夜の裏2
第二王子の部屋の前に到着した。
中から物音は聞こえない。
生き物の気配もない。
「……エーヴァ?」
ヒューゴは誰にも届かない声で、ぽつりと呟く。
もちろん、誰も返事はしてくれない。
部屋の扉は空けなくとも分かる。
ヒューゴが今まで培ってきた勘というものが、この状況はどこか異常だと警報を鳴らしている。
それを感じたのはエメレッタもだったようで、彼女もヒューゴの隣で目を細めた。
「何かあったのかしら」
ヒューゴは返事の代わりに静かに扉を開け、するりと中に入り込んだ。
暗闇に慣れたヒューゴの目に初めに飛び込んできたのは、真っ赤な血だ。
ベットにべったりと付いていて、絨毯にも飛び散っている。
そして、エーヴァの姿も、第二王子の姿もない。
浴室の方まで点々と続く血痕を見て、ヒューゴはある可能性に思い至った。
エーヴァの実力を信じているヒューゴからしてみれば、有り得ない可能性だ。
だが、ここにエーヴァも第二王子もいなくて、血痕だけが残されているのなら、もしかして。
もしかしてエーヴァが王子の抵抗に合い怪我をして、そして王子に逃げられた、とか。
そんな可能性が頭をよぎった。
これまで責務を果たしてきた優秀なエーヴァの事だから、ちょっとやそっとの怪我で王子を逃がすようなことはしないだろう。
となれば、王子を逃してしまうほどの瀕死の重傷を与えられた可能性だって考えられる。
いやそれとも、何らかの要因が重なって王子が逃げてしまい、その任務失敗の責任を負うためにエーヴァが自害を選んでいる可能性も……。
「エーヴァ!」
思わず叫んでいた。
ヒューゴが声を出すと、後ろにいたエメレッタは少し驚いたようだった。
それもそうだ。
暗殺者は忍ぶのが仕事なのだから、大きな声を出すことなど一生に1,2回あるかないかだ。
ヒューゴが、血痕の続く先にある浴室に向かうため大きく足を踏み出した時、エメレッタが制止した。
「待って」
「なに」
「気づいていないの?」
「なにを」
「ドアノブに毒針よ」
エメレッタがドアノブを指差す。
ヒューゴはその指先と自分の手のひらを交互に眺めた。
「……もう刺さってた」
エーヴァの事でいっぱいいっぱいだったから、手のひらがチクリとしていたことに今更気付いた。
暗殺者にあるまじき失態だが、ヒューゴは隠さず正直に申告した。
ヒューゴは成績優秀で同期の中では群を抜いて期待をされていたけれど、どうも冷徹になり切れていないところがある。
特にエーヴァとヒューゴの二人をよく知る先輩にあたるエメレッタは、エーヴァが絡むとヒューゴの注意力が散漫になる事に気づいていた。
だが今はそれを口うるさく注意する時じゃない。
「こんなところに毒針なんて、もしかして第二王子は手練れの暗殺者を雇って護衛に付けていたのかしら?じゃあエーヴァはそいつにやられちゃったの?」
エメレッタはシンと静まり返った第二王子の部屋を見回した。
その横で、無言のヒューゴは毒針の刺さったところをじっと見つめている。
反応がない事を気にも留めず、エメレッタは首を傾げた。
「でもそんな気配は全く感じられなかったわよね。じゃあこれをやったのは第二王子?彼がエーヴァに対抗出来るような力を隠し持ってたって事なの……? いいえ、それも違うわね。第二王子からも手練れの気配は感じなかったわ。彼はただの人間だった」
「……」
エメレッタは一人ブツブツと分析を続けていたが、ヒューゴは相変わらず黙っていた。
ぎゅっと自らの手を握りこむ。
毒針が刺さった方の手だ。
手に刺さった毒針に付いていた毒が体に回るのを感じる。
懐かしい、痺れる感覚がある。
この毒針はよく知っている。
この毒も、良く知っている。
「そういえばヒューゴ、針が刺さったのよね。それは大丈夫なの?」
「大丈夫」
エメレッタが後ろからヒューゴの手のひらを覗き込んだ。
針が刺さったのは、親指の付け根当たりだ。
「……青く変色してきてるわよ」
「大丈夫。この毒には耐性がある」
「そう?流石蛇の血筋と言ったところかしら?」
