【Ⅴ】#6-Fin 愛しい君──ヴァールの嘆き
虚華達は黒い扉を潜り、白雪の森へと転移する。この黒い扉さえあれば、この世界の移動という概念がガラッと変わってしまうほどのものだ。なにせ、距離無制限で移動が可能になってしまうのだから。
白雪の森の最深部へと歩いているパンドラが、そういった事に微塵も興味がないことは理解しているので、虚華は何も言わずにパンドラの後ろについていく。
白雪の森は、前回訪れた時と形相は相違ない。あちこちの木々は腐り落ち、時間が経ったせいか、魔物の腐敗臭が更にキツくなっている。一番最初に訪れた時は金木犀や林檎の匂いに魅入られていたのだが、その面影は既にない。
この森は一人の少年の手によって死んだのだ。完膚無きまでに破壊された。
美しかった空気は淀み、陰鬱な木々は腐り落ち、獰猛な魔物は全て黙りこくった。
足元には落ち葉があったが、今は完全に地面が剥き出しになっている。
「キヒ……ねぇ、ヴァール。私は白の区域に初めて来たけど、何でここはこんなに死んでるの?まさか、パンドラが?ケヒヒ、それだったら面白いけど」
不敵な笑い声を節々に含めながら、アラディアは虚華に問う。
先程までは人のベッドで勝手に寝ていた上に、真っ黒な布で目を隠している割には、的確な問をするじゃないかと虚華は感心するも、どう答えるか悩んで口籠る。
口籠っていた虚華を背に、パンドラが最奥部へと向かう足を止め、少し苛立ち気味に口を開く。
「妾が理由もなく森をこんな風にする訳があるか。チェルシーじゃあるまい。しかし、アラディア。お主、目が見えていない割には、やけに状況を把握しているのじゃな?」
パンドラがアラディアを睨むと、アラディアは高い声で小さく笑うと口角を吊り上げる。
「ケヒヒ……そりゃあ見るまでも無いでしょ。それに、完全に見えてない訳じゃないし……フヒヒ。ちょこちょこヴァールの視界を借りて見てるからね。それで十分……」
虚華が一人ポカーンとしている中で、二人が常軌を逸した会話を続けている。
アラディアは自分の視界を時々借りているなどとぶっ飛んだ事を言いながら笑っているし、それを知っていたパンドラは正直あんまりいい顔はしていない。眉間を抑えて、ため息を付いている。
「はぁ……ま、であろうな。じゃが、勝手に借りるなら妾のにせんか。妾の秘書に安易に触れてくれるな」
「ケヒ?普段は嫌がるのにやけに殊勝だね。そんなに大事?フヒヒ……じゃあ私のものにしちゃおうかな……。可愛いし、私と一緒に居ても何とも無さそうだし……フヒ……」
やってられんと呆れた表情を浮かべたパンドラは、止めていた足を再び動かす。
理解できない部分が数点あった虚華も、機嫌の悪そうなパンドラに問うのは些か憚られた。
(パンドラさんもアラディアさんも一緒に居るとどうにかなるのかな?)
二人と一緒に居ても、虚華の精神面も肉体面でも特に変化はない。
ふと思い出したが、パンドラとこうして複数人で行動することはこの数ヶ月の間、一度たりともなかった。
パンドラと一緒に居る時に他者と関わったのも、白黒屋敷で過ごしていた時に、禍津が執事代わりに現れるか、今回の件で同行しているアラディアの二人だけだ。しかもその二人はパンドラの知り合い──仲間なのだろう。
要するに虚華は、虚華以外の一般人が彼女らと接触しているのを見たことがなかった。
そう言えば、パンドラと初めて出会った時、彼女は言っていた。
──道理で妾の姿を見て恐れを抱かない訳じゃ……と。裏を返すと、本来ならばパンドラと接触した人間は恐れを抱くのだろうか?
