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EMOTION CONTROL ACT ―その涙は違法です―  作者: 鳥のこころ


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第10話 鎮静官の名前

 診察室は、廊下の途中で唐突に現れた。


 「こちらでお待ちください。担当医がまいりますので」


 係員は、いつもの一定の声でそう言って、ドアを閉めた。


 中は狭い。


 白い机。

 壁に固定された情動モニタ。

 パイプ椅子が二脚、机を挟んで向かい合っている。


 診察室、とプレートには書いてあったけれど、

 ここが「戻すか」「奥へ送るか」を決める仕分け場だと、

 すぐに分かった。


 机の上には紙が一枚もない。

 代わりに、端末の画面の端に、小さなチェックボックスが並んでいる。


 《短期観察》

 《長期観察》

 《更生施設連携》


 どれか一つに印が付けば、

 人間の行き先も、そのとおりになる。


 私は患者用らしい椅子に座った。

 背もたれは金属の冷たさを隠さない程度に薄いクッションが付いている。


 バンドが手首の内側で静かに光っていた。

 今は数値が落ち着いている。

 落ち着かせた。

 落ち着いたふりをしている。


 ドアがノックされる。


 「失礼します」


 白衣の男が入ってきた。

 中年。

 目の下に薄いクマ。

 眠れていない人特有のくぼみがあるのに、声だけはよく通る。


 「診療番号……こちらですね」


 端末に何かを打ち込み、私のバンドと情報を同期させる。

 画面に、私の今日一日の波が、細い線でまとめられていく。


 男は、それを一瞥したあと、教科書に載っているような質問を始めた。


 「最近の睡眠状態は」

 「グレイは毎日服用していますか」

「服用忘れは、週にどのくらい」

 「ご家族に、情動違反歴のある方はいらっしゃいますか」


 質問というより、チェックリストの読み上げだ。

 答えによって何かが変わるというより、

 答えを書き込むために質問が存在している。

 「……弟が一人います。違反で、連れていかれました」


 最後の問いに答えたとき、

 喉の奥に、もう一つの文が引っかかった。


 今は、ここにいるのかもしれない。

 もう、どこにもいないのかもしれない。


 どちらも、まだ言い切れない。


 この診療番号のカルテの家族欄は、

 いまの一文で初めて埋まる。

 元の名前や住区とは結びついていないはずだと、

 自分に言い聞かせる。


 バンドの表示が、一瞬だけ揺れた。

 男はそこを見て、眉をわずかに寄せる。


 「弟さんは、更生の過程にある、という理解でよろしいですか」


 「……連れていかれたまま、連絡はありません」


 連絡。

 そんなものが本当は存在しないということぐらい、

 私も分かっている。


 「そうですか」


 医師はそれ以上踏み込まない。

 端末に「家族歴あり」とだけ打ち込む。

 文字の数は少ないのに、その文字の影はやけに濃い。


 「情動指数自体は、基準値の範囲内に戻っていますが……」


 男が言葉を続けようとしたとき、

 またノックがあった。


 二度、間を置いて、三度目。


 あの夜と同じリズムだと思ってしまったのは、

 私の側の問題だ。


 「入ってくれ」


 白衣の男がそう言うと、ドアが開いた。


 黒いコート。

 白いマスク。

 無駄のない背筋。


 鎮静官が、診察室に入ってきた。


 夜の路地で、レンの腕を掴んだ手袋。

 バンドの警告音。

 叫び声を飲み込んだ自分の喉。


 全部が、一瞬で喉元までせり上がる。


 バンドが、かすかに震えた。

 警告の一段手前の、予告のような振動。


 「ちょうどよかった。例の件で数値を確認しておきたい」


 白衣の男が、黒いコートに向かって言った。


 「シグ、少し見てもらえるか」


 シグ。


 その音が、診察室の空気の中で名前を持った。


 さっき資料の末尾で見た綴りと、同じ音だった。


 「分かりました」


 低く、よく通る声だった。

 マスクの下で口元がどう動いているのかは見えないのに、

 声だけは、こちらの皮膚を正確になぞってくる。


 シグは机の向こう側に回り、端末の前に立つ。

 白衣の男が椅子を譲り、少し横にずれる。


 「対象は?」


 「診療番号──」


 医師が番号を読み上げる。

 シグはそれを端末に打ち込む。

 画面に、私の情動ログが一覧で現れた。


 今日一日の揺れ。

 施設に入ってからの微細な変動。

 待機室B-03での事故。

 記録整理室。

 啓発ルーム。


 その全てが、線と数字と簡単なラベルに変えられて並んでいる。


 シグはしばらく無言で画面を見ていた。


 沈黙が、診察室の空気を固くする。


 やがて、彼は指先である一点を示した。


 「ここ。待機室での変動」


 《揺れ種別:Fear/軽度》

