遭遇
「エーヴァ、お前が咄嗟に王子を庇うその感じだと、やっぱりお前は帝国を裏切ったみてえだな。何があったかはこれっぽっちも知らねえが」
「……」
「説明も言い訳も無しか?まあいいや。今俺がスッキリ理解したのは、エーヴァ、お前が処分の対象に決まりって事だ。その後ろの王子と一緒に仲良くコロッといかせてやるよ」
エーヴァとエルベルトを眺め、目の下にクマのある蝙蝠の男、フレダマスは舌なめずりしたようだった。
だが、フレダマスのそれを聞き終える前に、エーヴァは動いていた。
背中に隠したものの自分よりも身長の高くてはみ出してしまっているエルベルトの片手を引っ掴み、全速力で駆け出す。
……逃げなければ。
何としてでも、逃げ切らなければ。
ここで逃げ切れなければ、勝ち目はない。
奴らに一度遭遇してしまえば、逃げ切るのは至難の業だ。
しかも、並の人間よりちょっとマシ程度の運動しかできないエルベルトを庇いながら暗殺者から逃げるのはほぼ不可能に近い。
だけど、エーヴァは間髪入れずに逃走を選択した。
理由は簡単だ。
ここで立ち向かうことを選べば、あっけなく壊滅させられて逃走失敗することが確定するからだ。
エーヴァは全速力で、建物の影を縫って走りながら考えた。
予想よりも追手が早いのは罠が上手く機能しなかったのか、それとも彼らの足が速すぎたのか。
もしくはそのどちらもか。
渾身の配合で作り上げた毒はどうやら奴らには無効化されたようだし、次に打てる手はあるか。
逃げ込める場所はあるか。
他に足の速い馬を手配できそうな場所は。
追手の目をくらます方法は。
なにか、良い手を考えろ。
フレダマスは、逃げるエーヴァたちの背中に向けて無情にアハハと声を上げて笑った。
「そんなしょぼい人間のスピードで、俺から逃げられる訳ないだろ。せめて身の程を弁えてから裏切れよ、エーヴァ」
フレダマスはボロボロの緞帳を上げるようにマントを翻し、バサバサと音を立てて千々に別れた。
そして何十もの蝙蝠にも、宙を舞う灰のようにも見えるものが沸き上がるように形を変えた。
そしてそれらは、障害物など関係なく一直線にエーヴァ達を追いかけてくる。
「え、エーヴァ!彼は?」
エーヴァの後ろで、引っ張られながらも懸命に走ってついてくるエルベルトが声を上げた。
背後をものすごいスピードで追ってくる黒い蝙蝠の大軍と、一瞬で姿を消してしまったフレダマスが肩越しに見える。
「あいつは蝙蝠の血を引いてる、厄介なやつです」
「帝国の、暗殺者の一人なんだな?」
「はい、そうです」
「俺は、獣の血を引く方々の能力というものを普通の人間よりも知っていると思っていたが、あんなことまで出来るのか……」
「帝国軍にはあれくらい血が濃い者がごろごろいますよ。あいつの場合、逃げ切れなければ血を抜かれて乾物にされてしまいます。貴方も嫌でしょう、するめになるのは」
「そうだな……」
全速力で走りながらのエルベルトは、息継ぎの合間に小さく頷いた。
エーヴァとエルベルトは走る。
建物と建物の隙間にある黒い影を目指して滑り込み、バサバサと背後に迫る不吉な音を避けるようにして路地の角を曲がる。
そしてまた次の細道を全力疾走し、物陰の間を縫って動き続ける。
そして夜の人ごみを疾風の如く走り抜け、驚いて危うくこけそうになった人を心配するエルベルトを引っ張って走り、動く馬車の前に飛び出して道を横切って、エルベルトをヒヤヒヤさせてもひたすら走る。
エルベルトが、こけそうになった人や急ブレーキをかけた馬車を心配するので、進路を変えたエーヴァは迷路のような裏路地を走って、壊れた壁の間を走り抜ける。
脇目もふらずに、疾走する。
