日常の風景5:名前で呼ぶことを許可する
「みおりー、城ノ戸さんのご都合聞いといてくれる?」
「そっか。はーい」
ソファーの上でクッションを虐待していたお風呂上がりの美織さん。早速ウキウキで電話する。
「もしもし、城ノ戸さん?」
「あっ、み……み、美織さん!」
電話越しでも分かる慌てっぷりに満足する。
ふふふ、メッセージじゃなくて急に電話すると慌てふためいてくれるから、やっぱり良いわねー。
「少し用件がありまして。あっ、それより今日ね、美味しいご飯食べてきたの。パパの取引先の家族と会食。それでね……」
◇◇
とある高級フレンチのレストラン。
今日は社交的なイベントなのよ。
私とパパ、ママ、妹の美奈の四名で取引先のご家族と会食です。
少し楽しみ。今日のオジサン、話が面白いの。赤ボールペンを両耳に挟んで『今日の肉野菜炒めは肉抜きだー!』って嘆いていた紳士の話、面白かった……って、あれ?
なんか同世代の男性もいるー。逆に緊張するわー。
ビジネスの話とかよく分かんない。マーケットとかマニフェストとか……。美味しいマカロンの話とかなら良いのに……。あっ、そういえば、あの時の『桜色のマカロン』美味しかったなぁー。
うへへーっ。あ、涎出ちゃう。
「美織ちゃん、ここのご飯は美味しいかい? なんか嬉しそうに食べてたから」
ぎゃっ! マカロンの味を思い出してた。
「! は、はい。ここのご飯もとても美味しいです」
妹の美奈が私のことをじっと見て怪しんでいる。
ヤバいヤバい。十歳年下の小五だけど私よりしっかりした妹なのよ。鋭いから後で説教されちゃう。変なこと言わないように集中しなきゃ。
「おほほ、美味しいです。前菜のサラダからどれも美味しいです」
「そうかそうか。それは良かった」
少し酔ったオジサンも嬉しそう。
ふー、セーフ。よしよし。話題はパパの方向いて仕事の話とか世界情勢の話とかになりましたね。
げっ、こっち見んな。こっち向いて趣味の話を始めないで。
あ、いえ、サーフィンとかパラグライダーは分かりません。高いか安いか相場もわからないから自慢はやめてー。
「へー。楽しそうですね(ニコッ)」で全て片付ける。
うーん、なんか……上辺だけな話ばかり
これじゃあ好きな事を早口で語られる方が楽しい
勿論喋り過ぎは面倒い……けど、それに気付いて勝手に自責の念にかられている様を見るのは大変楽しい。
「うぷぷっ……」
やり取りを思い出して思わず吹き出す。
「おや? 美織さんは株や投資に興味がおありですか?」
「えっ?」
「そうだったのか。父さん知らなかったぞ」
「いえっ! 興味無いです、イヤです!」
大きめの声で否定したので場が凍りつく。
妹ちゃんは『無表情』→『ニヤニヤ』→『むくれ顔』→『吹き出す』という表情の遷移の意味を大体理解していたので、両手で顔を覆って溜め息をついてる。
父はオジサンと楽しく会話中。だけど少しだけ不穏な空気を感じて心配そう。
母は我関せずと食事に夢中。
「……あっ、そうなんですね……」意気消沈の男性。
「いえっ……す、すみません」
いやーん、パパから『大事な取引先だから怒らせたりしないように』って言われてたのにー。
ここで沈黙を破るのはママさん。
流れを無視してニコニコでワインを呑みながらご機嫌で心底楽しそう。
「今日は本当に美味しい場所を教えて頂いて嬉しいわ。常連になったら太っちゃいそうよ。うふふふっ」
ほろ酔いでほんのり頬を赤く染めながら、ワインを向かいの空グラスに注いでいく。
「ほら、若い男の子はもっと呑みなさい!」
「あっ、はい……」
「カッコいい男の子と飲むお酒は美味しいわね〜」
「えっ、あ、ありがとうございます……」
少し照れている若い男の子と少しイラッとするパパさん。
「ははは、これは紹介しがいがありましたな!」
オジサンもご機嫌。ほっと一息、流石はママよ!
