第5話(最終話):夜明けの灯(あかり)
あの日──相馬がテレビの常識を覆した「反乱」から、一ヶ月が経っていた。
相馬とヒカリは、まだ局にいた。
クビにならなかったのではない。辞めさせられなかったのだ。
局には数万件の「応援メッセージ」が殺到し、スポンサー企業の株価さえ上がるという異常事態に、上層部は相馬たちの処分を保留せざるを得なかった。
だが、局内の空気はまだ完全に変わったわけではなかった。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言うように、旧体制派の役員たちは、ほとぼりが冷めるのを虎視眈々と待っていたのだ。
そして、その日は突然訪れた。
午後2時46分。
東西テレビの報道フロア全体が、船が揺れるような激しい横揺れに襲われた。
緊急地震速報のアラーム音が、不協和音のように鳴り響く。
「震源地は関東沖! マグニチュード7.8!」
「津波の恐れあり! すぐに特番体制に入れ!」
怒号が飛び交う中、相馬は即座にサブ(調整室)へ走り、ヒカリはスタジオへ飛び込んだ。
いつもの日常が崩壊し、日本中が恐怖に突き落とされた瞬間だった。
発災から3時間が経過した頃、事態は深刻さを増していた。
SNS上には、真偽不明の情報が溢れかえっていた。
『◯◯地区が壊滅したらしい』
『毒ガスが漏れている』
『政府は情報を隠蔽している』
デマがデマを呼び、人々の不安はパニック寸前まで膨れ上がっていた。
東西テレビの役員会議室では、編成局長の阿久津が電話に向かって怒鳴っていた。
「もっと悲惨な映像はないのか! 火災現場だ! 人が逃げ惑う絵を撮れ!」
阿久津は、モニターに映る他局の放送を指差した。
「見ろ、他局は『日本沈没か!?』というテロップで煽りまくっている。これで視聴率をごっそり持っていかれるぞ! うちも『最悪のシナリオ』をシミュレーションしたパネルを用意しろ!」
恐怖は、金になる。
それが、長年染み付いた彼らの「ビジネスモデル」だった。
だが。
現場の指揮官である相馬は、インカム越しに冷たく言い放った。
「お断りします」
「なんだと!?」
阿久津が調整室に乗り込んでくる。
「貴様、社長命令に背く気か!」
相馬は振り返らなかった。彼の視線は、無数のモニターと、その向こうにいる視聴者に釘付けになっていた。
「局長。今、SNSを見てください。国民は『恐怖』なんて欲しがっていません。彼らが求めているのは、『どうすれば生き残れるか』という正確な情報と、『希望』です」
「希望だと? 甘いことを言うな!」
「甘いのはあなただ!」
相馬の怒声が、阿久津を黙らせた。
相馬は立ち上がり、阿久津を睨み据えた。
「ネットには嘘も真実も混ざっている。だからこそ、みんな混乱して、最後の砦としてテレビのスイッチを入れたんです。
その画面から流れてくるのが、不安を煽るだけの『絶望の押し売り』だったら……彼らはどう思いますか?
『もうテレビなんていらない』。そう見限られるのが、本当にわからないんですか!」
相馬は、ヒカリの方を見た。
スタジオに立つヒカリは、震える手で原稿を握りしめていたが、その目は「覚悟」を決めていた。
相馬は阿久津に背を向け、マイクに向かって叫んだ。
「これより、東西テレビは方針を変更する!
煽り映像は一切禁止。悲観的な予測も禁止だ。
流すのは『事実』と『助かるための知識』、そして『人々が助け合っている姿』だけだ!
オールドメディアの意地を見せてやれ!」
画面が変わった。
赤や黒の毒々しいテロップが消え、シンプルな青と白の画面になる。
BGMもない。アナウンサーではなく、作業着を着たヒカリが、淡々と、しかし温かい声で語りかける。
『視聴者の皆さん。不安な夜をお過ごしのことと思います。
ですが、落ち着いてください。
現在、自衛隊と消防が全力で動いています。物資は必ず届きます』
画面には、燃え盛る炎ではなく、倒壊した家屋からお年寄りを背負って助け出す高校生たちの映像が流れた。
避難所で、なけなしの食料を分け合う人々の姿が流れた。
『SNSでは「水がない」という情報がありますが、こちらの給水マップをご覧ください。皆さんの街の、この場所に給水車が来ています』
『「暴動が起きている」という情報はデマです。現場は、驚くほど秩序が保たれています。日本人は、誰一人として理性を失っていません』
その放送は、暗闇の中で怯える人々にとって、文字通り「灯」となった。
恐怖で強張っていた心に、スッと血液が通うような感覚。
ネット上の空気が変わり始めた。
『テレビ見て安心した』
『デマに踊らされるところだった。ありがとう』
『現場の自衛隊員さん、ありがとう』
阿久津は、調整室の隅で呆然と立ち尽くしていた。
視聴率モニターの数字が、他局を圧倒して跳ね上がっていたからではない。
そこに映る「日本」の姿が、彼が思っていたよりもずっと強く、優しく、誇り高いものだったからだ。
「……俺たちが、日本を信じていなかっただけなのか……」
阿久津の呟きは、誰の耳にも届くことなく消えた。
一週間後。
混乱は収束に向かい、街には復興の槌音が響き始めていた。
東西テレビの屋上。
朝日が昇る中、相馬とヒカリは缶コーヒーを飲んでいた。
眼下には、動き出した東京の街並みが広がっている。
「先輩。私たち、戻ってこれましたかね?」
ヒカリが眩しそうに空を見上げる。
「さあな。一度失った信頼は、そう簡単に戻らない」
相馬は苦く笑った。
「だが……『必要ない』とは言われなかった」
スマホには、視聴者からのメッセージが届き続けていた。
『あの夜、テレビの声に救われました』
その言葉だけで、十分だった。
「行きましょう、相馬さん。今日も日本中で、誰かが頑張っています。それを伝えに行くのが、私たちの仕事ですから!」
ヒカリが走り出す。
相馬は飲み干した空き缶をゴミ箱に投げ入れ、大きく伸びをした。
かつて、日本はダメだと報じていた口が、今は「頑張ろう」と叫んでいる。
それは変節ではない。進化だ。
闇を映す鏡から、明日を照らす光へ。
「ああ、忙しくなるぞ」
ニュース・ライターたちの新しい一日が、今、始まろうとしていた。
(完)