逃げられるか。
いいや、逃げ切らなくては。
更に加速したその時一瞬、何も物音がしなくなった。
背後に迫る気配もない。
もしかしたら、フレダマスを撒けたかもしれない。
……ならばこのまま姿を隠して、逃げ切れるかもしれない。
エーヴァは一瞬の希望を見た気がした。
しかし、それは間違いだった。
一度撒けたと思っても、また必ずバサバサという音が追手の接近を知らせてくる。
どれだけ走っても、どれだけ複雑な道を選ぼうとも、どれだけ巧妙に姿を隠そうとも、フレダマスがエーヴァ達を追跡する音は背後に付いてくる。
どれだけ逃げても、どれだけ見にくいところに隠れても、必ず見つかってしまう。
蝙蝠男は目で探すだけではないので、探し物が大得意という訳だった。
エーヴァはぎりっと唇を噛んだ。
これでは、エーヴァ達が捕まるのは時間の問題だ。
「なあエーヴァ」
後ろのエルベルトから声を掛けられたので、エーヴァは振り向いた。
エルベルトもエーヴァと同じく危機を察知したのか、真剣な顔をしていた。
「……彼は君のこともやっぱり罰すると言っていた」
「分かっていたことです」
「だが俺を差し出せば、君だけは今からでも助かるのではないか?」
「無理ですよ」
エーヴァは短くため息をついて、ハッキリ言い放った。
「私は一度裏切ったのですから、貴方の命だけでなく私の命も差し出さないとあいつらは決して許してはくれません」
「では君は、俺に脅されていたと言ってくれ。君に裏切るつもりはなかったのだということにすればあるいは」
「それも却下です。それこそ、貴方のようなへなちょこ王子に脅されて屈するような暗殺者など、帝国にはいらないと切り捨てられます」
「だが」
エルベルトの走るスピードが一瞬落ちたので、エーヴァはエルベルトをキッと睨みつけた。
しかし、エルベルトも負けじと見つめ返してくる。
「では、俺が囮になっている隙に君だけは逃げろ。君だけなら何とか逃げ切れるかもしれない」
「それも無理です」
エルベルトは今にも囮になって暗殺者に立ち向かっていきそうな真剣な目をしていたが、エーヴァは振りほどかれないようにエルベルトの手を強く握りなおして、スピードをさらに上げた。
「囮になるなら私の方です。いいですか、私は貴方を助ける為に帝国を裏切ったのです。ですから貴方には何としてでも生きてもらわないと困ります。そこのところ、きちんと理解していますか?」
「だからと言って君を犠牲にするのは間違っている」
「いいえ、間違っていません」
「いいや、間違っている。エーヴァ、君は自分の命をもっと大切にしてくれ」
「それ、エルベルト様にだけは言われたくないですね」
その台詞そっくりそのまま返してやると言わんばかりに半目になったエーヴァだが、お人好しで時々天然気味なエルベルトは真面目腐った顔で、エーヴァの手をぎゅっと握り返してきた。
「ではエーヴァ、これだけは約束してくれ」
「なんですか」
「絶対に死んだりしないでくれ」
ぎゅっと握られた手が思いのほか熱かったことに驚いて、エーヴァは咄嗟にそっぽを向いた。
「……うるさいですね。もう口は閉じて、走るのに専念してください」
まったく。
予想は十二分にしていたとはいえ、こんなお人よしは助けるのにも骨が折れる。
エーヴァは内心溜息をついていた。
思えば、エーヴァがエルベルトに出会ったのも、元を辿れば彼のお人よし加減が原因だった。
あの時も、彼はこんな感じで人を助けていたのだ。
エルベルトは小さい時から、自分が辛くてもどんなに理不尽でも、息をするようにさも当たり前のように人に優しかった。
たまたま偶然出会っただけの、得体の知れない幼いエーヴァにも優しかった。
