【Ⅰ】#1 喪失の少女、結代虚華
とある少女は、二人の仲間と共に、土砂降りの雨の中、息を切らしながらも走っていた。
否、ただ走っていた訳じゃない。逃げていた、全力で。
雨であちこちの道路に水溜りが出来ている。そんな物をお構い無しで走る彼女達の身体は、雨以外の汚れが目立っている。
何故、この少女達は逃げているのか?そんな事は逃げている当の本人ですら分かっていない。
物陰で様子を見ている少女は、遠くの方からライトを携えて走ってくる大人達の姿を目視する。
「対象はこっちの方に逃げたと通報を受けた!夢葉様の為に捕縛しろ!残り二人のガキは殺処分しろとのお達しだ!」
「おとなしく観念しろ!お前が投降すれば、仲間の命までは奪わない!」
そんな矛盾まみれの投降勧告の声があちこちから響く。数はもう自分達の十数倍は居るだろう。
デカデカと聳えているビルの中心部にある街頭ビジョンからは、似たような内容が繰り返し放送されている。
そんな異常な事態に、街の人間は一切干渉しない。どいつもこいつも虚ろな目をして、決められた行動しかしていない。
少女達を追っている人間も、決められた行動しかしていないのではと錯覚する程に執拗に追ってくる。
(気持ち悪い。世界をこんな風にしてまで、彼奴は一体何がしたいの)
そんな彼らに捕まったら少女達はゲームオーバー。少女は追手の主に利用され、仲間達は殺処分だ。
どうしたものかと、頭を抱える少女に仲間の一人が耳打ちをする。
「虚、この家は空き家だ。雨を凌ぐ為に拝借しよう」
「分かった。この雨を浴び続けるのはほんのちょっぴり、堪えるもんね」
少女を含めた三人は、無人の空き家の鍵をピッキングで解錠し、中に入る。
_______________
適当に入った空き家ではあったが、少女はこの家に見覚えがあった。
辺りを見渡すと、テーブルや、ぼろぼろになっている家具に埃が積もっている。
外見よりも老朽化が進んでいた無人の空き家は、人を住まわせていた痕跡が見当たらなかった。恐らく、長い間入居者が居なかったのだろう。
そう言えば、先導役の仲間の一人が、真っ直ぐこちらへと向かっていたことを少女は思い出す。
どうやら仲間の一人は、最初からこの家をアジトとして目星をつけ、此処に逃げ込むつもりで移動をしていたようだ。
(そりゃあ見覚えがあるよね。頭に詰め込んだ見取り図と同じだもの)
アジト内に本当に誰も居ないかを目視で確認した三人は、束の間ではあるが、安息の時間を得られた。
仲間の一人に虚と呼ばれた少女は、項付近で結んでいた二つのゴム紐を外し、光の当たり方で銀にも白にも見える髪を手で絞る。
彼女は現在進行系で、とある組織の人間から追われている。名前は結代虚華。
銀にも見える白い髪に、透き通るように輝くエメラルドブルーの瞳、真っ白とまでは行かないが、薄めの色素の肌、体躯も歳の割には華奢な彼女は、大きなため息を付く。
一着しか持っていない大切な衣服が雨で汚れてしまっては、気分が上がらない。それに、此処に移動してくるまでに、知人を一人失っている。
《虚華に関わるものは、死から逃れることは出来ない》仕方ないとは言え、知り合いを亡くすとどうしても落ち込んでしまうものだ。
虚華の両親も、守ってくれていた仲の良かった友人等も、先程まで虚華を追いかけていた組織の人間に、一人残らず殺されている。
もう残っている仲間はこの世界にたった二人だけ。そんな仲間を危険に晒してまで、自分が生きている価値があるのだろうかと。少女は、目の前の現実を見せられる度に精神的に疲弊していった。
(頭の中では分かってる、私が捕まった方が良いって。それでも、私は死にたくない。捕まりたくない)
先程まで全速力で、雨の中を走り回っていたせいか、虚華の口の中に鉄の味がじわっと広がる。
