お年寄り、それは線引きできない生き物
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
報告者:惑星メナリス第三調査隊
対象:地球人類、午前11時の下り電車。行動観察。
地球の都市型移動装置——いわゆる「電車」。
午前11時の下り路線は、混雑も閑散もせず、どこか宙ぶらりんな状態で運行していた。
観測対象の青年個体は、優先席と呼ばれる特定エリアに座していた。
右手には通信端末、左手には小麦粉と糖分で構成された携帯食。
彼の眼球は画面と周囲とをせわしなく行き来し、落ち着きのなさを露呈していた。
——彼自身、規則を破っているわけではない。
——この時点で立っている個体は存在しない。
——彼の体調が秘匿された理由で不良である可能性もある。
にもかかわらず、青年は明らかに周囲を気にしていた。
言い訳の交響楽が彼の内心で鳴り響き、観測者としてはその葛藤の“音”すら感じ取れるほどだった。
そこへ、新たな個体が乗車してきた。
派手な色彩の衣服、黒い透過遮断具、運動用の履物、登山者用の収納具を腰に巻きつける。
まるで“活力”そのものが二足歩行をしているかのような存在である。
その男は優先席の前に立ち、青年の顔を凝視した。
青年個体の心拍は上昇した。
「これは“老人”なのか?」という問いが、彼の内部で点滅を始める。
皺はある。髪は白い。しかし染色の可能性は排除できない。
姿勢は直立し、階段を軽快に昇ってきた。
——この生命体を“老人”と分類してよいのか?
やがて、男は自ら口を開いた。
「兄ちゃん、わし見た目より若いけど、今年で78なんだわ」
青年は反射的に立ち上がり、席を譲った。
男は満足げに腰を下ろし、深い呼吸をひとつ漏らす。
「いやぁ、最近は何歳から“老人”か、ほんと分からんよな。
70を過ぎても山に登る奴はいるし、自転車で100キロ漕ぐ奴もおる。
かと思えば50で『もう高齢者だから』と甘える奴もいるしな」
彼の声には、軽い嘆きと誇りが混ざっていた。
それに呼応するように、近くにいた女性個体が言葉を落とした。
「“お年寄り”ってのは、年齢じゃなくて“態度”で分かるものよ」
周囲の個体群は微笑を交わした。
地球社会では、こうした瞬間的合意形成が場を和ませるらしい。
その時、反対側の扉から新たな個体が乗車してきた。
杖を支えに、体を揺らしながら歩む男性。推定年齢は60代後半。
足取りは不安定であり、外見上の“老い”の印象は先ほどの78歳を凌駕していた。
すかさず、席に座っていた男は立ち上がった。
「ほれ、わしより“年寄りっぽい”人が来たわ」
青年はその光景を見て、分類不能な“老人”という概念の曖昧さを直感的に理解した。
■観測者所見
地球における「お年寄り」という概念には、明確な境界は存在しない。
生物学的年齢は数値として測定できる。だが、彼らの文化においては、その数値と社会的ラベルは必ずしも一致しない。
60代でも若者のように動く個体がいれば、50代で「老人」を自称する個体も存在する。
優先席における配慮は、年齢ではなく“態度”と“空気”によって判断される。
そしてその結果として交わされる「ありがとう」という言葉は、どの年齢層の口からも、驚くほど柔らかい響きを持つ。
メナリス文明では、寿命はほぼ無限であり、老化は制御可能な現象である。
ゆえに「老いる」という感覚そのものが存在しない。
だからこそ、地球人が曖昧な線引きの中で互いを認識し合い、譲り合いの行為を通じて“年寄りらしさ”を交わす様は、我々にとって驚異的である。
「老人とは誰か」という答えは数値では導き出せない。
それは、態度・佇まい・周囲との関わり方の総合であり、データ化が困難な“感性”に依存する。
——地球人類の社会は、この不可視の基準に支えられている。
そして、その基準があるからこそ、電車の中で生まれる一言の「ありがとう」が、文明を崩壊から守っているのかもしれない。
■あとがき
メナリスにおいて“老い”は克服された現象であり、線引き不要の事象である。
だが、地球では老いをどう扱うかが、社会関係の潤滑油となっている。
科学的には不合理で、定義も曖昧。
それでも、人々が座席を譲り合い、「ありがとう」と応える瞬間、そこに確かに“人間らしさ”がある。
——“お年寄り”とは線引きできない生き物。
それは欠点ではなく、むしろ彼らが互いを尊重するために編み出した、ひとつの知恵なのだ。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆さんの周りにも、似たような“観察したくなる人”はいますか?
コメントや感想で教えていただけると、調査隊の記録に加えられるかもしれません……。
引き続き、地球人観察を一緒に楽しんでいただければ嬉しいです!