【XI】#11 捨て去る、代償と現実は
ディルク・S・ディンバラはジアの薄氷を拠点として活動していた乙種探索者である。
碧眼メガネで黒がかった髪のディルクは、ギルド内でも異彩を放っている青年だった。他のみんなが昼間から酒を飲んでいる中、彼一人だけは読書をしており、背中には血痕すら着いていないピカピカな大剣を携えていた。
「薄氷」内でもかなりの実力者だった彼は、ブルーム・ノワールが何者かに拉致され、ニュービーであるデイジーとキリアンが失踪し、惨殺された事件、通称「夜桜事変」を最後に姿を消している。
その後も、何処かしこで活動しているという話自体は聞こえてきていたので、死んでいるわけではないと思っていたが、ここまでイメチェンされると初見では分からないだろう。
今目の前に居る青年とは見てくれが違いすぎるが、節々からディルクらしさを、しのは感じ取っていた。
「で、俺をこんな場所に呼びつけた用は何だ」
「え?うちが……、ディルクさんを呼んだ?」
しのが言葉を鸚鵡返しすると、紫髪の男は眉間に深い皺を刻み込む。どうやら、自分の知らない事象がこの場での常識になっているらしい。
既にディルクだと決め打ちしているが、恐らくは赤の他人なのだろう彼の名前も知らない。
「そもそも俺の名はディルクではない。“禍津”だ。それに、その様子だと俺を呼んだ自覚すら無いらしいな?」
「そうだなぁ……うちには誰かを召喚する魔力も技能なんて……無い。なにかの間違いだよ……きっと」
しのの咳混じりに話す内容に禍津を名乗る青年は、何も言わずに黙って聞いていた。
視界も霞みだし、そろそろお迎えも近いのかなぁ、なんて考えていたしのに、禍津がボソリと呟く。
「成程。お前、何か叶えたい願いがあるんじゃないのか?」
「え?」
素っ頓狂な声を上げたのにも関わらず、禍津は顔色一つ変えずに言葉を続ける。
「お前はもう長くない。その命を使って最期に叶えたい願いがあった。その願いに呼応して俺を呼んだ可能性が高い。だからもう一度問おう」
先程までと空気感がガラリと変わる。まるで自分の中身ごと全部覗かれているような気分に陥る。
その透き通った瞳に邪悪な考えは一切映り込んでいない。ただまっすぐにこちらを見ている彼の言葉に、しのは黙って耳を傾ける。
「お前は……最期に何を望む?もう長くない命の使い道をどうするつもりだ?」
「どんな願いも叶えられる?」
「お前の命と釣り合う願いならな」
「あはは、手厳しい。なら殆ど叶わないってことじゃん」
禍津の言葉に、しのは薄い笑みを顔に貼り付けて、困ったような仕草を見せる。
そう、しのは既に知っていた。自分の命がもう永くないことが。
スパクトロ・ギアの影響でどんどんと身体が腐り落ちていっていることが、それに抗おうと楓が自分が眠っている間に魔力を注ぎ込んでいてくれたことも。
彼の重荷になりたくない。戦闘や普段使いの魔術にだって沢山の魔力を要するのに、自分の延命なんかに使って欲しくない。
彼の負担になるくらいなら、自分の命なんて捨ててしまいたかった。何度命を絶とうと思ったか。
その度に楓や「エラー」が防いでくるせいで、今の今まで生き永らえてしまった。
「命の価値は等しく尊い物だ。それを代償に叶えられる願いは少なくはない。だから言ってみろ、出来る限りで叶えてやる」
「禍津……さんはどうしてそこまでするの?」
禍津は眉を下げ、自嘲地味た笑みを見せる。
先程までの冷たい悪魔のような彼の雰囲気とは違ったその顔つきは、まるで人間のように見えた。
「我儘な主とその秘書が俺には居てな。そいつらが煩くてな。そいつらの願いとはまた違った事をしようとしているんだがな」
「そう……なんだ。貴方にも仲間が居たんだね、ディルクさん」
禍津の顔にはディルクじゃないが、と言いたそうな顔をしていたが、寸での所で我慢したようだ。
しのは紫の目を僅かに細め、薄い笑みを浮かべる。
「うちね、楓……うちの仲間の白月楓って子やホロウちゃん──ホロウ・ブランシュに沢山迷惑掛けたんだ。そんな二人は、攫われた仲間を取り戻すべく懸命に頑張ってる。だから、うちはその助けになりたい。うちの命はそんな願いの一助になれるかな?」
「お安い御用だ。ではこれより転換魔術を発動する」
しのは目を閉じ、禍津の言う転換魔術──コンバート・マジックについて想起する。
確か、その魔術は何かしらの触媒や素材を用いて普通の魔術以上の効果を発揮させると言った類の魔術だ。その代償が大きければ大きいほど、得られるものも大きいとされるが、今回の代償は自身の命だろう。
大したものは呼べないだろうが、彼らの助けになり、負担を少しでも減らすことができれば十分だ。
ようやく自分は死ぬことが出来る。彼らの重荷にならずに済む。