そのせいで、咳き込むつもりもなかったのに、身体の拒絶反応なのか、嗚咽のような声が漏れる。
「えほっ、げほっ……」
「大丈夫?虚……」
仲間の一人──濁った雪のような瞳の少女は、燃えるような真紅の髪を揺らしながら虚華に近づき、背中を擦りながら、虚華の身を案じる。
そんな光景を、もう一人の仲間──このアジトへと虚華達を誘導した少年。昏い灰色の瞳に、艶やかな黒髪の少年は、虚華を一瞥した後に外の状況をじぃっと見ている。
少女に背中を擦られたお陰か、気管に入り込んだ液体を出し切った虚華の咳は止まった。
咳き込んだせいで余計に体力を消耗した虚華は、少しだけ気怠げに赤髪の少女に笑顔を向ける。
「大丈夫、ちょっと咽ちゃっただけだよ。それよりも雪、服がびしょびしょじゃない。早く脱いで乾かさないと」
「んぅ。それは虚も、同じ。虚も脱いで」
「わぁ、まって、雪、わたしっ、自分で脱ぐから!くすぐったいってぇ!」
虚華の服を脱がそうと、どさくさに紛れて虚華の胸などを無表情で弄る赤髪の少女が、虚華の仲間の一人──緋浦雪奈。
虚華よりかは血色も良く、華奢ではあるが、育つ所はしっかりと育っている雪奈は、運動不足気味の虚華を背負いながら逃げることもあってか、体力等が虚華の倍以上もある体育会系少女だった。
傍から見れば、可愛らしい少女がじゃれ合っている様に見える二人のやり取りも、現実では反抗しているものの弄ばれている虚華が、雪奈に遊ばれているだけである。
両手のひらをワキワキさせている雪奈は、虚華の衣服を下着以外剥ぎ取った後、早口で詠唱し、魔術を発動させる。
「大丈夫、汚れを、水魔術で洗って、風と火の魔術で、乾かすだけ。疚しい事、なにもない」
「……そういう事言う奴は、大体疚しい気持ち持ってるんだよ」
黒髪の少年がぼそっと雪奈をディスるような文言を言うと、空気が急に冷える感じがした。
虚華は服を脱がされているせいで、隅でプルプル震えているが、お構いなしに気温が下がっていく。
言葉足らずな喋り方をしながら、魔術を詠唱しようとしていた雪奈は、両手を下ろし、詠唱を中止する。
機械のような挙動で、黒髪の少年の方を向いた雪奈は、ぼそっと虚華に聞こえない声量で呟く。
「虚の、下着姿想像してる臨に言われたくない」
「なっ……」
無表情ながらもジト目の雪奈に、図星を突かれたのか、黒髪の少年──黒咲臨は、虚華と同じくらい白い肌を林檎と同じくらい真っ赤にさせる。
反論しようにも、隅で震えている虚華を視認している臨の脳内では、虚華の下着姿が記録済みだ。それに、どうにも冷えてきたせいか、思考が鈍くなっている気がする。
隅でぷるぷる中の虚華もそうだが、濡れたままの衣服を着たままの臨も、急速な気温低下の影響を受けて、二人は各々くしゃみをする。
「クシュン!!」
「はっくしゅぉん……なんでこんな急に気温が……」
虚華のくしゃみの音に、はっとしたのか、雪奈が隅で縮こまっている虚華に近寄る。
雪奈は急いで早口で詠唱し、小さな炎を虚華の近くに一つ置く。相変わらずの無表情ではあるが、少しだけ申し訳無さそうな声色の雪奈は虚華に寄り添う。
「ごめん、虚、……あの変態のせいで、虚の身体、冷やしちゃった……」
「なんでボクのせいにするんだ……」
雪奈にとんでもない冤罪を吹っ掛けられたが、臨は雪奈の隣りにいる下着姿の虚華が居るせいで、雪奈の方を見て反論することが出来なかった。
その傍らで雪奈は、脱がせた虚華の衣服と、虚華に寄り添った際に脱いだ雪奈の服を、器用に魔術で洗濯から乾燥までこなして、ぱぱっと虚華に乾いた衣服を着せる。
衣服を着せ終わった雪奈は、半ばいじけているぐしょ濡れの臨を放置し、自身も服を着る。
雪奈が虚華を見ると、ぐしょ濡れの臨の方を心配そうに見ている。雪奈は虚華が、何を言おうとしているのか、察した上で虚華に声を掛ける。
「虚、寒くない?」
