第09話 願い
……困ったことに、自分の願いに心当たりが全く無い。
〝自ら眠らせてしまった……心の奥底へ沈んだ願い〟……?
それは幼い頃の夢とか希望……? 覚えていられないような願いは、果たして、心からの願いと言えるのだろうか?
きっと忘れてしまう程度のものだったのだろう。それよりも、今はもっと気になる事がある。それは──
「(女神様が〝助けてもらいに来た〟──というのは……)」
そこまで言って、あれ? と、違和感を感じる。何だか辺りが暗くなっているような……。いや、女神様の光が小さく──!?
「(……実は訳あって、吾の本当の体は、今……或る者によって封じられているのです……)」
女神様を──封じる!?
「(隙を窺い、辛うじて思念を飛ばし、こうして顕現しているに過ぎないのです……。此の身に残された神気も極僅かしか在りません。いよいよ刻がなくなってきました)」
「(その或る者とは一体……)」
「(自ら名乗る事はしていません。故に人の子らは 〝魔 帝〟 ──そう渾名しています)」
「(ま……)」
「(一国の主で在りながら、其の影響は世界中に及んでおり、魔帝に立ち向かう者は途絶えて久しい……。吾が頼みとしていた人の子の友も倒されてしまいました……)」
「(女神様をお助けするというのは、まさか……)」
「(──そう。彼の者を倒して欲しいのです)」
「(お、お言葉ですが……私みたいな何の変哲もない若造がそんな大それた事……)」
「(汝は一人では在りませんよ。共に死の先を生きる相棒が在るではないですか)」
──相棒って……
「みぃ〜?」
こ、子猫……!? 確かに妙な縁で一緒に居るけれど、それはちょっと無茶な話では……。
「(何より可能性を感じるのです。其の純粋な願いの強さ故に)」
また……願い……。
「(私にそのような願いがあるとは思えま──
女神様の右手の人差し指がご自身の唇へ……なので俺は、次のお言葉を待つ。
「(無論、今の吾に在る……此の僅少な神気では為し得る事は困難ですが……)」
──然し、と女神様はお続けになり、目を閉じられ、両の手をご自身の胸に当てられて仰った──
「(若しも解放され、神気を完全に取り戻せたならば、何の様な願いでも一つ、叶える事が出来ましょう)」
──願いが 叶う。
それを聞いた瞬間に、ある光景が瞼の裏に浮かび上がった。
「(但し、其の叶え方なのですが──)」
女神様は続けて何か仰っていたけれど、鮮やかに蘇った自分の願いに五感の全てを持っていかれ、目も耳も、その機能を停止してしまっていた。
あった……。確かにあった。俺の願い。胸を締め付けられるくらいの、心からの願い。
忘れたんじゃない……諦めてしまったんだ……だってその願いは──
扉が 開く。
あの日……終に開くことのなかった玄関のドアが開かれる。夕方……まだ日の沈みきっていない茜色の空を背に両親が帰ってくる。幾筋も差し込んだ光に照らされて、舞い上がった塵や埃ですら、まるで閃光を放つみたいにキラキラと眩しく、輝いて見えるんだ。
「いやー、少し遅くなっちゃったかな? メンゴメンゴ。道が混んでてさ」
「ごめんなさいね。お腹すいたでしょう?」
──とか話しながら、済まなそうな笑顔で戻ってきた二人に……俺は……言うんだ。
ずっと言いたかった…… 言えなかった……
今も胸にあるこの言葉……
お父さん、 お母さん、
「 おかえりなさい 」
一言……
この……たった一言が言え……たのなら……どんなにか……
心が弾ける。
俺はボロボロ泣いていた。
制御を失った感情が息苦しさと共に噴き上がり、目の奥でマグマのように渦巻いて、涙となって溢れ出していた。
泣き叫んでしまいそうになるのを必死に堪える。
だって……まだ……俺は……何も成し遂げてはいないのだから……。
「みぃー」
「(そうですか……わか……した。この人の子…………なので、汝も……どうか……あげて……さいね)」
「みっ!」
何だか……遠くから子猫の鳴き声と女神様のお声がする……。
飛んでいた自分の意識が段々とはっきりしてきた。
──女神様と目が合う。
「(それで、人の子よ──汝の答えは……)」
「やります。俺は──貴女様をお助けします」
──迷いは無かった。
願い、目指すものがあるということが、こんなにも自分を奮い立たせるとは。
少し驚いた表情で暫し俺をご覧になられ、そして──
「(其の様に凛々しき泣き顔は、吾も見るのは初めてです)」
──と、仰って微笑まれた女神様も、何故か泣きそうなお顔なのだった。
心願の女神様の解放……絶対に楽なことではないだろう。
けれど……この胸の裡にある願いが本当に叶うのならば……どんな困難も乗り越えてみせる。
──そう固く決意すると、全身がわずかに震え、鳥肌が立つ。これが──武者震いってやつか。
涙を拭って、前を向く。
「みっ!」
──〝自分もいるぞ〟と、言うかの様に、肩の子猫が軽く爪を立てる。
そうだな……何の因果か、俺とお前は一蓮托生みたいだ。
「向かう先は──異世界──ですよね」
「(然り、です。汝らは、元の世界にはもう……)」
「構いません。覚悟は決めました!」
「みぃー!」
「(──其の決意、何よりも頼もしく、そして嬉しく思います)」
先程より更に小さくなった光の中、それでも女神様は力強い笑顔と共に、両腕を大きく広げられて──
「(それでは誘いましょう──汝らを 異世界へ!)」