エルベルトはどうせ覚えていないだろうが、エーヴァはずっと覚えている。
忘れられない。
エーヴァにとってそれは、衝撃的だった。
そしてその時から今まで、エルベルトはずっと変わっていない。
こんなに面倒くさいお人よしなんて変わってしまえばいいのに。いやでも、それだけは絶対に変わって欲しくないような気もする。
あの時、一番最初にエルベルトに出会った時の……。
……いや、いいや。
これ以上考えるのはよそう。
蘇ってきた記憶は走馬灯のようで縁起が悪いと無理やり押し込めて、エーヴァは再び前を向いた。
と。
……しまった。
そう思った瞬間、サッと血の気が引いた。
袋小路。
エーヴァがエルベルトの手を引いて走り込んだのは、先のない道だった。
エーヴァは、周りをサッと見回す。
目の前には高い建物。
特に目立った突起物のないツルツルとした壁で、エルベルトはおろかエーヴァでも登るのは手間がかかりそうだった。
追手が迫る中悠長に登っていても、いい的になるだけだ。
そうなると逃げ道がない。
ならば素早く引き返すしかない。
エーヴァは引き返そうと踵を返したが、遅かった。
元来た道からはフレダマスが追ってくる気配がする。
いや、気配を感じたその瞬間、彼はもう既にエーヴァ達の目の前で人の形に戻っていた。
「あーあ。追いかけっこはもう終わりか。つまんねえな」
心底詰まらなさそうな青白い顔をして、無数の蝙蝠ではなく人の姿に戻ったフレダマスはフンと鼻を鳴らした。
これで、引き返す道も閉ざされた。
……終わりか。
フレダマスの言うように、終わりなのか。
ジリジリと後ずさるエーヴァ達に、フレダマスが一歩ずつ近付いてくる。
「なあ、死ぬ前にチョロっと一つ教えとけよ。なんでお前は帝国裏切ったんだ?帝国が獣の国で皇帝が絶対の君主制なのが嫌だったのか?やっぱり人間は帝国で生まれ育ってもそういうのが我慢できねえとか?」
「……」
「それともあれか?王子も人間だし同じ種族は殺せねえってバチッと目覚めたのか?」
「……」
「サクッと何とか言えよ」
エーヴァが何も言わないので、フレダマスは少し苛々したようだった。
先を促してもエーヴァが何も言わないので、フレダマスはすっと目を細めた。
温度のなくなった冷たい目だ。
そしてそのまま言い放つ。
「じゃあもういいわ」
帝国人は獣の血が混じっているからなのか、それが文化だからなのか、短絡的な者が多い。
喜怒哀楽も激しくて、人間と違って感情を隠すことをしない。
人間と比べれば後先を考えることも少ないし、本能のままに振舞う者も多い。
人間と話が通じる者もいるが、全く通じない者もいる。
フレダマスは、人間のエーヴァから見てどちらかといえば後者だった。
まあ、エーヴァが裏切った理由など元々誰にも言うつもりはないが。
「サクッと終わらせてやるよ」
唇の端から覗いた鋭い犬歯で長い爪を研ぐように舐めた後、フレダマスは一直線にエーヴァ達に向かって来た。
獲物を仕留める目だ。
先ほどと同様にエルベルトを庇うように身構えたが、状況は絶望的だ。
しかしそんな状況でもスカートの下から暗器を抜き取り、エーヴァは覚悟を決めた。
勝算はないが歯向かってみるしかない。
何とか隙を見つけて逃げ出せる、僅かな可能性にかけてみるしかない。
まあ、こんな逃げ道がない状況でそんな僅かな可能性を拾えるなんて、千里先から蟻の目を射抜くような難しさだろうけど……。
そこまで考えて、エーヴァはある一点でハッと視線を止めた。
……いや、もう一つ可能性はあるか。
2人は無理でも、隙を作ればエルベルトが逃げられる可能性が。