「それは違う。これはエーヴァが作った複雑な毒で……でも俺が大丈夫なのは、エーヴァの毒にも耐性つけとこうと思って前に訓練したからだ」
「エーヴァの毒?! ……というかあんた、そもそも何でエーヴァの毒に耐性つけようとしたのよ?」
「毒でもエーヴァが作ったものに拒否反応が出るの嫌だったから」
「え?どういう理屈なの、それ」
「別に、それは理屈じゃない。 それにエーヴァが頑張って作ったものなんだから、俺の体に取り込んでおこうと思った」
「は?」
「まあ、エーヴァが今まで作ってきた毒も薬も料理も、俺は全部自分の体に入れてきたんだけど。俺の体は多分、三分の一くらいエーヴァの作ったもので出来てる。 ……本当は全部エーヴァの作ったものだったらよかったんだけど」
普段と変わらない表情で正直に述べるヒューゴを見て、エメレッタは何とも言えない顔になった。
「あんた……薄々思ってたけど、やっぱり変態というか病気というか粘着質なのよね」
「変態?なにそれ」
「自覚ないのね……。まあ私たちの性質は血統に左右されるから、それも仕方ないことなのかしら。それこそ、さすが蛇の血筋と言ったところね」
そうこう話しているうちに、青くなっていたヒューゴの手のひらは元通りの色に戻ってきた。
蛇の血筋は元々毒に強いが、以前訓練していたおかげで、早速解毒が進んでいるらしい。
「あんたの変態加減に驚いて話が逸れちゃったけど。大事なのはこっちの話よね。 あんたさっき、それはエーヴァの毒だって言ったわね。本当にエーヴァの作った毒なの?」
「俺がエーヴァの作ったものを間違えるわけない」
「本当なのね?」
「ああ」
「そう。 この毒が本当にエーヴァが作ったものだって言うのなら、この罠を作ったのも……」
エメレッタは一瞬顔を曇らせた。
どうやら彼女は答えに行きついたらしい。
しかしまだはっきりと決断するには早いと思ったのか、絨毯から飛び出た毒針を底の厚いブーツでへし折りながら部屋の中に入ってきた。
「……結論より先に、一応浴室を見て来るわ」
エメレッタは一応浴室を確認したが、そこにはエーヴァの毒がこれでもかと塗られた、全力の罠があっただけだった。
こちらにダメージを与える事を厭わない全力の罠。
そして部屋はもぬけの殻で。
更に血糊で偽装がされていて。
明らかな意思を持った綿密な逃亡と、あからさまな時間稼ぎ。
結論は、嫌と言っても出てしまった。
全く予期していなかった結論だけれど。
というか、その結論しかないと思い至った今でも、本当に混乱しているくらいだけれど。
エーヴァが逃げたなんて。
しかもどうやら、王子を連れて逃げている。
何故?
動機は?
一体何のために?
帝国を裏切ることを決断させるほどのものが?
そんなもの、この世にあるのか?
帝国は巨大な国だ。
容赦のない強い国だ。
と同時に、買われてきたとはいえエーヴァの故郷にあたる国だ。
今まで祖国への忠誠心になんら問題のなかったエーヴァが、帝国を裏切ることなんてあるだろうか。
本当にあるだろうか。
エメレッタは眉間に皺を寄せた。
人間は獣人が屈強な体を持っていることや魔族が魔術を操れるように、思慮謀略で敵を欺く狡猾な種族だ。
もしかしたら、エーヴァは王子に唆されてその逃亡を手助けしてしまったのかもしれない。
「ねえヒューゴ。エーヴァは逃げたのよね?」
「……連れ戻す」
エメレッタはヒューゴに問いかけたが、返ってきたのは返事とも独り言とも取れるような呟きだった。
しかしエメレッタは続ける。
「エーヴァは何で逃げたのかしら」
「……多分きっと、いや絶対、あの第二王子がエーヴァを謀ったからだ」
ヒューゴはベッドの柱や窓枠を観察していた。
そしてエメレッタは腕を組んだまま、そんなヒューゴを観察する。
ヒューゴもどうやら、エメレッタと同じ思考をしていたようだ。
エーヴァは忠実で優秀な帝国の暗殺者。
そんな彼女がこんなトチ狂った行動に出たのは、きっと狡猾な第二王子の差金だ、と。