自分の中で少しずつ仮説が形を成していくが、今は聞くことが出来無さそうだ。
もうまもなく、雪奈が結界で封じ込めた諸悪の根源──透の元へと辿り着く。
彼はパンドラやアラディアと遭遇するとどうなるのだろうか。そんなことが気になっていた虚華は、アラディアがこちらを布越しに見ていたことに気づくこと無く、パンドラの歩いた道を小さな歩幅でついていった。
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白雪の森の最奥部へと辿り着くと、結界は展開されたままだった。
こういった結界を維持するのにも魔力を大幅に使用するので、いかに雪奈が魔術に長けているのかが、よく分かる。
「やぁ。来ると思ったよ。ここで待っていた甲斐があった。「愛しい君」」
その結界の中で、一人の男が退屈そうな顔で切り株に足を組んで座っていた。
虚華達が結界の中の男を見ると、男──透が切り株から立ち上がる。
彼がこの森をこんな地獄にした張本人。ニュービー二人の惨殺に環境破壊、生態系までもを大幅に歪めてしまった罪は、この世界でもそれなりに重い物だ。
そんな事など意に介していないのか、透は虚華のことだけを見て両手を広げる。
「それにしても、随分扇状的な格好をしているね。とても可愛らしいよ。その格好で此処に来たということは、僕の物になる決心がついたのかな?「愛しい君」」
「そんな訳ないでしょ!?透には自分の罪を償ってもらうために来たの!透にはこの結界から出られないでしょ?出して欲しかったら大人しく投降して!」
虚華の言葉を聞いた透はキョトンとしたのも束の間、大声で笑っていた。真面目に言ったはずの自分の言葉の何処に笑える場所があったのか、理解できなかった虚華は透を睨む。
「何がおかしいの!?何か言ったらどうなの!?」
虚華に睨まれた透は、目尻に浮かべていた笑い涙を手で拭い、肩を竦める。
少しだけ申し訳無さそうにしていた透の姿を見た虚華は、怪訝な表情を浮かべる。
「ごめんよ。笑えるジョークだと思ったんだ「愛しい君」だって……」
透は指をパチンと鳴らす。すると周囲を囲んでいた結界は、大きな音を立てて崩れ去った。
雪奈が作った結界はかなりの強度がある。それは過去の鍛錬で自分自身が身に染みて実感していたものだった。その強固な結界がまるで児戯レベルだと言わんばかりに透は簡単に崩壊させた。
驚きが隠せなかった虚華は、自分の目を疑ったが、間違いなく結界は破られている。
虚華が呆気にとられていると、透がいつの間にかゼロ距離まで接近し、鈍色の髪が視界を彩る。
そのせいで体勢を崩した虚華は背中が地面へと吸い寄せられていく。倒れ込みそうだった虚華の手を取ったのは、パンドラでも、アラディアでもなく、残虐な罪人──透だった。
透は虚華の腰を抱き抱え、ダンスのフィナーレの様なポーズで虚華を受け止めた後、虚華自身の足で立たせると虚華の唇に人差し指を添えた。
「人間風情が、僕を繋ぎ止めることなんて出来ないよ。出来るのは「愛しい君」君だけだ」
「え……えと」
助けてもらった事を感謝するべきか、それともそれとこれとは別だと糾弾するべきか、その他色々な事を思案した虚華は、自己のキャパを超えたのか思考がフリーズしてしまった。
透の言葉を聞いてぽかーんとしてしまった虚華を助けんと、透の愚行を見たパンドラは苛立ち気味に魔術を詠唱し、加速する。
パンドラが自分の魔術の効果範囲に入った事を確認すると、早口で詠唱する。
──自身が罪に数えられる因となった一つの禁術を発動せんと。
「ゲノム・ディスパージョン!」
パンドラは透の身体を完全に消滅させるために魔術を発動したが、透は危険を察知したのか、虚華を守ろうと虚華を範囲外に避難させると、自身もその場から退避しようと試みる。
しかし、魔術の発動が予想よりも早かったせいか、透の左腕だけはパンドラの魔術によって、遺伝子ごと崩壊させられた。血が吹き出すこともなく消滅した透の左腕は「まるで元から存在しなかった」と言わんばかりに綺麗サッパリ無くなっている。
危うく存在ごと消滅させられた透は自分の左腕を見て、薄く笑う。
怒りを振りまくのでもなく、悲しむのでもなく、透はただ称賛しようとパンドラを見る。
「おっと、危ないなぁ。って君……捨ててるのか。道理で……ふふふ」
「何がおかしい?あぁ。お前もか。じゃが、妾の事は知らぬようじゃな」
(この二人は一体何を話しているの?会話についていけない)
何故かパンドラの攻撃から庇ってくれた透の腕の中に埋もれたままの虚華は、二人の会話を盗み聞きするも、意味が理解できないままで居る。