◇◇
「――って感じだったのよ。車の中で美奈からの説教も無事に終わったから、今はソファーの上で絶賛反省中。あー、私ダメだなぁ。美奈が憧れてくれるようなカッコいいレディーで居たいんだけどね」
「そ、そうなんですね……美織さんは、か……き……カッコいいですよ」
無理だ。可愛いなどと電話で口に出すのは自分で想像してもキモい。脳に多量のブドウ糖を提供しても『可愛い系』や『キュート』といったキモいセリフしか出てこない。ダメだ。やっぱり『カッコいい』を繰り返すのが精一杯だ。
「ふふ、ありがと。でも……親しくない人から名前で呼ばれるのはやっぱり苦手ね。家族は良いわよ。でも、家族といるからって、急に下の名前で呼ぶのは何か違う気がするのよね」
如何にも『家の中の女』に『家の代表たる男達』が呼びかけてるって感じ。
おっと、これは言わないわよ。
ただ困らせるだけだから。
「はぁ……」
ほら、困っちゃうわよね。これはジェンダー的な問題よ!
ソファーに座りクッションを殴りながらプンスカしている。
「あ、気にしないでね。親しくないのに家族以外から名前で呼ばれると違和感があるわよ、って話なだけだから」
これは……何だろう……試されてるのかな? 一応聞いておくか。
「ボクも……名前呼んでますけど良かったですか?」
「…………! あっ、あな、とく、い、って、それじゃあ、こく……! きゃーーー! だだ、そ、ま、だ……」
ぷちっ。
おぉ、呪文と共に電話切れたぞ。
スマホの画面をじっと見つめる。
ところで用件って何だったんだろうな……あっ、掛かってきた。
「ご、ご、ごめんなさいー。あ、あの、あのあの……」
慌てっぷりが凄い。まぁ、この声色なら放置してあげた方が良さそうだな。
「そう言えば何か用があったのでは?」
暫しの沈黙。
「……本題! 忘れるとこだったー。ママが土曜日の都合を聞いてくれって……あ、今お電話よかったですか? って今更ですね……。おほほ……はい……それではよろしくお願いしますぅ……」
ソファーの上で正座してスピーカーモードの電話にペコペコ頭を下げている美織さん。
そーっと人差し指で電話を切る。
「やーらーかーしーたー。もーいやー!」
叫びながら自分の部屋に移動。
部屋に着くや否や独り言を言いながら床を左右に転がり続けている。
ちなみに家族はいつものことなので誰も気にしない。
「あー、さっきのをどう説明しよう……あぁ、いっそ『あなたは特別なのよ』くらい言えば良かった」
すっと正座の姿勢になって、真剣な顔で「あなたは特別なのよ……」と呟いてみる。
顔がだらしなくなり、両手を膝に置いて左右に揺れる。
これはダメね。威力がヤバいわ。もう少し表現を考えないと、死んでしまうわね、私が!
「んー、もっと甘い感じの方が冗談っぽくて良いのかな……でもあんまり甘々もダメよね。あんな言い方した後で『あなたは良いわよ、うふふ』じゃ、如何にも我儘お嬢さんって感じだし……さぁ、もっといい感じのを考えなさい私!」
五分ほど悩んでからえいっ、とメッセージを送信。
数回床を転がると、姿勢を正して正座したまま返事を待つことにした。
一秒一秒が長い長い。
三十秒後にポーンとメッセージを受信。大慌てで表示させると「これだけ……?」と少し不満そう。
ため息を一つ吐いてから、電気を消してもぞもぞベッドに潜り込んだ。
――でも、安心したのかすぐに眠りに落ちる美織さん、ほんのり笑顔が浮かんでいます
◇◇
「土曜日か……」
結局どこに行きたいか教えてくれなかったな、ガソリン先に入れとこうかな、と取り止めもなく考えていたら、メッセージが一つだけ入ってきた。
どれどれ? おぉ、明確な回答だ。
どんな気持ちでこのメッセージを送ってくれたか美織さんの気持ちになって考えてみる。
ははは、想像するだけで愉快になる。
色々考え過ぎた結果なんだろうな。どうせ今頃は自責の念に駆られて床を転がっているんだろう。
さて、こちらはゆっくり寝れそうだ。
『名前で呼ぶことを許可する』
たった十二文字の契約書。
――ボクは、そこに『よろしく』とだけ返してあげたよ
End
・口に出たセリフ
「あっ、あな、とく、い、って、それじゃあ、こ……! きゃーーー! だだ、そ、ま、だ……」
・頭の中のセリフ
「あっ、『あなたは』、『特別に』、『良いのよ』、って、それじゃあ『告白じゃない』! きゃーーー!『ダメ』、『ダメよ』、『それは』『まだ』『ダメー!』」