったり、医療だったり、広告だったり。
送り先はいろいろ」
「送り先」
「そう」
エレベーターは、今度は地上階へ向かって動き出した。
「ここで集めた揺れは、
まとめて“荷物”にされる。
誰の分を、どこに、どれくらい送るか。
それを決めてる部屋が、どこかにある」
どこか。
扉の向こう。
さっき見えたプレートのさらに奥。
そこが、本当の中枢。
ミラはそうはっきり言葉にしなかったけれど、
私の頭の中では、その場所に
「感情の配達センター」という名前が勝手に貼られていた。
情動カセットの宛先コード。
配達リスト。
都市の奥で動いている、見えない仕分け機。
同じ構造が、別のスケールで繰り返されている。
◇
施設の正面玄関から一歩外に出ると、
街の音が耳に戻ってくる。
車の走行音。
遠くで鳴る工事の音。
人の足音。
どれも、ここ数日の無音に慣れた耳には、
少しだけ眩しい。
「こっち」
ミラは、玄関前の広場を横切って、
脇道に入った。
数分歩いただけで、
さっきまでの白い世界が、灰色と黒の世界に変わる。
古いビルの隙間。
剥がれかけた看板。
地下へ続く階段。
その先に、
地下市場の空気が待っていた。
照明の色。
人のざわめき。
金属と汗とオゾンの混じった匂い。
「おかえり」
誰かが言った。
たぶん、いつもの屋台の店主だ。
私は小さく会釈を返す。
ミラは、人混みの少ない奥のスペースに私を連れていった。
配管がむき出しになっている壁の前。
足もとはコンクリートのひび割れ。
「さて」
彼女は、ようやく本当の声を出した。
「ここからが、本題」
私は、無意識にバンドを押さえた。
「観察棟から、ちゃんと戻ってきた。
出入りのカードも手に入れた。
中枢の匂いも、少しは嗅いでもらった」
ミラは指折り数えるように言う。
「あの夜、言ったよね。
“弟を取り戻したいなら、中枢のログを取ってきて”って」
四章の夜が、頭の中でよみがえる。
レンが連れて行かれた直後、
半分脅しのように突きつけられた条件。
あのときは、
遠い場所の、現実感のない言葉だった。
「──で、まだレンを探したい?」
問いというより、再確認。
「当たり前でしょ」
自分でも驚くくらい、
すぐに言葉が出た。
ミラは、満足そうでも、不満そうでもない顔でうなずく。
「じゃあ、あの条件を、本当にやってもらう」
短い一文が、
あの夜の台詞に現実の重さを足していく。
「弟を本気で取り戻したいなら」
今度は、逃げ道を残さない言い方で。
彼女は、私の手首のバンドではなく、
胸のあたりを指さした。
「中枢のログを“実際に”取ってきて」
初耳の言葉じゃない。
でも、意味はあの夜よりずっと重くなっていた。
中枢への出入り口も、
顔を見られた鎮静官も、
レンのいる更生棟も、
ぜんぶが現実の位置を持ってしまったあとで聞く「条件」は別物だ。
「……ログ」
自分の口の中で、その語を転がす。
「ここで集めた揺れが、
どこに、どれだけ流されているか。
誰の悲しみが、どの階層に、
どのくらい送られているか。
送り先リスト。
配達記録。
“感情の送り状”」
ミラの声は、
いつものように乾いているのに、
瞳の奥だけが少し光っていた。
「あの夜は、半分“約束の予約”だった。
ルートもないのに条件だけ言っても、
さすがにフェアじゃないからね」
彼女は肩をすくめる。
「でも今は違う。
あんたには、出入りのカードがある。
観察外来の肩書きもある。
中枢の匂いも嗅いだ。
レンが“下”にいることも、もう見ちゃう」
もう一度、
心臓のあたりがきゅっと縮む。
条件の内容は変わっていない。
変わったのは、
逃げ道の少なさだ。
「それがあれば、レンがどこに運ばれたか、
だいたい見当がつく」
少し間をおいて、
彼女は付け足す。
「それに、その手の“送り状”は、高く売れる」
バンドの数値が、ほんの少しだけ揺れた。
レンの居場所。
ミラの商売。
私の悲しみ。
全部が、同じ一枚の紙の上に乗せられる感覚。
「……そんなもの、簡単に取れる場所じゃないでしょ」
「簡単じゃないから、価値がある」
ミラは、肩をすくめる。
「あんたには、出入りの権利がある。
“観察外来の患者”っていう、
きれいな表の肩書きもできた。
あとは、中枢に一歩踏み込む覚悟だけ」
覚悟、という言葉は、
この都市の中ではあまり使われない。
でも今は、その単語がいちばんしっくりきた。
私はずっと、
誰かの感情を、他人の元へ運ぶ仕事をしてきた。
今度は、都市が隠している「配達記録」を、
こちら側に引き出してくる番だ。
ミラは、小さく笑った。
「どうする? ユイ。
“前に言った条件”、本当に飲む?」
答えは、最初から決まっていた。
私は息を深く吸って、
自分の声が揺れないように言った。
「……やる。
中枢のログを取ってくる」
ミラの笑みが、少しだけ深くなった。
「いい返事」
彼女は、私の胸ポケットに指先で何かを滑り込ませた。
薄いカード。
さっき施設で渡されたものと、よく似た重さ。
「それ、中枢の手前まで行くための、もう一枚の宛名よ」
彼女はそう言って、踵を返した。
地下市場のざわめきが、
少しだけ大きく聞こえた気がした。




