すみませんダッシュマン
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
報告者:惑星メナリス第三調査隊 知覚係 α=12-β。
対象:地球人類、山手線・内回り、7時52分発。行動観察。
観測場所:地球圏首都圏、山手線車両内。時刻は午前7時52分。
地球人類における「通勤ラッシュ」という奇習は、毎朝ほぼ同一の時間に再生される集団儀式のようだ。
車内はすでに飽和状態。
吊り革はすべて占拠され、背中と背中の隙間は分子レベルに近づき、呼吸音すら互いに干渉しあっている。
個体群は沈黙を選び、ただ「到着」という未来の瞬間に身を委ねていた。
どこからやってきたのか
——その沈黙を破ったのは、突然の声だった。
「すいませんっ……すいません、すいません、すいませんッ!!」
満員電車という高密度の肉壁を突き抜けるように、声と共に一人の男が現れた。
黒いビジネスリュック、やや斜めに掛けたコート。
目は真剣、口は絶え間なく謝罪を紡ぐ。
右肩を小刻みに下げて軌道をずらし、左腕で吊り革をかき分ける。
衝突の瞬間をゼロ距離で回避しつつ、彼は一直線に前方へと進んでいく。
その挙動は、戦場における奇襲部隊のようでもあり、または舞台上で即興のダンスを披露する演者のようでもあった。
だが、共通するのはただ一つ——「必ず進む」という不屈の意思。
周囲の人間は動揺した。
「なにごと?」
「火事? いや違う」
「逃走?……いや移動だろ」
一人が「痴漢か?」とつぶやけば、別の者が「違う、あの顔に悪気はない」と即座に否定する。
なるほど、彼の表情には悪意の影がまるでなかった。
むしろ、国家的使命を帯びているかのような、妙に神聖で必死な眼差し。
「すいません……すいません……!」
それは呪文のようでもあり、盾のようでもあった。
彼の存在を正当化する、たった一つのパスワード。
男は止まらない。
7号車から8号車へ。
押しのけるのではなく、滑り抜ける。
ぶつかる前に謝罪を差し込み、摩擦を最小限に抑える。
人々はその姿を“邪魔”と断じながらも、どこかで道を開けてしまう。
まるで、群れの中を突き進む一匹の異種を本能的に許容してしまうように。
やがて彼は9号車、そして10号車へと消えていった——。
もっとも、この報告は視認ではなく“耳の残響推定”によるものである。観測装置を用いれば、どこに消えたのか特定は容易であるが、そこまで行う意味は?と思い断念した。
肉眼と聴覚だけに依存した場合、正確な座標追跡は不可能だ。ゆえに“消えた”という表現自体が、すでに地球的表現の借用である。
背中に浮かんでいたのは、「急ぎます、でも悪い人じゃありません」という見えざる看板。
その余韻だけが、車内に残された。
次回はぜひ観測装置を用いて追跡したい——が、再現性の低さから期待値はきわめて小さい。
観測個体たちの反応は分裂していた。
「……なんだったの、今の」
「トイレ? でも車内にはないよな」
「忘れ物? この密度で回収できるわけがない」
誰も真相を知る者はいない。
だが、知ろうとする者もいない。
彼の存在は、あまりにも唐突で、しかし妙に日常的すぎた。
■補足観察
“すみませんダッシュ”は、地球人類の都市圏において稀に観測される現象である。
その本質は「合理性を超越した移動欲求」。
出口を間違えた者か、乗り換えを急ぐ者か、あるいは隣車両にいる恋人を追う者か。
理由は不明であり、むしろ理由の不明さがこの行動の神秘性を増している。
注目すべきは、その行動が社会的に「ある程度許容されている」点だ。
本来ならば、混雑した車内を突き進む行為は強い反発を生む。
しかし「すいません」という謝罪の繰り返しが、衝突エネルギーを中和する。
謝罪は攻撃を無効化する呪文であり、ダッシュマンの速度はその呪文を最大効率で利用している。
つまり、彼は「謝罪と移動」を高度に融合させた存在——
都市交通という戦場における、無自覚の戦術家なのだ。
■あとがき
今日もどこかの車両で、「すみませんダッシュマン」は走っているだろう。
目的地は誰も知らない。
だが、その背中にはいつも「急ぎたい、でも悪意はない」という不思議なメッセージが漂っている。
人々は道を譲り、困惑し、やがて忘れる。
そして翌日もまた、別のダッシュマンが生まれる。
都市伝説とは、本来こうして日常に紛れ込むものなのかもしれない。
次に彼と遭遇したら、どうか道を開けてあげてほしい。
彼はただ、「すいません」と唱えながら、
都市のダンジョンを駆け抜ける勇者なのだから。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆さんの周りにも、似たような“観察したくなる人”はいますか?
コメントや感想で教えていただけると、調査隊の記録に加えられるかもしれません……。
引き続き、地球人観察を一緒に楽しんでいただければ嬉しいです!