【XII】#2 不幸体質が己の身を焦がす
赫の区域の首都──レーヴァを抜け、市街地の外れまで歩くと、中央部よりも更に街並みの様相は酷くなっていく。
居住地の壁は、布のようなものを被せただけのもの、屋根だって雨風をしのげているのかと聞かれると、怪しいと思われる。
住人の衣服だってそうだ。あちこちが千切れており、局部だけを隠せれば良いと割り切ったスタイルをしている者だって居る。
幸い、冬であろうとも、この区域は他区域よりも平均気温が非常に高い事もあって、凍死することはないだろうが、それでも快適に過ごせているようには見えない。
更に、彼らが貧困街の住人であるのならば、まともな格好をしている大罪人御一行達を見れば、すぐに行動に移すものだって居てもおかしくはない。
傍から見れば、か弱そうな若い女が三人を引率する二十代の女に見られるだろう。
得物を一般人では視認できないものを携えている都合上、丸腰に見えてもおかしくはない。
「はぁ……本当に愚かだな。知恵を持つ生物は尊ぶべきだとは思うが、貴様らは学も何も無いのか?」
「う、うるせぇ!!生きる為に奪うことの何が悪い!」
アティス達が通った道には、何人もの亜人達が倒れているのだが、それを見ても尚、衣服や装飾品、お金などを目当てに襲いかかってくる者が後を絶たない。
あまり波風を立てたくはない、という見解が4人中3人にはあったので、なるべく殺さずに気絶で済ませようとしているのだが、どうやら目の前の男は衝撃や気絶に何らかの耐性を得ているらしい。
軽くあしらい、攻撃を受け流すだけでも男はあちこちに傷を作り、苦悶の表情を浮かべるが、それでも向かって来る様を見ると、何とも言えない感情に襲われる。
「弱者は淘汰され、滅びゆく定めにある。だが、貴様らは生きることを許されている。なのに、どうしてその命まで捨てて、何を得ようとする?」
「るせぇ!俺はな、こんな暮らしうんざりなんだよ!身包み剥いで闇市に流せば、暫くはまともな飯にありつける!それだけだ!」
落とす事も出来ず、足の骨を折っても、片腕を折っても未だに諦めない男を、ため息混じりに見ていたアティスは殺さないと止まらないと判断したのか、何処からか刃渡り15cmほどの短刀を取り出す。
殺しはしないでと、ヴァールに言われてはいたが、これ以上無駄な時間は過ごしたくはない。
折角の白百合に返り血を浴びせることに申し訳無さを覚えながら、短刀を構えて、男の元へ走り出すと、両者の間に件のヴァールが立ち塞がる。
(その位置はまずい……、後数秒で私の短刀が身体に食い込む)
アティスの短刀には、対象を即座に死に至らしめる液状に変化させた生物兵器が塗られている。
触れた瞬間から腐敗が促進されるスグレモノだ。死体すら残さずに消してしまえば、こんなスラム街の男の一人や二人など、消してしまって問題ない。そう判断していた。
そんなもので、パンドラのお気に入りを刺した日には、自身の身体にも短刀をねじ込まねばならない可能性が出てくる。
元々、男との距離も十歩の無いほどの短距離だった所に割り込んできたヴァールも愚かだが、あまりに咄嗟の判断が出来なかった自身の未熟さを悔いながら、ヴァールの顔を見ると、ニヤリと笑っていた。
「『|何人足りとも殺めること能わず《両者の殺傷能力を封じる》』」
ヴァールが人差し指を口に添え、そう呟くと、深々と短刀がヴァールの横腹付近にグサリと刺さる。
粘っこい血液が地面に滴り落ちるが、ヴァールの表情は一切変わらない。
アティスが急いで短刀を引き抜くと、深々と突き刺さった短刀にはべったりと血が付着しており、ヴァールの口からも血が顎に向けて垂れている。
アティスは自身の短刀の威力をよく知っている。刺さった時間が長ければ長いほど、刃に塗られた細菌が体内に侵食するので、大量の流血を覚悟で急いで引き抜いたのだ。
「お、おいっ。なんで私の攻撃をお前が受けるんだ。それに細菌が……お前の身体を蝕むんだぞ」
「問題ありません。『己の時が遡り、|現実は歪み始める《既に死んだ遺体を蝕むだけ》』」
ヴァールの言葉が周囲に染み渡るように響いた後に、まるで時が遡っているかのようにヴァールの身体の血液が体内へと戻っていく。
そして、気づいた頃にはヴァールの身体には傷一つ残されていなかった。笑顔で、地面にへたり込んだ男の方へと、散歩をするように歩み寄ると、男の額に人差し指を添える。
「今日は私の知り合いの命日なんだ。これからお墓参りに行くの。だから邪魔しないで欲しいな」
「ひっ……ひぃっっ!!!化物だ!人間種の皮を被った悪魔だぁぁあぁ!」
