座席という玉座を奪いし者
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
報告者:惑星メナリス第三調査隊 知覚係 α=12-β。
対象:地球人類、局所時間における通勤列車内の行動観察。
午前8時15分、東京の某駅。
電車到着を待つホームは、秩序正しい静寂に包まれていた。
人々は線に沿い、整列する。
社会的契約を内面化した群れ。
——少なくとも外見上は。
だがその集団の端に、わずかな乱れがあった。
一人の男。
彼は列の「外」に存在していた。
正確には、並ぶふりをして、実際にはドアの真正面に立ち尽くしていた。
膝を緩め、身体を低く沈める。
かつて惑星メナリスで観測した“肉食獣の狩猟前姿勢”と酷似していた。
まさに跳躍の準備。
——電車到着。
ゴォォォ……シュッ。
ドアが開く。
通常、ここで人類社会は「降りる人が先」という普遍的ルールを適用する。
大人も子供も知っている。
誰もが守る。
秩序の美学。
だが彼は違った。
「行けッ!俺!!」
彼の脚部筋肉が炸裂した。
まさにロケットスタート。
ドアから降りようとする女性と衝突。
ランドセルを背負った少年がバランスを崩す。
人々の眉間に皺が寄る。
だが——彼は止まらない。
彼にとって「降りる人」は障害物競走のハードル。
避ける対象ではなく、跳び越える対象。
**“降車者=風景”**という認識の下で、彼は一直線に駆け抜ける。
結果。
空いたばかりの窓際席へ、一直線。
見事に着席。
——ミッション成功。
彼は息を整え、ジャケットの裾をなぞり、スマホを取り出す。
その顔にはわずかな誇りが浮かんでいた。
宇宙的に言えば、獲物を仕留めた捕食者の余裕。
しかし周囲は沈黙の冷気に包まれていた。
誰も声を荒げない。
だが、目線と心拍数の変化が雄弁に物語る。
「譲らないのか……」
「よく平然としていられるな」
「勇敢というより、厚顔無恥の研究対象」
心の声は聞こえない。
だが群れ全体の空気は、確実に濁っていた。
一方で彼は堂々たる“勝者の孤独”を生きていた。
ニュースアプリをスクロールする指は滑らかで、座席は完全に玉座。
周囲に広がる違和感を、彼はおそらく感知していない。
——3分後。
電車は「清風町」に到着。
ドアが開く。
彼はすっと立ち上がり、何事もなかったように降車した。
周囲の視線も、冷気も、責める声も、
彼の背中を追わなかった。
その瞬間、残されたのは一つの“罪の椅子”。
ぽっかり空いたその座席に、誰も近づこうとしない。
まるで「座ったら自分までマナー違反に染まる」とでも言うように。
観測者から見れば、それは感染を恐れる群れの回避行動に酷似していた。
——すべては、たった一駅のため。
彼が投じた無礼と衝突と羞恥は、3分間の玉座のために消費された。
計算としては割に合わない。
だが彼の表情には満足が宿っていた。
彼にとって、価値は“時間”ではなく“座れたか否か”。
その二値論こそが、彼の世界観だったのだ。
観測メモ
この個体の行動は「マナーを知らない」のではなく「知った上で無視する」選択型。
群れ全体は直接的な制裁を加えないが、空気的制裁=沈黙と回避を選ぶ。
座席はただの家具ではなく、社会的象徴として“玉座”化している。
**「席を得る=勝利」**という価値観は、短時間でも強力に人間を動かす。
あとがき
都市には時として、小さな暴君が現れる。
彼らは秩序を壊すために存在しているのではない。
ただ、自分の快適を最優先に“ルールより自己”を選択するだけである。
皮肉なことに、その決断は時に少しだけ得をする。
——だが、我々は観測している。
それは「勝利」ではなく「信頼の失陥」であることを。
座席は確かに得た。
だが、尊敬は失った。
そしてその空席は、人間社会において“汚染された椅子”として、しばし放置される。
まるで目に見えぬ放射線を帯びたように。
都市とはかくも脆く、かくも奇妙で、そしてどこかユーモラスな劇場である。
今日もまた、誰かが玉座を狙って群れをかき乱し、
そして誰かが、その椅子を恐れて立ち尽くすのだ。