しのは目尻に涙を貯めながら、小さく呟いた。
「ありがとう、禍津さん……」
その言葉を最後に、禍津が居る部屋に人間の反応は消失した。魔術は成功した。
禍津はそれなりに魔力を消耗したのか、しのが腰掛けていたベッドに倒れ込む。
「感謝の言葉を述べられるとはな。人間とは本当にご都合主義しか知らないようだ」
「キヒ、凄い魔力が流れてたから様子を見に来てみれば、禍津だったんだね、キヒヒ」
誰も居ない筈の部屋から女の声がする。禍津は疲れた身体を動かさずに声のする方向に顔を向けた。
かなり消耗している禍津の顔を覗き込むように見てきたのは同じく「七つの罪源」の一人、アラディア。相変わらず血色の悪い顔で、気色の悪い笑い声を発しているせいで、禍津の気分は酷く下落した。
今回の魔術は彼女の命に代償としての価値が殆どなかったせいで、禍津自身の魔力で供給の大半を補う形になったのだが、アラディアの顔を見たせいで余計に体力まで消費した気がする。
「どうしてここに来れた?それなりの防護壁や魔術結界を施していた筈だが?」
「解除条件が「禍津」の声紋認証でしょう?なら私が「禍津」になれば入れるよ?キヒヒ」
禍津はそういえばこいつが「虚飾」の二つ名を関していたことを思い出し、こめかみに手を添える。
彼女の言っていることは、要するに、防護壁や魔術結界を禍津に扮することで本人と錯覚させて解除させたということだ。
自分でなければ開くことの出来ない扉を開けることが出来る存在が、この世界にいることを失念していた。
普段なら勝手に人の魔術結界に入り込むな!と叱責している所だが、あまりにも疲れ果ててしまっているので、アラディアを無視して寛ぐことにした。
「ね〜え〜、なぁんで無視するのさぁ?キヒ、キミも私を無視するなんて酷いよぉ、キヒヒヒ」
「その気色の悪い笑いはやめろ、不快だ。しかも若干「カサンドラ」要素も入れてるだろ」
どうやら当たっていたらしく、アラディアはふよふよ宙に漂いながら鼻歌混じりにくるくる旋回している。どうでもいいが、かなりご機嫌なご様子だ。
どうして「七つの罪源」の女達は暴食姫を除いて、機嫌が良くなると宙に浮いているのだろうか。重力無視してんじゃねぇよ、と悪態をつきながらベッドの上に漂っているアラディアをぼんやりと眺めている。
「で、何の用だ。用がないなら帰れ、今すぐに、早急に」
「どんだけ私に帰って欲しいの……ちょっと笑えないかも……キヒィ」
浮力を失ったのか、アラディアが禍津めがけて落ちてこようとしていたので、禍津は短縮詠唱で風を生み出してアラディアの墜落ルートをベッドの外へと移動させた。
その結果、アラディアは背中から地面に直撃したのだが、それぐらいでは腹の虫は収まらない。
うわーん!いたぁい!と悲鳴を上げているが、禍津は気にも留めずに一人寛いでいる。
「キヒ……乙女の身体を地面に叩きつけておいて、謝りの言葉もないの……?フヒヒ」
「無い。悪いとも思っていないからな、自業自得だ。俺は大仕事をして疲れたんだ」
「それって、紫野裂しのを転換魔術の代償として殺したこと?」
「あぁ。彼女が望んだ願いの為にな」
アラディアは血に足つけて部屋中をうろちょろと歩き回ると、胸の前で腕を組み、何かを考えるような仕草を取る。
暫く考え込んだ後に、アラディアは気味の悪い笑みを浮かべ、歪な表情でこちらを見る。
「この部屋、良く出来てるけど、キミが作ったでしょ。あちこちに不純物が混じってる、キヒ」
「だったら何だ。別にどうだって良いだろうが。お前には関係ない」
「キヒヒ、確かに無いけどさぁ。でもこれってキミのせいでしょ、ちょっと見てみてよ。キヒ」
アラディアは遠隔遠視水晶を取り出し、禍津に差し出す。禍津は首だけを動かし、その水晶に映る事象を視認すると、小さく鼻を鳴らし、再び天井へと視線を移す。
「さてな。俺は力を与えただけだ。その代償に命を貰ったが、正直出血大サービス物だ」
「多分九〇パーセント位は禍津の魔力だよ……?あそこまで凶暴化しちゃってて良いの?」
「興味無いな。マズかったら誰かが止めるだろう。無論、お前が救っても構わない」
「んな無茶苦茶なぁ……。分かった、ちょっと考えてみる。キヒヒ」
気色の悪い笑い声が鳴り止むと同時に、アラディアの姿もいつの間にか消え去っていた。
禍津は身体を起こし、頭の上で両腕を組んで伸びをする。久方していなかったせいか、身体中からバキボキと鈍い音が鳴る。
先程見せられた水晶の光景が目の裏で何度も再生される。あれを野放しにしていれば、間違いなくブラゥはジアの二の舞いになるだろう。
「さて、どうしたものかね。俺に非が一切無いとは言わないが」
ハンガーに掛けられていた白衣を纏うと、禍津は結界を解除し、外界へと降り立った。