「全部あの第二王子の所為だ。エーヴァは帝国から逃げたいなんて言わない。エーヴァは俺を置いてどこかへ行ったりしない」
ヒューゴは確認するように小さくつぶやいた。
聞かなかったふりをしてもよかったが、エメレッタはやはり口を開いた。
「ねえヒューゴ。エーヴァはここにはいない。それに第二王子の死体もない。理由はどうあれ、それがどう言う意味か、分かるかしら?」
「……だから、エーヴァはあの王子に何かされたんだ。助けないと」
「ええ。それはその線が濃厚よね。非力な人間がこの大陸で生き残っているのは、賢くて策を練るのが上手いからに他ならないんだもの。エーヴァは種族こそ人間だけど、生粋の帝国軍人よ。だから人間に上手いこと言いくるめられて、従わざるを得ない状況に追い込まれているのかもしれないわ」
エメレッタは親身に同意したような、納得した表情を見せた。
しかし仲間へ向けていたその優しい表情も、次の瞬間には敵へ見せる冷酷なものに変化する。
「でもね、エーヴァがした事は理由がどうあれ帝国への裏切りよ。どうな理由があったとしても、ターゲットを殺さず逃亡した暗殺者の行動は許されるものじゃないわ」
「……エメレッタ」
「言い訳は出来ないの。いい?エーヴァも含めたあたしたちは、皇帝に忠誠を誓ったのよ」
「……」
「でも今回、エーヴァは誓いを破った。もう一度言うわ。あの子はターゲットを殺さなかったばかりか、逃がしたの。極刑に値する大罪よ。王族が帝国の管理下ではないところで野放しになるなんて、エーヴァは皇帝閣下の覇道の邪魔をしたのと同じだわ」
エメレッタは低い声で唸った。
そしてエメレッタの背後に現れた巨大な蛸足は、ブンと大きく振りかぶると暴れ牛のようにのたうち回り、大きな音を立てて扉と壁の一部を破壊した。
落雷のような音がしたから、下の階にいるハーデンとフレダマスは異音に気づいてすぐに駆け付けるだろう。
「エーヴァは殺さなきゃいけないわ。勿論第二王子も。明日皇帝が王都に攻め入る前に、出来るだけ迅速に。私たちが責任取って殺してあげるのが、エーヴァにとって一番よ」
エーヴァを殺す。
そう言った瞬間、エメレッタの肌を刺すような殺気が感じられた。
窓枠に付けられた毒針を引き抜いて懐に入れていたヒューゴから放たれたものだった。
「……エメレッタ、だめだ。エーヴァは殺さない。悪いのは全部エーヴァを謀った第二王子だ。奴は俺が八つ裂きにする。それでエーヴァを取り返す」
くるりとエメレッタの方に向き直ったヒューゴは、エメレッタの瞳を見据えていた。
まるで丸呑みにしかねないような圧力だ。
しかしそれと相対するエメレッタも、海の底のような重圧で睨み返し、一歩も引かない。
「でもエーヴァはもう、帝国はおろかどこの国でもどんな場所でも生きていくことは出来ないわ。あの子は帝国の裏切り者だから」
「裏切り者じゃない。エーヴァは騙されてるだけだ」
「犯したら取り返せない間違いもあるの。皇帝と軍はエーヴァを許さないわよ」
「それでも許してもらう」
「無理よ」
「無理じゃない。俺も一緒に謝る」
「いいえ。無理なものは無理よ。皇帝閣下は裏切り者を許さないわ」
エメレッタがそう言い切った時、主のいない第二王子の部屋に、ハーデンとフレダマス、そしてボロ雑巾のように掴まれて気を失った王女が到着した。
そして彼らも、エーヴァが暗殺に失敗したばかりかターゲットの逃亡を手助けしていると言う事実をエメレッタに聞かされた。
彼らの顔はエーヴァという仲間を心配していた表情から、エーヴァという裏切り者を狩るための冷酷な暗殺者の表情に一気に変化した。
のんびり笑っていたハーデンは血を吸った刃物のように目を鈍く光らせ、ニタニタと笑っていたフレダマスはばさりと黒いマントを翻し、エメレッタは冷酷な捕食者の顔で自らの8本足を広げる。
唯一ヒューゴだけは普段通り無表情だったが、長いまつ毛の奥にある瞳はじっと夜の闇を睨んでいた。
そして、4人は無言で窓から外へと飛び出した。
裏切り者のエーヴァと、まだ生きている第二王子を見つけ出す為に。