【X】#9 深謀遠慮の虐殺参謀
虚華が扉を潜ろうとした時、何かに引っ張られたような気がして、ふと後ろを振り返る。
そこには灰色の髪を後ろで纏め上げた依音が、心配そうな顔で虚華の服を強く握っていた。
思えば、久方振りに見た気がする。此処に戻ってからはずっと部屋に籠りっぱなしだったし、基本的に「歪曲」の館には戻らずに蒼の区域の調査や、【蝗害】の面々や「カサンドラ」と行動していたので、会話する機会すらなかったのだ。
依音が何故、自分の服を引っ張るのか、今一つ分からなかった虚華は正直に尋ねる。
「えっと、依音?なんで服を引っ張るの?」
「そういう貴方こそ、何処に行こうとしているのかしら?」
虚華は依音の言葉にどう返すか悩んでいる間に、依音の事をまじまじと見て気づいた。
普段は身なりをきちんと整えている彼女が、顔を紅潮させ、額に汗を滲ませている。恐らくだが、彼女はトレーニング終わりに虚華が魔術を用いて何処かに行こうとしていたから急いで引き止めた、といった所だろうか。
「ちょっと邪魔者を斃しに行こうかなって」
「ふーん?私の知らない間にどんな事があったのか、聞かせて貰えるかしら?」
依音はどうやら逃がす気はないらしい。虚華の服の裾を掴む力は弱まる気配すらない。
幸い、此処は「歪曲」の館。時間の流れがおかしい此処でどれだけ過ごしてもフィーアでは殆ど時間は経たない。
依音を納得させるために、虚華は一度扉を閉ざして依音にソファに座るように促す。
虚華がベッドに座ったのを確認すると、依音も虚華の隣にちょこんと座る。
二人きりで話をするだけなのに、この距離感は何なのだろうかと、虚華は疑問に思うが、頑固モードに入った依音に何をいっても無駄なので、諦めて大まかな現状を話す。
「夜桜透率いる【蝗害】に敵対している「緋色の烏」ねぇ……。名前は知ってるけれど……蒼の区域に根差してるとは思わなかったわ。あそこはそれなりに大きい組織よ」
「なんで依音が「緋色の烏」を知ってるの……」
いや本当にどうして知っているのか。本当に彼女はディストピアで自分と一緒に生きていた人間なのだろうか?
確かに虚華と一緒に行動していない間はどうやら「歪曲」の館に篭りっきりのようだが、まさか此処まで知識を付けているとは思っていなかった。
ディストピアに居る頃からかなり物知りではあったが、此処までとは思っていなかった。
虚華が依音の反応に驚いていると、依音は誇らしげながらも、少し恥ずかしげに顔を逸らす。
「当たり前よ。この世界の歴史を調べれば出てくる名前だもの。此処数年の歴史なんて、逆に書物には残されてなくて困るのだけれど」
「じゃ、じゃあ……どうやって知ったの?」
「簡単よ、禍津様に出して貰ったわ「万物記録」で」
「めちゃくちゃ便利だね……あの人の禁術」
禍津の扱う「万物記録」は世界の記録や記憶を全て書物として具現化した後に、引き出すことが出来る魔術。
全てが焚書として燃やされていたとしても、たった一人の記憶として残されていたとすれば、それは全てかつての姿を取り戻すことが出来る。
存在してはいけない魔術、真なる意味で禁術と言えるだろう。
「禁忌」の名を冠しているのは伊達ではない。彼の存在は、居るだけ凄まじい脅威なのだ。
そんな彼が、ただの小娘の為に本を量産しているとはとても思えないのだが、虚華とて、あまり付き合いがない。
精々、魔術の鍛錬を専属で見ていてもらっている程度の物だ。彼のお陰で呪、闇属性の上級魔術まではある程度網羅することが出来た。
更には現在、ディストピアの公衆劇場にて回収した葵薺の死体の蘇生もお願いしている。
禍津がなくてはならない存在であることを再確認すると、虚華は少し身震いしてしまった。
(あれ?もしかして禍津さんって凄い人なんじゃ……)
「そうね、あの人の禁術は確かに禁術たる所以があるわ。あの魔術一つで世界がひっくり返ってもおかしくはないわ」
「えぇ……そんなに?」
虚華が流石に盛り過ぎじゃない?といった反応を示すと、依音はベッドの上でずいっと虚華に顔を近づける。
至近距離で依音元来の香りと運動後の汗の香りが混じった匂いがふわりと漂い、何故か虚華がドキッとする。
