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紙の覇者

数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。

この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。

もし気に入っていただけましたら、ブックマークや感想をお寄せいただけると、作者にとって大きな励みとなります。

なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。

報告者:惑星メナリス第三調査隊 知覚係 α=12-β。

対象:地球人類、局所時間における通勤列車内の行動観察。


1. 目撃


それは、局所時間8時33分。

日比谷線・下り列車。


圧縮された群れ。

吊り革に縋る個体、手元に光る板を持つ個体、耳に白い管を差し込む個体。

その大半は、スマホと呼ばれる光る矩形へ意識を吸い込まれていた。


この空間は一種の“沈黙の祭殿”。

誰も語らず、誰も笑わず。

ただ画面に流れる映像や文字列へ、無言の祈りを続けている。


だがそのとき。

群れの中で——逆行する者が現れた。


2. 紙の展開


彼は静かに鞄を足元に置き、

おもむろに手にしていた二つ折りの大判を広げた。


——新聞である。


観測者は一瞬、考え込んでしまう。

原始にもほどがある。

この高度情報社会において、なぜ彼は燃料にもならない薄い木片の集合体を展開しているのか。

あの物質は何なのかと、自問自答せざるを得なかった。


「繊維を圧縮し、染料で文字を焼き付け……情報を固定?」

「更新は……一日一回? なんと低速な……」


理解不能。だが同時に、妙な威厳が漂っていた。


しかも巨大、A2サイズ。

見開かれたその瞬間、周囲の空気がカシャリ、と音を立てた。

実際にはただの紙の擦れる音。

しかしそれは、この電子の森に吹く“唯一の風”だった。


「……紙?」

「今の音……新聞だよな?」


乗客たちは一瞬だけ顔を上げ、視線を泳がせた。

だがすぐに、気づかないふりを決め込む。


3. 紙面統治者


その男は堂々と立っていた。

座席の端でも、ドア横の余白でもなく、群衆のただ中。

にもかかわらず、両肘を浮かせ、紙を隅々まで展開している。


——まるで城壁を築くように。


折り目を撫で、記事を指でなぞり、見事な手捌きで次のページをめくる。

紙の擦過音が、スマホの無音の世界に突如として侵入する。


観測者は理解した。

彼は単なる読者ではない。


彼は“紙面統治者”であった。


4. 真に読む者


驚くべきは、その眼差しだった。


多くのスマホ保持者は「見ているふり」をしている。

惰性でスクロールし、意識は半分眠っている。


だが彼は違う。

新聞男は、一行一行を刻むように視線を運び、

政治、経済、社会、スポーツ……

そのすべてを全力で受け止めていた。


その眼差しは、紙面に穴をあけるほどの眼力を帯びていた。

まるで記事そのものを透過し、背後の時代精神を読み取ろうとしているかのように。


紙越しに彼は“時代”と対峙していた。

そこには演出も通知もない。

ただ、現実の厚みだけがあった。


混雑?

スマホ?

——関係ない。


新聞男にとって、この一面こそが朝の瞑想であり、日々の戦いなのだ。


5. 不器用の美学


もちろん、紙の展開は不便である。

肘はぶつかり、隣人の肩をかすめ、視線を遮る。

電子端末のような軽やかさはない。


だが——観測者にはそれが、美しく見えた。


「広げにくい」という制約を引き受けるその姿勢。

「紙を読む」という行為そのものを貫く矜持。

それはもはや、文化遺産の保存行動に近い。


人々が光る矩形に逃げ込むなか、彼だけは紙の舟で情報の海を渡っていた。


6. 退場


やがて列車は某駅に停車。

新聞男は最後のページを閉じ、

信じられないほど滑らかな所作で新聞を二つ折りにまとめた。


その折りたたみは、刀を鞘に納める武士の動作に似ていた。

無駄がなく、誇りがあった。


彼は紙を脇に抱え、群れをかき分けることなく、ただ静かに降りていった。

現代と和解する気配のない背中を残して。


車内に、誰かの声が小さく漏れた。

「……なんか、かっこよかったな」


その一言は、紙の音を“風”として感じ取った証だった。


7. 記録


観測者はこう記す。


地球人類において「紙を読む」という行為は、

もはや少数派、絶滅危惧の文化である。


だがその少数派は確かに存在する。

スマホという光の海に抗い、なお紙の舟を漕ぐ者たち。


彼らは都市の密室において、異質でありながら尊厳を持つ。

彼らの指先には、情報ではなく“時代の厚み”が刻まれているのだ。


あとがき


新聞男。

彼はもはや都市伝説のように希少な存在かもしれません。


しかし彼らは生きている。

光る矩形が支配する車内に、なお紙の手触りを響かせる。


広げにくくても、畳みにくくても。

新聞には確かに「物理的な厚み」と「時代をめくる手応え」がある。


それをあえて、この朝に実践するという矜持。

彼はスマホに依存しない、最後のサムライかもしれない。


そして、私たちが忘れかけていたことを思い出させてくれる。

——情報は、光ではなく、手でめくるものだった、と。


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