【Ⅷ】#8 EmptY=EntropY
虚華──罪を具現化した物を纏った「虚妄」のヴァールは、パンドラの黒い鍵が「エラー」の身体に差し込まれる前にゴム弾で「エラー」の身体を弾き飛ばした。
勿論、ただのゴム弾ではない。それなりに威力を底上げしている牽制用の物だ。撃たれたら想像を絶する痛みを感じるし、撃たれた痕も暫くは残るだろう。
(それでも死にはしない。死んで欲しくない相手を狙撃する私は……)
物凄い勢いで吹き飛んだ「エラー」の元へとしのや楓達は駆け寄る。雪奈もあんなに表情豊かに「エラー」の元へと走り、彼女の無事が確認出来ると、こちらへと濃厚な殺意を向ける。
臨は雪奈とは対象に、「エラー」の事など気にもせずにこちら側の事を冷静に観察しているようだった。
対する虚華は、こちらに対して歪な笑顔を見せるパンドラに曖昧な笑顔を返し、彼らの方へと向き直す。
油断している余裕など無い。「エラー」を死なせはしなかったものの、この状況下で誰一人死なせること無く自身の目的を達成するには相当の難易度だ。
(こちら側には二人の死体がある。二人を手放せば、脱出は容易。けれど……)
それを許してくれるような主ではないだろう。
先程の狙撃も、自分で「エラー」に止めを刺そうとしたとした結果、失敗したのだと思っている可能性が高い。
虚華とて、これ以上仲間には死んで欲しくないのだ。だからこそ、雪奈の決断に怒りを覚え、今こうして怒りを顕にしている“雪奈”の前に対峙している。
正体を隠し、姿を偽り、人として大切な何かを失いながらも。死んでしまった、死を選んだ雪奈を再び取り戻す為に。ひいては死んでしまった仲間を取り戻す為に。
(その為だったら、手段なんて選んでられない)
「良くも撃ってくれたな、あたしの仲間を。てめぇらが誰だか知らねぇが、覚悟は出来てんだろうな?」
聞き覚えのある優しく綺麗な透き通った声など、何処か遠くに行ってしまった。
虚華──ヴァールが“雪奈”のどすの利いた声を聞いた時の感想はその一言だった。
青筋を浮かべ、魔術に秀でていた者とはとても思えない構えをしている“雪奈”を見たヴァールは心の中で筆舌に尽くし難い感情に襲われていた。
今の彼女は一切鍛えていない肉体で、達人の身のこなしを再現しようとしている痴者だ。
出来る訳がないのだ。いくら技を盗んだとて、経験や染み込んだ筈の体の動きまでは再現出来ない。
目で見て盗むのとは訳が違う。あれは自身の肉体で再現しようと努力した結果の産物だ。
ヴァールが憐れみを含めた表情で“雪奈”を見ていると、“雪奈”は吠える。
「何でてめぇは何も言わねぇ!そこの白黒女の仲間なんだろ!?何か言えよ!なぁ!」
「……煩い声でキィキィ言わないで貰えますか?虫唾が走るんですよ。貴方の声は」
「んだとっ!?てめぇっ……!」
その言葉の真意を理解出来ない“雪奈”はヴァールに向けて走り出す。隙の無い構えに、走り方やこちらへ向ける殺意、身のこなしは確かに喧嘩慣れしている玄人の物だ。
ただ、身体は圧倒的にその身のこなしに追い付いていない。足はもつれ、振り翳す拳もとても早いとは言えない。
ヴァールは特に苦労すること無く、“雪奈”の攻撃を躱す。当たることはなくとも、徐々にヴァールの心の中の傷がじくじくと痛み出す。
(どうして雪は、こんな奴の為に命を投げ出したの?どうして私を置いて行ったの?)
懸命にこちらを殺さんとしている彼女を見るだけで、ヴァールの胸の内はズキズキと痛む。
早くこの場から立ち去りたい。けれど、彼女らの死体と形見を置いて行くことも出来ない。
きっと自分達が去れば、“雪奈”達は奪われないように隠すなり、持ち帰るなりするだろう。
(やらなきゃいけないことは三つ)
一つ。「喪失」の撃退、加えて「喪失」の面子を一人たりとも欠ける事無く撤退させる事。
現状、彼女らはこちら側を敵視しているが、こちら側は一切敵視していない。パンドラに至っては面白い客が会いに来たとまで思っているのだ。彼女らがヴァールにとって大切な存在であることを知りながら、殺してしまっても別に構わないと思っているが、別に殺すことに拘っていない。向かってきた蟻が邪魔なら踏み潰す。その程度の感覚だ。
形見達を手放せば容易だが、そんな事をしては此処まで来た意味が限りなく薄まる。
二つ。「虚妄」のヴァールが結代虚華であることを悟られない事。
これは其処まで難しくはない。“嘘”と得意な銃撃を封じれば良いだけの事だ。「七つの罪源」は各々銃を携えているので、簡単な狙撃程度は出来るが、魔術を絡めた物は御法度だ。直ぐに臨が勘付く筈。
しかし、自身の戦闘能力を大幅に削いで楓としのを凌ぐことが出来るのかが課題だ。
三つ。敗走は許されず、パンドラを欺く必要がある事。
パンドラは彼らに負けるぐらいなら、自分の力で「喪失」の面々を惨殺させるだろう。
アラディアは基本的にはヴァールの味方なので、手伝ってくれる可能性が高いが、どう頼むかが鍵。
最悪の場合、自分だけの力で達成する必要があるかもしれない。
虚華は“雪奈”のへなちょこパンチを見ずに躱しながら思案した。
正直、どれか一つだけなら可能だろうと。ただ、目の前で必死に喰らいついている目障りな奴の心をどうにかして折る必要があるとヴァールは判断した。
楓、臨、しのもパンドラの事を恐れているせいか、こちらへと攻撃してこようとしていない。パンドラの災禍の影響下にいる人間は総じて戦意を奪われる筈なのだが、ディストピア出身の身体を使用している“雪奈”はどうやら対象外のようだ。
(なら何で臨はパンドラに恐れを抱いているんだろう?)