「私は大丈夫、けど臨……寒そうだよ?臨のは乾かしてあげないの?臨、寒くないの?」
「ボクは大丈夫だ、どうせ直にかわ……クシュン……。鼻水出てきた……」
自身の身よりも仲間の心配をする虚華は、臨の方を見る。声を掛けられた臨は、そっぽをむいたまま、返事をした。
臨のその態度が、虚華が衣服をまだ着ていないからだと気づいた虚華は、臨の方に近寄る。
「もう服着てるからこっち見ても大丈夫だよ。臨も濡れたままの服じゃ寒いでしょ?雪奈に乾かして貰おうよ?ね?」
「ボクは良い。こういう状況は慣れてる」
明らかに強がりを見せている臨には、虚華の言葉は届かない。ため息を付いた虚華は、後ろで我関せずと、本を読んでいた雪奈の方を見る。
ちらっと虚華の方を見た雪奈は、虚華が雪奈のことをガン見している事に気づく。
本に意識を移してもずっと見ている虚華の視線に耐えかねて、雪奈は本をぱんっと閉じる。
「……ん。そんなにこっち見なくても、やるから。ほら変態、さっさと脱げ」
「冤罪だぁ……」
それでも、濡れた衣服を着ているのが辛かったのか、口をへの字に曲げている雪奈の指示に従って、臨は脱いだ衣服を差し出した。
虚華の隣で座っている乾かす方も、少し離れた場所で虚華から隠れている乾かして貰う方も、不服そうにしている眼の前の光景を虚華はニコニコしながら見守っている。
どっちもこんなことはしたくないが、虚華の指示だから渋々そうしてやってると言わんばかりの二人のこの雰囲気が、虚華は嫌いじゃないのだ。
(なんとなく、仲間って感じがして好き。私が居ない所でも仲良くしてくれれば良いんだけどな)
そんな事を思っていた虚華は、隣りに居る雪奈にくいくいと袖を引っ張られる。虚華は雪奈へと視線を映すと、雪奈は口を尖らせていた。
「虚、男の素肌見てないで、あたしの方を見てて」
「なっ、ボクの事を見ていたのか……そうか……」
雪奈に服を渡した臨は、下着姿で隅で一人、体育座りでちんまりと静かに座り込んでいたが、雪奈の一言で急に活気を取り戻す。
自分のことを見ていたと知った臨は、顔を少し赤らめている。
洗濯部分を終え、乾燥させようと炎魔術を発動していた雪奈は、そんな臨の姿を見て、いつもの気怠げそうな表情でボソリと呟いた。
「あー。臨の衣服、燃やしちゃいそう」
「待って、ボクが悪かったから、その服燃やされたら、下着姿で外を走ることになる……」
右手に持っている臨の衣服を左手に持っている炎で、燃やそうとする仕草は、本気で燃やそうとしているようにも見える。
そんな雪奈の脅しに屈したのか、臨は少しだけ眉を下げて雪奈の慈悲を乞う。虚華も流石にそれは不味いと、雪奈の頭を撫でることで機嫌を取ろうとする。
二人の反応に満足したのか、雪奈は衣服を燃やすこと無く、乾燥させて臨に手渡す。
臨は胸をなでおろし、雪奈から渡された衣服をいそいそと着る。
頭を撫でる手は止めずに、虚華は自分の心臓が恐怖心からか、ドクンドクンと音を立てているのを感じていた。
(雪奈怖っわ……。私も歯向かわないようにしなきゃ……)
仕事を終え、虚華にベッタリとくっついて甘えている雪奈の事を今日だけは、小ライオンがじゃれてきているような恐怖心を持って接そうと、心に決めたのであった。
_______
冬なのに季節外れの豪雨が、殺風景なビル街に降り注ぐ中、虚華達は外の様子を伺いながら、アジトの中で雨宿りをしていた。
アジトの中は、雪奈が簡易的な暖房として、火属性の魔術を発動して室温を上げている。
虚華の「頭撫で撫で」で、すっかり機嫌の良くなった雪奈は、嫌がる臨を拘束魔術で縛り付けて髪の毛まで乾かし終えた後、虚華にくっついている。
今するべきなのは、これからどうするかの作戦会議なのだが、虚華は数時間前に失った知人の事がどうにも頭から離れずに居るせいか、自分の集中力が散漫になっている事を自覚する。
