親切という地雷
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
報告者:惑星メナリス第三調査隊
対象:地球人類、山手線、午後2時。行動観察。
観測場所:首都圏循環型移動装置「山手線」内。
時間は午後二時、混雑のピークでもなく、閑散でもない、いわば「余白」の時間帯。
座席はほぼ埋まりつつも、立っている人々に余裕がある程度の乗車率であった。
対象個体、識別名「松井」。年齢推定20歳前後。大学生と見られる。
松井個体は、優先席の一角に腰を下ろし、書籍を広げ、静かに文字を追っていた。
彼の表情は穏やかで、周囲への意識は薄く、知識世界に没入していた。
そのとき——
彼の眼前に、一人の男が立った。
帽子はグレー、衣服は安価な合成繊維製ウィンドブレーカー。
髪は白く、わずかに猫背気味。推定年齢70代前後。
外形的特徴から「高齢者」に分類することは容易であった。
松井個体は一瞬逡巡した。
その後、彼の口角がわずかに上がり、書籍を閉じる。
「どうぞ、よかったらお掛けください」
——地球人類における典型的な「親切の表明」である。
だが、次の瞬間、空気は急速に変質した。
男の眉が吊り上がり、眼球が細く鋭くなった。
声は抑えられていたが、内に熱を含んでいた。
「……は?」
松井個体は直ちに姿勢を正し、防御反応を示す。
目の前の男が発した言葉は、予測不能な方向を指していた。
「君、わしのどこが“座らなきゃいけないほど年寄り”に見える?」
松井の思考は一瞬停止した。
(えっ、そこ来る……!?)
慌てて言葉を繋ごうとするが、舌が追いつかない。
「いや……その、見た目でというわけではなく……」
だが、男は言葉を遮る。
「まったく最近の若いもんは、人を“高齢者”ってだけで括りやがって。健康年齢って知ってるか?今どきの70は昔の50だぞ?」
——「老い」を示唆されたことへの拒絶。
そこに宿るのは怒りというよりも、強烈なプライドの防衛反応だった。
松井の表情は汗ばみ、困惑を隠せない。
「す、すみません……そんなつもりじゃ……」
その緊張を割いたのは、第三の声だった。
近傍に座していた女性個体。年齢推定30代前半、いわゆる「OL風」。
彼女は通信端末を操作しながら、顔を上げることもなく、ひと言。
「怒る元気があるなら座っていいと思うけどな……」
車内空間の温度が一瞬にして凍りつく。
だが、その硬直はすぐさま微細な亀裂を生み、緩和に転じた。
男性個体は鼻を鳴らし、わずかな照れ隠しを纏う。
「……ま、そうだな」
そう言い残し、ドア付近へと歩を移した。
残された松井は、深い息を吐き、再び席に腰を沈めた。
視線は窓外に泳ぎ、心の中で呟く。
(親切って、時に地雷より怖い……)
■補足観察
本事象における核心は、善意の提供が必ずしも受容されるとは限らない、という事実にある。
メナリスにおける社会体系では、親切や譲歩はシステム的に自動化され、拒絶は存在しない。
ゆえに「思いやりが拒絶される」現象は、理論上あり得ない。
しかし地球社会では、親切はしばしば“鏡”となる。
それを受け取る側の自尊心や自己認識を映し出す。
「老人として扱われたくない」という願望は、善意をも攻撃的に反転させる。
特に「老い」という概念は、個体ごとに感情の温度差が激しい領域である。
ある者にとっては座席を譲られることは優しさであり、また別の者にとっては屈辱である。
この矛盾こそが、人間社会の複雑さを形づくっている。
そして、この複雑さを処理するのは、数値でも制度でもなく、「場の空気」である。
今回、女性個体の一言が冷却剤となり、場を収束へ導いた。
この“第三者の介入”は、地球人類社会における小宇宙的平衡作用の一例といえる。
■あとがき
親切とは、必ずしも祝福の形をとらない。
それは時に相手の自尊心を揺さぶり、刃のように作用する。
だが、だからといって思いやりを放棄すべきではない。
「どうぞ」と差し出す声の根底には、やはり人を思う温度がある。
拒絶されようと、怒りを買おうと、その温度は文明の基盤にある“互助の火種”である。
——親切とは地雷である。
だがその危うさを恐れて失えば、彼らの社会はきっと静かに乾いてしまうだろう。
地球人は、爆ぜることを恐れながらも、今日もなお互いに火薬庫へ足を踏み入れている。
そしてその危うさこそが、彼らの文明をきらめかせる、小さな爆ぜる星々なのだ。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆さんの周りにも、似たような“観察したくなる人”はいますか?
コメントや感想で教えていただけると、調査隊の記録に加えられるかもしれません……。
引き続き、地球人観察を一緒に楽しんでいただければ嬉しいです!