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透明乗車

数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。

この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。

もし気に入っていただけましたら、ブックマークや感想をお寄せいただけると、作者にとって大きな励みとなります。

なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。

報告者:惑星メナリス第三調査隊 知覚係 α=12-β。

対象:地球人類、局所時間における通勤列車内の行動観察。


午前8時46分。渋谷駅。

通勤ラッシュの極点に位置する時間。


混雑率は計算上180%。

四肢の可動域はほぼゼロ。

人間の群れはもはや個体ではなく“集合生物”として振る舞っていた。


足はつま先立ち。

腕は鞄から切り離されたかのように浮遊。

呼吸は「自分の空気」ではなく「全員の呼気」をシェアする形式。

観測者の立場からすれば、この密度はすでに生命維持実験に近い。


——そんな群れの中に、ひとりの“異常個体”が存在していた。


“完全に気配を消す男”。


誰も彼が乗車した瞬間を見ていない。

ドアが開いたのは確かだ。

列がわずかに進んだことも、群れ全体の身体が理解している。


だが——

「え、今乗った?」「いつの間に!?」


気づけば、彼はすでに車内の奥の奥にいた。


観測者の分析装置を用いても、正確な侵入タイミングは検出不能だった。

彼は加速度センサーにも触れず、視覚的残像も残さず、ただ“結果”として存在していた。


——奇妙なことに、彼の移動には一切の摩擦が伴わなかった。


押し合う人々の肩をすり抜ける。

誰の肘にも触れない。

誰の鞄も揺らさない。


まるで「流体」であった。

圧縮空気が隙間に流れ込むように、彼は群れの間を通過していった。


呼吸音なし。

咳払いもなし。

汗すらかいていない。


“居る”というより、“空間に滲んでいる”。


——その異様な存在感のなさは、かえって観測者の感覚器をざわつかせた。


隣に立っていたサラリーマンが、不意に眉を寄せ、つぶやく。

「……あれ、今俺の前に……誰か通った?」


女子高生二人組は、視線を交わし合い、小声で囁く。

「ねえ、今の……人、いたよね?」

「え、いたっけ? 気のせいじゃない?」


その不確かさこそが、この男の最大の武器だった。

彼は物理的には存在している。

だが、心理的には存在を削られている。


人間の群れにとって「邪魔にならない」は徳である。

しかし彼の場合はそれを超越し、“記憶に残らない”域に到達していた。


——やがて次の駅。


ドアが開く。

人々が波のように押し出される。


そして彼は、乗り込んだときと同じように、

何の抵抗もなく、スッと降りていった。


押さない。声をかけない。

ただ、霧が晴れるように消える。


残された空気には、ごく淡い余韻だけが漂っていた。

「今の人……いた? 本当に?」


誰かがそう呟く。

しかし答える者はいない。


——観測記録によれば、確かに彼はそこにいた。

だが人類の誰ひとりとして、その存在を確信していない。


観測メモ


本個体の行動は「社会的摩擦ゼロ移動」と仮称する。


他者の身体接触回避率、理論上は不可能値(混雑率180%において接触ゼロ)。


“透明性”は能力か、心理的錯覚か、あるいは高度な社会的擬態か。


群れの反応は「不確実記憶」として処理。存在は認知されても、すぐに否定される。


あとがき


都市には、存在感の強すぎる人々がいる。

大声で通話する者、荷物を広げる者、空間を独占する者。

彼らは群れの記憶に“迷惑”として刻まれる。


だが時に、その真逆も現れる。

——存在感のなさすぎる超人。


彼は誰の邪魔もしない。

誰の記憶にも残らない。

けれど確実に目的を果たしていく。


ある意味で、現代都市における理想的通勤者の究極形である。

「いたのかいなかったのか分からない」という状態は、

摩擦のない社会を夢見る人類にとって、ひとつの到達点なのかもしれない。


ただし——

本当に“いた”のかどうか、誰も断言できないのだ。


もし次に、あなたの目の前にふと人影が立っていたら。

それはきっと、この“透明乗車”の男である。


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