男の命を救ったヴァールに対して、男は目をひん剥いて、その場から脱兎の如く逃げ出した。
ヴァールはにこやかに笑ったまま、逃げ去る男を見守っており、姿が見えなくなると、喪服に近い格好をしていたのもあり、土埃を簡単に手で払う。
一連の流れを見ていたアティスは顔には出さなかったが、内心では驚きを隠せずにいた。
あれは一体どんな手品なんだと。己の短刀に侵されながらも、何をしたらこの結末に到れるのかと。
眼の前で起きたことに対し、一秒たりとも目を離さなかった筈なのに、何も見えてこない。
考えても理解できない事象に対し、アティスは冷や汗をかきながら、ふぅっと息を吐き、冷静さを何とか保とうとする。
そう言えば、パンドラが前に言っていた事をアティスは思い出した。
『ヴァールは数字で言う零。何も持っておらぬが、それと同時に全てを持っている』
あの時のアティスは数字の零の話をしているものだと邪推していたが、もしかすると、彼女は本当の意味で世界の脅威になりえるかも知れない。
今までは誤解していたが、パンドラが気に入るだけのことはあると、アティスは理解する。
「大丈夫ですか?お怪我はありませんか?」
「……あぁ、問題ない。それよりキミは問題ないのか?」
絶対に自分の方が心配されるべきだろう、と突っ込みたい気持ちを抑えて、アティスは短刀が突き刺さっていた筈の横っ腹を撫でるように確認する。
傷一つ無い真っ白な腹部でしか無かった上に、アティスと目が合ったヴァールは些か恥ずかしそうに一歩下がると、急いで服で身体を隠す。
「私は見ての通り、大丈夫ですからっ。早く雪奈のお墓に行きましょう?」
「……そうだな。私にはあまり時間がないからね」
帰ったら、彼女のことを詳しく聞いてみようと、普段は一切他人に興味を持たないアティスは、記憶を辿り、緋浦雪奈の眠る墓へと、足を進める。
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ホロウ達はアティス先導の元、暫く歩いた後に、街の端まで辿り着いた。
そこには、小さな墓が幾つか建てられており、その中心部には、とりわけ大きな墓が合った。
竿石には大きな文字で「赫の悲劇に沈んだ無辜の民達が眠る」と書かれている。
どうやら此処が赫の悲劇で亡くなった者達を纏めて祀っている慰霊碑らしい。
「此処に、雪奈は眠っているんですか?」
「あぁ。だが、キミ達には関係のない者だろう?何故同席したがる?」
アティスの言葉に、イズとホロウは互いの顔を見ると、少し困った顔が向かい合っている。
言葉に悩んだホロウよりも先にノイン──里乃が一歩先に慰霊碑を見上げて薄く笑う。
「知り合いでなくとも、痛ましい惨劇から五年の歳月が流れた事実に変わりはない。なら、隣の区域で何も出来なかったわたしだって、安らかに眠っていて欲しいって思うんだよね〜」
「そうだね、私だってそう。此処に眠る人達とは面識はありません。貴方の識る大切な人だって居ません。けれど、この惨劇が風化せぬよう。赫の区域に足を踏み入れるのなら、此処に来るのは当然のことだと思っただけです」
「……そう。私はこの墓参りが終われば先に戻るが、キミ達は要件が済み次第、早く戻るのをお薦めする。どうやら私が思っている以上に、住人の質も、治安も悪化しているようだからね」
「分かりました、肝に銘じておきますわ」
アティス、ノイン、イズ、と自分以外は慰霊碑に花と祈りを捧げ、漸く自分の番が来て、命を捧げ終えると、ホロウは慰霊碑に置かれた一冊の本に目が行った。
表紙が真っ赤で、血で出来たシミがあちこちに出来ているその本の表紙には、黒い文字でタイトルが書かれていた。
「『赫の悲劇の真相』」
自分以外の三人は、気にもしていなかったが、どうにも気になったホロウは、祈りを捧げ終えた後に、その本を手にとった。
頁数は概ね千に行かない程度だろうか。それなりに分厚いその本の表紙を捲ると、一気に周囲の空気が変わった気がした。
なんだか嫌な予感がしたホロウは急いで本を閉じ、イズ達に報告をしようとすると、その場には自分以外の誰も居なかった。
それどころか、眼の前に合ったはずの慰霊碑すらなくなっており、先程まで血腥かった空気は、随分ときれいな空気へと入れ替わっていた。
「どういう事……?」
「ようやく私様を手に取る者が居たということね。待ちくたびれたわ」
「わぁっ!?」
「ちょっと!なに私様を投げ捨てようとしているの!?やめなさい、ちょっと!」
ホロウが持っていた本から声がしたので、咄嗟に投げ捨てようとすると、本自らが咎めてきた。
本能的にホロウは察した。どうやらまた厄介な事態に巻き込まれたのだな、と。