(透……好きじゃなかったけど、いざ死んじゃうと寂しくなるもんなんだなぁ)
虚華が、窓から外の景色をぼんやりと眺めていると、雪奈が虚華の隣から立ち上がる。
「ちょっと、このアジト、見て回ろっか」
「急にどうしたの?雪。臨の探知魔術と、地形把握術でこの建物の構造は把握しているんじゃないの?」
虚華に首を傾げながら、既に調べてあることをどうしてもう一度調べ直すの?と、最もな返事をされた雪奈は、臨の方をじぃっと見る。
視線のあった臨は、半眼で訴えかけて来ている雪奈を見て、しょうがないなと、ふぅっと息を吐く。
「ボ、ボクの探知も完全じゃない。それに誰か不審者が居る可能性もあるから、念の為に見て回るのは良い案だ。それに、こういう雨の時は、体を動かさないと、気分も沈む」
虚華は、臨が自分の魔術が完全じゃないなんて珍しいことを言うもんだなぁと、不思議そうな表情をしている。
その虚華の隣で首をぶんぶんと縦に振っている雪奈と、その雪奈を少しだけ睨みながら涙目になっている臨には気づかないで、虚華は椅子から立ち上がり、階段のある方へと歩こうとする。
「そういう物なの?別にいいけど……じゃあ皆で回ろっか」
「待って、三階建を、三人で回るのは、非効率。あたしは二階、臨は三階、虚は一階を見てきて欲しい」
「あくまで確認だから、さっと見て回れれば良い。じゃあボクらは上に上がっている」
先に階段で上に登っていった二人は、どっちが二階を調べるかで口論をしているようだった。
普段ならば、三人で回った方が安全だと言って、非効率でも全員で確認等をするのに、今回は単独で一人一階層ずつ回ろうと雪奈と臨は、虚華に提案する。
(気を使われているんだろうなぁ。きっとさっきの出来事で落ち込んでいると思ってるんだ)
上の方では、臨と雪奈が口論をしていて、少しだけ喧嘩の声が聞こえてきたが、それが収まってからは、自身の呼吸音と雨音しか聞こえてこなくなっていた。
正直な所、虚華は心が疲弊し切っていた。だから、こうして無理矢理にでも一人になれる時間が出来たのは、僥倖としか言えなかった。
そんな時間を作ってくれた二人には感謝しながら、頭の中に叩き込んだ地形と、目の前の光景を重ね合わせながら一階を見て回る。
(後でお礼、言わなきゃな。でもすっとぼけられるだろうし、どうしようかな)
この木造三階建の建物に、人が自分達以外居ないことは、此処に来た際に臨が、探知魔術で確認済みだ。
それにこの建物は一階部分が、一番見て回る部分が少ない。だから、二人は一階を虚華に任せたのだろう。
二人が見て回っている間に、虚華は直ぐに確認を終えて、一人の時間を作ろうと考えての行動なのだと虚華はすぐに理解した。
虚華は、仲間思いの仲間に感謝しながら、少し埃っぽい一階部分を、記憶を頼りに一部屋ずつ見て回る。
特に何も思う所はなく、一階探索はすぐに終わり、二人が戻ってくるのを先程まで三人で一緒にいたリビングで待つことにした。
雨の音が激しさを増し、ざぁざぁと音が鳴り響いているのを外を眺める。
リラックスしてきた反動からか、ふとお手洗いに行きたくなった虚華は、駆け足でトイレに向かう。
水道が通っていることに虚華は驚きを感じながら、手を洗って外に出ると、近くの階段の下に人一人が収まりそうな隙間があることに気づいた。
深い意味もなく、その隙間に虚華はしゃがんで挟まると、なんだか雨の音を聞いている時よりもリラックス出来る気がしてきた。
(何となく、此処が一番落ち着けそう……でも、こんな場所、私の記憶には無いけど……)
先程のリビングで椅子に座って外を眺めている間も、誰かに見られている気がして、なんだか落ち着けなかった。
そんな、不思議と心が安らぐ場所に座り込んだ虚華は、つい数時間前の出来事について思い出す。