二人は虚華を差し置いて火花を散らしているが、虚華はどうするべきか判断がつかないまま、大人しく透の腕の中で黙っている。
何となくだが、この二人のやり取りは黙って聞いておいたほうが良い気がしたのだ。この世界の住人同士の会話で知れることは沢山ある。それに、パンドラのやり方も知っておきたい。
「いつまで遊んどんねん、夜桜。てか、左腕無くなっとるけどどないしたん?」
「そやねぇ、夜桜はん。愛しのおなごを(物理的に)捕まえたからって、浮かれてちゃあかんで?」
アラディアが居た方角から訛りが含まれた男女の声が聞こえてくる。
特徴的な黒と赤のグラデーションの髪色の二人は近親者なのだろうか、黙って透の腕に捕まえられたままの虚華は身動きも取れずに、二人をじっと見ている。
訛りの効いた二人は、白の区域では見覚えのない格好をしているが、透の知り合いらしく、あははと苦笑を浮かべて透が返事をする。
「あぁ、ごめんよ。つい「愛しい君」を守るために奮発しちゃった。どうせすぐ治すから大丈夫だよ。「愛しい君」ももう大丈夫。だから僕から離れて」
「あ、うん。守ってくれてありがとう?」
ニコリと虚華に薄い微笑みを返すと、透は冷ややかな目でパンドラを睥睨する。ギラついた黒色の瞳には、昏い炎が燃え上がっているように見えた。
パンドラか透のどちらかが動けば、一触即発な雰囲気だったが、訛りの効いた女のほうが手をパンと叩く。
二人が女の方を見ると、女は少し不機嫌そうに、透を嗜める。
「こらこら、夜桜はん。こんな所で油売っとる場合やないやろ?二日間も連絡よこさんと何しとったんよ?ボスがカンカンやから、はよ戻るで?」
「あぁ……とある人間の貼った結界内だと連絡出来なくてね、後で怒られちゃうのかぁ、やだなぁ」
やだなぁと言い終わる頃には、透は既に赤黒い髪の二人の近くに居た。
パンドラもこれ以上は戦闘の意思がないと判断したのか、戦闘態勢を解除し、ふわふわと宙に浮く。
あ、となにかを思い出したかのように、透は虚華の方を向く。
「「愛しい君」の仲間を鏖にしようとしたけど、それはまた今度にするね。ボスがお呼びらしいし。また会おうね、「愛しい君」」
「お前が夜桜のお気に入りか。あんなガキの何処が良いんかワイにはさっぱり分からんなぁ?ほなな?また会ったらよろしゅうな〜」
「うちも気にはなってたけど、案外可愛い子やん。なんならうちが貰ったげてもええんよ?」
そう言って去ろうとする三人に虚華は声を荒げる。
彼らが去る前にどうしても聞きたかった内容を、虚華はありったけの大声で問う。
「さっきのパンドラさんの攻撃……私を盾にしたら、左腕は消滅しなかった筈。なんでそうしなかったの?」
「パンドラ……そこの白黒女の名前はそんなだったのか。そんなの決まってるじゃないか。「愛しい君」」
透は、既に赤黒い男が転移魔術を詠唱していることに気づくと、虚華に負けず劣らずの大声で、それでいて優しい声でこう言った。
「君が愛しいからさ。「愛しい君」の事がね」
そう言い残した透と男が転移した。亀裂のような穴を残して、赤黒い女だけがその場に残っている。
赤黒い女も亀裂に入ろうとしたが、直前でとどまって、こちらの方へ振り向いた。
「あぁ、そうそう『愛し子』ちゃん。こんなトコで油売ってる場合じゃないんちゃうん?お節介かも知れんけど、はよ戻ったほうがええかも知れへんねぇ。ほなな〜」
虚華に手を振った女は亀裂に入り込み、そのまま亀裂は綺麗サッパリ無くなっていた。
赤黒い二人が来た方向から、少し傷ついているアラディアが戻ってきたのを確認すると、虚華は宙に浮いているパンドラの足を引っ張った。
「パンドラさん、戻りましょう。ジアへ」
普段なら笑顔で即座に扉を開くパンドラだったが、今回は返事までに数刻の時が流れた。
ようやく返ってきた答えも、虚華の望みを拒む形になるとは虚華は思ってもいなかった。
「先に行っておれ。妾は後から追う。アラディア、そやつの共をせよ」
「キヒ……人使いの荒いお人……了解……」
赤黒い女の意味深な言葉を受けて、虚華はパンドラの生み出した黒い扉を押し開け、走り出す。
心の中には、自分のせいでこんなにも甚大な被害が発生したことへの罪悪感が募っている。
「私が好きってだけで、此処までの被害を被らせたってこと……?」
虚華が開いた扉の先には、見慣れた筈のジアがあったはずだった。
虚華の視界に飛び込んできたのは、虚華達がよく利用していたお店が焼け落ちていた、煙が立ち込める白の区域の主要都市ジアだった。