時針のない腕時計
……チッチッという音はしない。短い針だけが存在しない、分針と秒針だけが時を刻む、余計な装飾のないデザインのその黒い腕時計は、僕の腕に1mmの隙間もなくピタッと張り付いている。その文字盤の5という数字がぼんやり光り始め、淡い紫色が5時を波打つように広がる。これは時間を告げる時計ではない。僕が「欲しい」と強く願ったものの場所を示す、変わった時計だ。
この時計を使い始めたのは、一年前のあの日から。仕事でもプライベートでも、僕はいつも「何か足りない」と感じていた。たまたま駅前に新しく出来た居酒屋で、相席になった元カノが「悠人にはこれが必要だね」と、結婚指輪を隠すように自分の腕から外してこの時計を置いていったのだ。
最初に使ったのは、会社のデスクで失くしたお気に入りのボールペンだった。「あのペン、どこやったんだっけ?」と考えていると、時計の文字盤の光がほんのわずかに揺れ始め、隣の部署の方向を指し示した。イスでくるくる回って遊んでもその方向を指しつづけるので、半信半疑向かうと、そこには同僚が僕のボールペンを手に、口をつぐむようにスケジュール帳とにらめっこしていた。
「ああ、これ、君のだったのか。書き心地がいいからつい……」
それ以来、僕はあらゆるものをこれで探し出した。なくした鍵、競馬場で次に勝つ馬、果ては何でも言うことを聞いてくれる彼女まで。生活は便利になった。何もかもが手に入るようになった。しかし、ある日、僕はふと気づいた。
僕は今、何が欲しいんだろう?
高級なレストランの予約も、次の彼女も、抽選でしか手に入らない最新のゲーム機も、この時計があればいくらでも手に入った。だけど、凄く欲しかったはずなのに、本当に欲しかったはずなのに、その手に持った途端に腕時計の光が急に消えていくようになった。望み通りに欲しかった物が手に入るほど、むしろ、手に入れた瞬間の嬉しさは薄れ、次の「欲しい」を探すだけの、本当に何かをずっと探しているだけの、そんな毎日になっていった。
土曜の午後、僕は街をぶらついていた。時計は何も示さない。何も「欲しい」と感じなくなったからだろう。その時、視界の端に、小さな公園でブランコに乗る女の子の姿が映った。女の子は一人で、ブランコを漕ぎながら、小さな声で歌っている。その歌声は、たどたどしいけれど、どこか懐かしく、温かい響きがあった。
ふと、僕は「あの子には自信を持って歌って欲しい」と思った。
久々に時計が光る、いつもの紫ではなく、キンセンカの花が咲くようなオレンジ色だった。文字盤の中心から脈打つように光の波が立つ。今度は方向など指し示さず、時計の全ての文字盤が徐々に夕日色に染まっていく。
再び公園に目を移すと、少し疲れた様子の女性が、ベンチに座って本を読んでいる。僕はその女性に近づき、声をかけた。
「こんにちは、僕も小さい頃は歌手になってみたくて、あの子は凄く楽しそうですね」
女性は驚いた顔で僕を見た後、少しはにかんだ口元を、手に持っていた本で隠しながら答えた。
「柚花はアイドルが好きで、いつもひとりでアイドルごっこするんです。でも、人前で歌うのは少し苦手みたいで……」
白い蝶々の髪飾りを髪の後ろに付けた少女、柚花ちゃんが、お母さんと僕が話している事に気付くと、恥ずかしそうに寄ってくる。
「柚花ちゃんの歌、凄く優しい声で元気になったよ」
僕がそう伝えると、人見知りでまだ緊張しているのか、柚花ちゃんは小さく頷くだけだったが、お母さん譲りの綺麗な笑顔を隠しているようにも見えた。
別れ際になってから「ありがと」と小さな声で、柚花ちゃんは僕に返事を返してくれた。
翌朝、僕は何故か、その公園の清掃を手伝った。ベンチの下に隠すように捨てられたタバコの吸い殻ガラを集め、落ち葉を掃き、花壇に水をやり、鎖をぐるぐるに巻き付けられたブランコをホウキの底で突いて元に戻す。
そういえばあの時、僕が望んだのは……
帰り道、腕時計を見た。文字盤の色はオレンジのままで、このままもう色が変わらない気がした。僕の心は、いつもよりずっとずっと暖かかった。
欲しいものとかどうでもよくなって、それこそくだらない事で笑ってしまうみたいに。柚花ちゃんの笑顔や、そのお母さんの笑顔、元カノがこの時計を手放したみたいに。
本当に欲しかったのは形のあるものなんかじゃなくって、きっとなんというか、そういう感じの言葉にしようがない、いつもの日常で感じる小さな温もりだった。