 というラベルの付いた波形。


 「Fear、となっているが──」


 シグはラベルをタップした。

 波形の裏側のデータが、彼だけに見える小さなウィンドウで開く。


 「周波数分布が少し違う。恐怖にしては、粘りがない」


 粘り。

 感情に、そういう言い方があるのかと思う。


 彼は別のログを開いた。


 あの夜。

 路地。

 レンが連れていかれた時間帯の波形。


 《揺れ種別:Sadness/中度》

 《補足タグ:涙》


 「ここもだ」


 シグの声が、微かに低くなった。


 「恐怖と怒りは、ほとんど上がっていない。

  Sadnessだけが立ち上がって、そのまま落ちている」


 白衣の男が、気のない相槌を打つ。


 「生得的な偏り、というやつでしょう。

  たまにいます。恐怖より悲しみが先に出るタイプの……」


 「そういうレベルの偏りじゃない」


 シグが遮った。

 声の温度は変わらないのに、言葉のエッジだけが少し鋭くなる。


 「普通は、恐怖や怒りとセットになる。

  ここには、それがない。

  悲しみだけが、異様に尖っている」


 端末の画面の隅で、英数字の羅列が一瞬だけ点滅した。

 私には意味の分からない記号の列。

 シグだけが、それを確認したように視線を動かした。


 「薬の服用状況は?」


 シグが問う。


 「グレイは毎朝、規定量……」

 医師が答えようとする前に、シグは別の画面を開いて確認した。


 《配給ログ:欠服用なし》

 《違反履歴:軽度の遅延のみ》


 「真面目だな」


 彼は独り言みたいに言った。


 「真面目に抑えようとしているのに、

  抑えきれない種類の揺れ、ってことですか」


 口が勝手に動いていた。

 言葉が出てから、自分で驚く。


 シグはマスク越しにこちらを見た。

 目がどんな形をしているのかは分からない。

 けれど、視線がこちらの喉元に静かに突き刺さる。


「君は、自分の揺れ方を自覚しているのか?」



 「……分かりません。ただ、

  怖いときより、悲しいときのほうが、

  バンドがよく鳴るな、とは思っていました」


 不安定な弟。

 連れていかれた夜。

 レンのいない部屋に戻った朝。


 そのたびに、バンドは静かに震えた。


 医師が、端末越しの数字を見ながら言った。


 「弟さんと関連する話題のときだけ、

  情動指数が部分的に上がっているようですね。

  それ以外はとても安定している」


 「家族歴があることを考えると、

  予防的に長期観察棟に送るのが妥当では?」


 医師は、ごく自然な口調で言った。

 まるで、「少し様子を見ましょう」と同じくらいの軽さで。


 端末の画面の端にあるチェックボックスのひとつが、

 うっすらとハイライトされる。

 《長期観察》。


 そのすぐ下に、小さく《更生施設連携》のボックスがある。


 そこに印が付いたとき、

 レンと同じルートに乗ることになる。


 「待て」


 シグが言った。


 短い言葉だったが、

 白衣の男の指は、チェックボックスに触れる前に止まった。


 「数値を見る限り、

  これは“意図的な違反”のパターンではない」


 シグは冷静な声で続ける。


 「配給は守っている。

  揺れが大きくなっているのは、事故時と、

  弟に関する話題のときだけだ」


 「ですが──」


 「長期観察に回せば、

  弟と同じルートに乗る可能性が高い」


 その言葉は、医師に向けてではなく、

 端末に向けて言っているように聞こえた。


 「君の弟の名前は?」


 シグが、急にこちらを見て尋ねた。


 「……レン」


 声が少し掠れた。

 バンドの数字が、基準からわずかに跳ねる。


 「レン。姓は?」


 苗字を告げる。

 シグの指が、端末の別の画面を呼び出した。


 《収容記録検索》。


 私は、椅子の縁を握る手に力が入るのを感じた。


 「ここで名前を出された少年の記録なら、見たことがある」


 シグはそう言った。


 「どこに……」


 問いが最後まで言葉にならなかった。

 喉が勝手に閉じたのか、

 それともバンドの数字が跳ね上がる前に、

 体が本能的に止めたのか。


 医師が慌てて口を挟む。


 「感情を刺激する話題は控えてください。

  診察中ですので──」


 シグは手でそれを制した。


 「大丈夫だ。数値はまだ基準内だ」


 彼は端末から目を離さないまま言った。


 「……ここにはいない」


 「ここ、って……」


 「この棟。

  君が今いるのは、入り口の一つに過ぎない」


 シグは言葉を選びながら話しているようだった。


 「収容された者が、全員この“初期施設”で治療を終えるわけではない。

  ある段階で、“奥の施設”に送られるケースがある」


 奥。


 更生施設。

 そのさらに奥。


 私の背中に、冷たい空気が触れた気がした。


 「そこに……レンが?」


 「ここで、それ以上は言えない」


