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はじまり



緑豊かな土地を広く持つ西の観光大国、アイゼルバルト王国。


隣接する巨大な貿易大国であるバレンチノスタ諸侯や、圧倒的な軍事力を誇る獣人の国であるオグダルク帝国、知識と文化の歴史あるエルフのローゼデリア国など並んで大陸の4大国の一角を担っている。


観光地として名高いエメラルダリア渓谷やミレー湖などには一年を通して大陸中の観光客が訪れ、アイゼルバルト王国の人々はその恩恵を受けて生活をしていた。

アイゼルバルト王国の王都にある白亜の王城内で暮らす王族も、その観光名所と民を守りながら日々を過ごしていた。


アイゼルバルト王国は、穏やかで良い国だった。




……この日の夜までは。


この日の夜も、本当は何の変哲もない静かな夜のはずだった。

何事も無ければ夜はゆっくりと過ぎて、皆眩しい朝日を迎える筈だった。





欠けた月が夜空に上り切った頃。

王城の渡り廊下を音もなく移動する一つの細い影があった。


それは薄暗い闇に紛れて第二王子エルベルトの寝室の扉をきいと開け、その部屋の中に滑り込んだ。


まだ眠らずに窓辺の肘掛椅子でつきを見上げていたエルベルトは、扉の開かれた微かな音のした方に顔を向ける。



「……ハンナ?」


長めの藍色の髪を緩く三つ編みに結った王子の、彫刻のように綺麗な顔が不思議そうに傾けられる。


振り向いた先にいたのは、エルベルト付きの侍女、ハンナ。


ハンナは顎の高さで切りそろえた紅色の髪の女性で、美人だけど無表情で無口。

でも働き者で礼儀正しく、運動神経もよい優秀な侍女だ。



しかし今のハンナは、こんな夜遅くにノックもせずに主の部屋に無断で立ち入っている。

無礼極まりない行為だ。

王族にこんな無礼を働けば、国によっては一瞬で首が飛ぶ。


だが、この第二王子エルベルトは全く怒った風ではなかった。

それどころか何かあったに違いないとばかりに心配そうな顔をして、侍女の名前を呼んだ。



「何かあったのか?ハンナ」


「……」


ハンナは返事をせず、ゆらりとエルベルトとの距離を詰めた。


エルベルトは異様にも見える様子のハンナから距離を取るでもなく、純粋に心配だけをしてくれているようで、椅子から立ち上がって一歩近づいて来た。


「ハンナ……?」


エルベルトは心配して、今にも額に手を当てて熱でも測ってきそうな表情だった。

いや、実際にそのつもりだったようで手を伸ばしてきたので、ハンナはぐいっと顔を逸らした。


そんなお人よし過ぎる王子を近くで見たハンナの目は暗い夜なのに爛々と光り、その表情はどこか仮面が剥がれ落ちたような生々しさがある。


「エルベルト様」


ハンナは切れ長の目をすっと細めた。


「貴方は、こんな夜中に勝手に部屋に入ってくる侍女の行動を不審とは思わないのですか」


「いや。ハンナの事だから何か訳があるんだろう?聞かせてくれ」


エルベルトの顔は至って真剣だ。

不審とか不敬とか、エルベルトは微塵も感じていないようだった。

いやむしろ、相談があるなら力になってやるから話してみろと言わんばかりだ。



「貴方は平和ボケのしすぎではないですか」


「? ……そんなことはないと思うが」


エルベルトのきょとんとした顔を見て、ハンナはハアと溜息をつく。


なら、どれほど平和ボケしているのか見せてやろうか。

ハンナはどうも警戒心の薄い主の目の前で、いきなり長いメイド服の黒いスカートをたくし上げた。


そして目にもとまらぬ速さでスカートの下に仕込んでおいたものを抜き出す。

空気を切り裂くヒュンという音がして、鈍く光る銀の切っ先がハンナの手の中に納まった。


エルベルトの目が少しだけ丸くなる。

それを見たハンナは畳みかけるように言葉を続けた。


「ずっとお伝えしていませんでしたが、私の名前はハンナではありません」


「ハンナではない?」


普通であれば身分を偽って仕え、寝室に刃物を持ち込んだ侍女などあっという間に叩き出されて処刑でもされるところだろうが、エルベルトはそんなことは微塵もするつもりはないようだった。


一瞬驚いたものの、もう取り乱したりすることもなく、エルベルトはただ静かにハンナの次の言葉を待っている。

ハンナがどうしてこのような行動に出ているのか何か理由があるはずなのだと疑わず、その裏にあるものをすべて理解してから正しい判断をするつもりのようだ。

まあ要するに、こんな異常な状況下でもいつもと変わらず全力でお人好しであろうとするのが、この王子エルベルトだ。



「私が、物心ついた頃に与えられた名前はエーヴァ」


「エーヴァ……」


いい名前だとでも思ったのか、エルベルトは控えめに笑った。

そしてそれとは対照的に、ハンナ改めエーヴァは、か弱い雀を狩る鷹のような鋭い目でエルベルトを見つめる。


「私はこの名前が嫌いです。私の名付け親はオズワルド帝国軍の諜報部でした」


「諜報部……」


「はい。いわゆる暗殺部隊です。 流石に信じられないと言うような顔をしていますね?いい気味です。ならば事細かに教えてあげますよ。私は物心ついた時にはもうこの帝国軍のタトゥーを入れられていた、生粋の帝国の犬ですから」