いつもの彼女からは感じられないそれに、虚華は思わず顔を引いてしまう。
「ちょっと、どうして逃げるのかしら?良い?あの人の魔術はね……」
依音が禍津を褒め千切るのを長時間聞きながら、どうすれば早くこの場から脱せるのだろうと、死んだ目で天井を眺めている。
一冊ぐらい、自分も何か本を出して貰おうかなと思いはしたが、本を読んだら眠くなるタイプの虚華は諦めて、この先どうしようかを最早説法を聞いているような感覚に陥りながら、首を縦に振るだけの機械になっていた。
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依音が満足する頃には虚華はげっそりしていた。
かなりの時間を依音の熱弁に消費してしまっていたが、お陰で現状を再確認することが出来た。
やはり、宵紫蜜柑は早々に殺すべきだ。生かしておいて誰の得にもならない。
虚華が心の中を冷静な殺意で満たしていると、依音に背中をぽすりと殴られる。痛くない。
「な、なに?」
「それで?貴方は「緋色の烏」の一部隊長の宵紫蜜柑を殺すんでしょう?確か、【蝗害】の元リーダーだったわよね。……となると、考えられるのは、元【蝗害】との軋轢かしらね」
その通りである。現リーダーである夜桜透や、幹部の玄緋兄弟との関係性の悪化から、彼女の殺害を試みている。
つくづく虚華の思考を先読みしている依音には頭が上がらないなぁと、虚華がヘラヘラと笑っていると、依音は神妙な顔をしたまま言葉を続ける。
「何も言わない辺り図星かしら。昔から変わらないわね、その顔は」
「なっ!私の顔の何処が変なのさ!!」
「ふふっ、そういう所よ。言っちゃったら隠しちゃうもの。絶対に言わないわ」
「んもー!!ふーん、まぁ良いもん。じゃあそういう事だから!私もう行くね」
この流れでドロンできればそれに越したことはないといった形で、虚華は扉を開くべく、指輪に魔力を注ぎ込もうとするも、依音に阻まれる。
今回引っ張られた部分は襟の部分。お陰で首が締まってしまい、ぐえぇと奇声を上げてしまった。
「な、何するのさ……もう話すことは話したでしょう……?」
「何一人でいこうとしているの。私も行くに決まってるじゃない」
「私、人を殺すんだよ?」
「別に構わないわ。私だってあの世界で、貴女を護る為に沢山殺したもの」
人を殺すことに抵抗など既に無くなったと言わんばかりの態度に、虚華は苦笑いしながらも、心強いなとも感じた。
あの頃の虚華は守られてばかりだった。その結果として仲間を殆ど失ってしまった後悔に苛まれ、今もこうして仲間を取り戻す為にずっと行動している。
眼の前に居る彼女は取り戻した仲間の一人だ。あの時失ってしまったままの姿だが、直に成長して、自分の身長なんか追い越してしまうだろう。
虚華は依音の手を取って、今度こそと指輪に魔力を注ぎ込み、黒い蝶と靄を部屋中に立ち込めさせる。
「目的地は……私が滞在している宿屋に……」
「待って、そこじゃない。行き先は」
虚華が行き先を言おうとした途端、依音は虚華の口元に右手の人差し指を添える。
依音の方を見ると、依音は反対の指を自身の口元に添えると、虚華の指輪に左手を添える。
透達が虚華が取っている宿屋の一室で休んでいることは既に依音と共有済みだ。
では、何故彼女は虚華の決める行先を否定するのだろうか?虚華が首を傾げていると、依音は虚華の指輪に、己の魔力も混ぜ込む。
黒い蝶に灰色の靄を浮かべた扉は黒と灰の二色が絶妙なバランスで混ぜ込まれている物になった。
扉が完成し、後は開けるだけになった頃合いで、虚華はおずおずと依音に訪ねた。
「……行き先は?」
「【蝗害】のアジト、いいえ【蝗害】の元アジトと呼べばいいかしら」
靄と蝶が消えた扉を依音は足で蹴飛ばし、扉を開ける。
何かと荒い部分があることもあるが、何故今?と、虚華は思いながら、依音の言葉を待つ。
「元アジト……?そういえばアジトは移設したって……」
「そう。きっと彼女は其処に居るわ。距離もそう遠くない」
いつの間にか、身なりを整えていた依音は腰に剣型の魔導杖を装着し、臨戦態勢を取る。
「さて、何匹居るか知らないけれど、鏖殺と行きましょうか」