虚華の思案を、意識外から邪魔するように、聞き慣れた声での聞き慣れない罵声が飛んでくる。
目の前には雪奈の皮を被った“雪奈”が殺意たっぷりで睨み付けている。久しく表情筋が動いていなかったせいか、どうにも不自然な表情だ。
その表情をずっと見たかったのに。あの子の笑顔や怒った顔がずっと見たかったのに。
目の前のあの子は、あの子であって、あの子じゃない。
「さっきから、てめぇは何処を見ている?どうしてあたしを見ようとしないっ?」
「……煩いですね。どうやって貴方を始末しようか考えているだけですよ」
「減らず口をっ、叩くなぁぁ!!」
ぽすっ、ぽすっと運動不足の身体から繰り出される渾身の一撃は、簡単に躱される。
その度によろけそうになるのを“雪奈”は必死に堪え、何度でも虚華に殴りかかって来る。
“雪奈”が雪奈ではないことを頭では分かっているが、これ以上はマズイ、自分の心がどうにかなってしまう。そう思った虚華は、思い切り“雪奈”の腹を横蹴り上げる。
後ろでこちらを見ていたパンドラからは「ほほう」と感嘆の声が、アラディアからはいつもの気味の悪い引き笑いをしている声が聞こえてくる。
先程、チラ見した時は興味もなさそうな素振りを見せていたのに、存外弱者を嬲る姿を見るのも好きなのだろうか?
ヴァールは溜息を吐きながら腹を抑え、嘔吐いている“雪奈”へと近寄る。
未だに敵意を剥き出しにしている“雪奈”を前に、ヴァールは眉を下げ、困った顔で口を開く。
「この場は退いて貰えませんか?そうすれば命までは奪いません」
「ゲホッ……はっ、意味分からねぇ。此処までしといて逃がすたぁ、何考えてやがる?」
もう戦う気力すら残っていない筈の“雪奈”にヴァールは疑惑の目を向けられる。
それだけの事なのに、じわじわと心の中の何かがすり減っている感覚に陥り、ヴァールは苛立ちを隠そうともせずに、へたり込んでいる“雪奈”の胸倉を掴む。
この距離まで詰めれば、きっとパンドラ達には聞こえないから。
「この場で殺してしまっても、こちら側としても何のメリットも無いんですよ。それに貴方方は死にたがりなのですか?随分と後ろのお仲間は怯え切っているようですが?」
「あ……?」
ヴァールが“雪奈”に後ろを向くように視線で誘導させ、“雪奈”が後ろを向くと“雪奈”は小さく舌打ちをした。どうやら楓達が何もせずにこちらを見ているだけの現状に不満を抱いているようだった。
そりゃあそうだろうと、ヴァールは頷く。仲間が此処まで苦しんでいるのに、何もせずにただ見ているだけなんて、と。
──何も知らないからそう思えるのだろうな、と。
「今なら見逃しましょう。我が主も私が説得しますから。早く」
「てめぇ、何が目的だ? 」
「その回答は命を失ってまで知りたいことですか?心配せずとも貴方達には一切関係の無い事ですから」
ヴァールは、掴み上げた胸倉を手放す。地面に叩きつけられた“雪奈”に耳打ちをした。
「只々、思いを馳せたい事位。貴方にも経験があるのではないですか?」
「……ちっ。この場は退いてやる。だが、次は無いと思えよ」
「お心遣いに感謝します」
“雪奈”からこの場から退くとの言質を得たヴァールは、地面に尻を付けている“雪奈”へと手を差し伸べる。けれど、“雪奈”はその手を叩き、自分の力で立ち上がる。
「名前ぐらいは聞いてやる。まぁ、此処にはもう来ないだろうがな」
「ふふ。私ですか?ヴァールですよ。また会えると良いですね」
ニコリとヴァールが微笑むと、“雪奈”は視線を逸らす。そうしてくれると有り難い。
ヴァール自身は雪奈の顔を見ていると気が変になりそうなのだ。
「もう来ないって言ってるだろうが。あたし達は人探しに来てるんだ。その武器や死体も回収できれば良かったが、どうやらそいつらはお前の知り合いらしいし、お前に任せるからな」
「えぇ。丁重に弔いますよ。安心なさってください」
勿論、嘘ではあるが、敢えて言葉に魔力は込めなかった。真実にする必要など無いのだ。
「じゃあな。ヴァール。お前のこと、嫌いじゃなかったぜ」
「えぇ、また何処かで」
それだけを言い残すと、ヴァールはそれ以上“雪奈”達には攻撃をせずに、パンドラの元へと戻っていった。
そのヴァールの動きに呼応して、“雪奈”も気絶している「エラー」を起こし、怯えている男二人の頬を引っ叩き、この場から去らんとする。
劇場を出る際に、“雪奈”がヴァールに向けた表情は曖昧な笑顔だった。