ようやくお人よしの顔から驚いた顔になったエルベルトに満足して、ハンナは再び黒いスカートをたくし上げ、太ももの内側をさらけ出した。

そこにあるのは、禍々しいタトゥー。

帝国軍に入れば、所属部隊と階級によって形や大きさは違えど一人として例外なく体に彫られるものだ。

決して消えない帝国軍の呪いのような所有印だ。



「私が軍に入って最初に教え込まれたのは、暗器の使い方です。実は私、ナイフフォークよりも暗器で食べる方が慣れているのです」


「……」


「私が帝国軍諜報部で叩き込まれたのは勿論人の世話の仕方などではなく、人の息の根の止め方ばかり」


「……」


「私は特に、毒殺学でとっても優秀な生徒だったんですよ。壊毒から媚薬までなんでも作れます。貴方は刺殺しろとの命令なので、今回は私特製の毒で殺してあげられなくて残念ですけれど」


「ハンナ……」


エルベルトは苦しそうに眉根にしわを寄せた。

と言っても、これが彼の怖れや嫌悪からくるものではなかった。

エーヴァは数年もの間彼の傍で侍女に擬態をしてきたからそれくらい嫌でも分かってしまう。

エルベルトのその苦しそうな顔は、「そんな経験をしてきたのか、辛いこともたくさんあっただろうに」と労うような表情だった。


エーヴァはそんなエルベルトの心配そうな顔ををピシャリと跳ね除けて、言葉を続ける。


「ですから、私はハンナではありません。ここまで言えば、嫌というほど察しは付きますよね?帝国の犬である私が身分を隠して貴方に仕えていた理由。 ええ勿論、時が来たときに貴方を滞りなく殺害する為」


「……それでは、君は」


そこまで詳細に話してから鋭い銀の暗器をギラリと見せつけたところで、エルベルトはようやくゆっくりと呟いた。


エルベルトは馬鹿ではない。

いや、途轍もなくお人好しの馬鹿だけど、頭の中がお花畑だという訳ではない。

他人に実現不可能な理想ばかりを押し付ける理想論者でもないし、現実が見えていない夢想家という訳でもない。


きっと今、彼の脳内ではこの大陸の勢力図と、強欲なオグダルク帝国の獅子獣人である皇帝エンドラドの顔が浮かんでいる事だろう。

帝国と同盟を結ぶ準備をしていた王国だが、実は皇帝はハナから王国を裏切るつもりだったのだ。

何年もの時間をかけて裏切りの準備をし、時が来れば王族を殺し、王国の土地を帝国に取り込む。



「今宵、私たちは暗殺実行の命を受けました。でも大丈夫。せめて痛みなど感じる間もなく殺してあげます」



エルベルトは視線だけで部屋を見回したが、やがて観念したような顔をした。

部屋の扉はエーヴァの後ろにあり、どうやっても到達できそうにない。

そして窓はエルベルトから近いものの、城の最上階にある部屋から外に飛び降りてもきっと無事に逃げおおせることは出来ない。

夜中に王子の部屋に勝手に侵入してきた侍女に一言物申す護衛もいないということは、きっと叫んでも誰も助けに来ない。

城はきっと、既に制圧されている。



薄暗い部屋に暗殺者と二人。

生殺与奪の権を相手に握られた状態でも、エルベルトは泣くことも震えることも怒ることも、まして命乞いをすることもなかった。


王族として生まれ、もしかしたらこんな風に無念に散ることもあるだろうと腹を括ったように凛としていた。

そして静かで、穏やかだった。


「そうか。まだやりたいことは残っているが、何年も時間をかけて周到に準備をしてきたこの暗殺にはどうも穴はないらしい。俺はここまでのようだな」


「最期の最期に、他に何か言うことは?」


「じゃあハンナ……じゃなくてエーヴァ。今までありがとう。いつも仏頂面だったが、君と話すのは楽しかった。体にはどうか気をつけるように」


暗器を構えた姿勢のエーヴァの前に立つエルベルトは、ゆっくりと微笑んだ。

そして、全てを受け入れるように目を閉じようとする。


エルベルトはこの期に及んでもエーヴァの体調の心配なんてする、とんでもないお人よしだ。



「……」


エーヴァは無言で暗器を持った方の腕を振り上げて、ブンッと振り下ろした。












「……って、やっぱり無理!!!!私に貴方は殺せません!逃げますよ、エルベルト様!!」


床に敷き詰められた絨毯の上に、エーヴァが振り上げていた暗器がバシーンと投げ捨てられる。


「ほら、早く!貴方を殺せなかった責任は私がちゃんと果たします。たとえ獰猛で残忍な帝国が地の果てまで追ってこようとも、大陸全土が敵に回っても、貴方ことだけは私が絶対に生かしてみせます」


「……はっ?!」


エーヴァがグイッと手を引くと、目を開けたエルベルトは驚いて素っ頓狂な声を上げていた。





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