第2話:午前3時の「希望のバトン」
午前2時50分。
深夜のテレビ局は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。廊下の照明は落とされ、非常灯の緑色の明かりだけが、誰もいないフロアを頼りなく照らしている。
その一角、普段は使われない「第3サブ調整室」に、相馬とヒカリの姿があった。
機材には埃がかぶり、モニターの色合いもどこかおかしい。まさに「墓場」と呼ばれる放送枠にふさわしい舞台だった。
「先輩、マイクのレベル、これで合ってますか?」
ヒカリがインカム(ヘッドセット)越しに尋ねる。彼女はスタジオ……といっても、クロマキー合成用の緑色の布が垂れ下がっただけの狭い小部屋に立っていた。
相馬は調整卓のフェーダー(音量調整つまみ)を無造作にいじる。
「ああ、聞こえてるよ。……おい天野、本当にやるのか? 視聴率はゼロだぞ。電気代の無駄だ」
「やりますよ! カメラは私のiPhone、編集ソフトは無料版。予算ゼロでも、想いはタダです!」
ヒカリの無駄に高いテンションに、相馬は大きな欠伸で答えた。
番組名は『バトン・オブ・ホープ』。
たった5分間の枠だ。構成はシンプル。ヒカリが街で見つけた「日本を支える名もなき人」を紹介し、その人が次に紹介したい人へバトンを繋ぐ。それだけだ。
「あと10秒。……5、4、3、2……」
相馬がキューを出す。
モニターの中で、ヒカリが深々と頭を下げた。
『こんばんは。……あるいは、おはようございます。
今夜から始まったこの番組は、ニュースではありません。日本中で静かに輝く、小さな明かりを探す旅です』
BGMもない。ヒカリの少し上擦った声だけが流れる。
そして、画面が切り替わった。
映し出されたのは、早朝の国道沿い。手ブレの酷い映像だ。そこに、一本の箒を持って歩く、背中の丸まった老人の姿があった。
『大田区にお住まいの、山下さん(78歳)。彼は毎日、往復3キロの歩道のゴミを拾い続けています』
映像の中の山下さんに、ヒカリの声が重なる。
——どうして、こんなことを?
山下さんは、照れくさそうに笑って答えた。
『いやぁ、ここを通る高校生たちがね、自転車でパンクしたらかわいそうでしょ。ガラス片なんかがあるとね』
——誰かからお礼を言われたことは?
『ないない。みんな急いでるからね。でも、背中を見送るだけで十分だよ。あの子たちが、今日も無事に学校へ行けるなら、それが一番の報酬だから』
派手な演出も、感動を煽るテロップもない。
ただ、朝日を浴びて黙々とゴミを拾う老人の背中と、アスファルトを掃く「サッサッ」という音だけが響く。
調整室でモニターを見ていた相馬の手が、ふと止まった。
(……なんだ、この絵は)
普段のニュースなら、「行政の怠慢だ」とか「高齢者の孤独」といったナレーションを被せて、社会問題として処理する映像だ。
だが、この映像には、そうした「混ぜ物」がない。
ただそこにあるのは、誰かのために汗を流す人間の、飾り気のない美しさだけだった。
VTRの最後、山下さんはカメラに向かって、はにかみながら言った。
『次に紹介したいのはね、商店街でコロッケを売ってる奥さんだよ。あそこのコロッケは日本一なんだ』
そこで映像は終わり、再びスタジオのヒカリが映る。
『山下さんのバトンは、次回、商店街へと繋がります。……日本は、まだ大丈夫です。おやすみなさい』
——CM入り。終了。
あっけない幕切れだった。
「……ふうぅぅ」
スタジオから出てきたヒカリが、その場にへたり込む。
「相馬さん、どうでした!? ちゃんと流れてました!?」
「ああ。放送事故にはならなかったな。……まあ、誰も見てないだろうが」
相馬はスマホを取り出し、惰性でX(旧Twitter)を開いた。
番組のハッシュタグ「#バトンオブホープ」で検索する。
どうせ「つまらない」「宗教か?」といった罵倒が数件あるだけだろう。
しかし。
『偶然テレビつけたら、なんか泣けてきた』
『このお爺ちゃん、知ってる! 毎朝挨拶してくれる人だ!』
『最近、ネットで人の悪口ばっかり見てたから、こういうの見たかった』
『日本、捨てたもんじゃないな』
投稿はまばらだ。十件にも満たない。
だが、そこにはいつもの「炎上」や「批判」といった棘がなかった。
深夜の静寂に、ポツリポツリと温かい灯りがともるように、優しい言葉が並んでいた。
「……おい、天野」
「はい? やっぱダメでしたか?」
「見ろ」
相馬はスマホの画面をヒカリに見せた。
ヒカリが目を見開き、そして口元を手で覆う。
「……届いた……」
「数人の物好きが見てただけだ。勘違いするな」
相馬はぶっきらぼうに言い捨てて、調整室の電源を落とした。
だが、その胸中は穏やかではなかった。
数字(視聴率)には表れない、視聴者の「体温」を感じたのは何年ぶりだろうか。
批判を煽って得られる興奮ではなく、静かな共感。
この小さな種火は、もしかすると……。
「相馬さん! 次の取材、明日行ってきますね!」
「……勝手にしろ。俺は寝る」
相馬は背中を向けたが、その口元がわずかに緩んでいることを、ヒカリはまだ知らない。
深夜3時。
日本の片隅で生まれた小さな希望のバトンは、まだ誰にも気づかれないまま、静かに手渡されようとしていた。
(第3話へ続く)