 きっぱりとした否定だった。

 でも、“いない”とも言っていない。


 沈黙が、机の上に薄く積もる。


 医師は、その沈黙を数字に置き換えようとするみたいに、

 端末の画面を見つめている。


 「……いずれにせよ、

  ご家族の状況も考えれば、危険予防の観点から──」


 「危険、ね」


 シグが短く笑った。

 マスクに隠れて表情は見えないのに、

 笑いの形だけは分かる。


 「君たちは、ずっとそうしてきただろう」


 彼は医師を見たのではなく、

 壁に埋め込まれた情動モニタの方を見た。


 白衣の男の肩が、わずかに強張った。


 「……いまは、その話をする場ではありません」


 「そうだな」


 シグはあっさりと引き下がる。

 代わりに、端末のチェックボックスを、自分の指で選んだ。


 《短期観察》。


 「現時点で、都市に対する危険度は低い。

  弟の件に関しても、揺れは個人的な範囲に留まっている。

  収容より、経過観察が妥当だ。

  情動保安局側で責任を負う、そう書いておけ」


 「……了解しました」


 医師は小さくため息をつき、

 チェックボックスを確定させる。


 《処置:短期観察/外出制限つき》。


 「一週間ほど、定期的に数値を確認させていただきます。

  その間、決められた範囲での外出は認められます」


 必要最低限の説明だけをして、

 医師は端末を閉じた。


 決まった。

 少なくとも、今この瞬間にレンと同じルートに乗せられることは、避けられた。


 何がどう働いて、こうなったのか。


 私はシグを見た。


 「……どうして、助けたんですか」


 喉から出た声は、自分のものとは思えないほど小さかった。


 「助けた?」


 シグは、その言葉を一度口の中で転がしてから返した。


 「勘違いするな。

  君を守っているわけじゃない」


 「じゃあ──」


 「“何が起きるか”を見たいだけだ」


 彼は端末から目を離さずに言った。


 「この都市では、感情は罰だけじゃない。

  素材にもなる」


 素材。


 私の涙も。

 レンの揺れも。


 そう言われた気がした。


 私は何も言い返せなかった。


 彼の言葉のどこまでが本音で、

 どこまでが役割上の台詞なのか、

 判別がつかなかったからだ。


 診察は終わった。


 医師が形式的な注意事項をいくつか告げる。

 グレイの服用を続けること。

 バンドの警告が出たとき、すぐ申告すること。

 それだけを、マニュアル通りの口調で確認する。


 私はそれにうなずきながら、

 視線だけをシグに向けた。


 彼はもう端末から手を離していた。

 黒いコートの裾が、椅子の背に触れている。


 「では、こちらの用件は以上です」


 医師が椅子から立ち上がる。

 それに合わせて、私も立つ。


 ドアに向かおうとしたとき、

 シグの声が背中にぶつかった。


 「弟を助けたいなら」


 足が止まる。


 医師はすでにドアノブに手をかけていた。

 聞こえなかったふりをしているのか、

 ただ本当に聞こえていないのか、分からない。


 「問い合わせる場所を、間違えるな」


 シグは小さな声で続けた。


 「“更生”という言葉が出てきたときは、

  その裏に必ず別の言葉が隠れている」


 「……別の言葉?」


 「研究でも、管理でも、何と呼ぶかは部署次第だ」


 彼はそこまで言って、黙った。


 バンドが、ほんの少しだけ揺れた。

 警告には届かない、さざ波程度の動き。


 振り向いたときには、

 シグはもうこちらを見ていなかった。

 机の上のレポート画面だけを見ている。


 私は何も言わず、

 医師の開けたドアの外へ出た。


 廊下の空気が、診察室より少しだけ冷たかった。

 バンドの表示は、基準値の真ん中あたりで揺れている。


 レンを連れていったのは、

 この男の腕だった。


 さっき、その腕が、

 私をレンと同じルートから外した。


 救おうとしているのか、

 もっと別の場所に落とそうとしているのか、

 まだ分からない。


 廊下の先に、案内係が待っていた。

 「こちらです」とだけ言って歩き出す。


 私はその少し後ろを歩きながら、

 胸の奥で一つだけ決めた。


 “更生”とか“観察”とか、

 柔らかいことばで塗られた仕分けの先に、

 どんな部屋が続いているのかを、

 全部見る。


 さっきの鎮静官の背中も、

 きっとどこかで、その奥と繋がっている。


 レンにたどり着く道も、

 都市の中枢にたどり着く道も、

 一つだけじゃない。


 どのルートが、自分の涙の行き先と交わっているのか。


 それを確かめるまでは、

 この都市のどこを憎めばいいのかも決められない。


 私は歩幅を一定に保ったまま、

 案内係の背中と、その先に続く見えない通路を追い続けた。

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