第∞話
すっかり見慣れたリハビリテーション室を振り返り、僕は深々と頭を下げた。
お世話になった理学療法士さん達へ感謝の言葉を告げた僕は、次に主治医が待つ診察室の扉を軽くノックする。
あの日から8ヶ月の月日が流れた。
暗い夜の海へ落ちていく感覚は、未だに僕の深層心理へ悪夢を刻み続けており、時折うなされて起きる事もあるけど……決して後悔はしていない。
優花を庇って岩に身体を打ち付けた際、正直……死を覚悟した。逸早く目を覚ました彼女が救助を呼んでいなければ、僕はあの場で命を落としていただろう。
「今日までよく頑張ったね、圭一くん。これで治療は完了だよ」
「ありがとうございます。先生、長い間お世話になりました」
幸い、後遺症らしい後遺症に見舞われる事はなかったが、当時はそれなりに大掛かりな手術をした事もあり大変だった。
粉砕骨折により散らばった肋骨。その骨片が肉や臓器に食い込み、筋肉内出血を起こした。
腎臓は岩に激突した衝撃で破裂してしまい、片方を失ってしまった。これまでお世話になった臓器が失くなってしまうというのも、悲しい事ではあるが、僕と優花の命が助かるのなら必要な犠牲であったと考えるようにしている。
主治医へと一礼する僕の隣では、僕の両親が同様に主治医へと頭を下げていた。診察室の外、廊下には優花のご両親が待機されているが、優花の姿は見当らない。彼女とはもう随分会っていないような気がする。
最後に優花と会った時、僕はまだ入院して間もない頃で、ほぼ寝たきりの状態だった。
僕の病室を訪れた際、優花は涙ながらに色々な事を語ってくれた。
龍造寺のセフレになる事を受け入れ、徐々に性行為へ慣れてくると同時に芽生えた快楽への欲求。何もかもを忘れられるほどに強烈な快楽の虜になり、次第に依存するようになっていった事。最終的には龍造寺以外のサークル部員達とも肉体関係を持つに至り、その事へ嫌悪感を覚えなくなったばかりか、嬉々として快楽を享受していた事。龍造寺が差し伸べた“救い手”が偽りであったと判明した時、全てを無かった事へする為に……美月ちゃんを殺そうとした事。
優花から「美月ちゃんを殺した後に、私も自殺するつもりだった」と聴かされた時には血の気が引いた。一歩遅ければ、二人は……。
僕からの電話に気を削がれ、隙を見せた優花から逃げ出した美月ちゃんだが、刺された腹部は致命傷を免れ、命に別状はなかったらしい。ただ、眉間から頬までを刃物で切り裂かれた際、その傷痕こそ整形手術で目立たなくなったようだが、片目は完全に視力を失い、義眼となったそうだ。
身体を売ってまでして稼いだ金。美月ちゃんは己の尊厳を犠牲に入った大学を中退し、今は行方知れずとなっている。
一時期、隣県にある風俗街で彼女を見かけたという噂が囁かれていたが、実際に何処で何をしているのか……少し心配だ。
ちなみに美月ちゃんは警察から事情聴取を受けた際、見知らぬ男性から襲われたと語ったらしい。
その証言を受けた警察は通り魔による犯行と怨恨の線、両方面から捜査を進めたらしいが、真犯人の特定に至るはずもなく、事件は迷宮入り。事件現場である大学やその付近へ対し、注意喚起がなされただけだった。
何故か容疑者候補として、僕や未だ行方を眩ませたままである龍造寺の名前が挙がったらしいのだが、その件に関しては情報ソースも曖昧で、詳細は不明だ。
うちの大学のテニスサークル、及びフットサルサークルは取り潰しとなり、新歓コンパ事件に関与したと見られる学生達は起訴された。勿論、事件に関与した学生達は皆、退学処分を言い渡されている。
あの事件に関して、世間の声は「厳罰に処すべし」「処罰が甘すぎる」というものだった。実際、僕も未だ冷めやらぬ憤りを感じている。
空手部の副主将、確か名前は吉田先輩……だったと思うけど、彼は事件に関与した学生達を厳罰に処すよう裁判所へ求め、署名活動に勤しんでいると聞いた。今度、僕も署名しようと思う。
最後の通院を終えた僕は、両親に付き添われながら病院を出た。
「圭一くん、本当に娘が申し訳ない事をした……」
「ごめんね、圭一くん。そして本当に……本当にありがとう」
最後の通院へ同行したいと申し出た優花のご両親。僕が病院から出た瞬間、二人は深々と頭を下げた。
「謝罪も感謝も……もう十分ですよ。これ以上は逆に申し訳ないくらいです。入院費用や治療費、それに慰謝料までいただきましたし……」
入院費用や治療費はともかく、慰謝料の受け取りだけは固辞した僕だったが、優花のご両親から「受け取って貰わないと、我々の気が済まない」と言われ、渋々慰謝料を受け取った。
お金を渡す事で少しでも罪悪感が紛れるのなら、それも必要な事かもしれない。そう思い、僕は納得する事にした。
「娘の事は私達に任せてほしい。圭一くんは……自分の人生を歩んで下さい」
優花との別れは僕が望んだ事だ。僕ら二人にとって、それが“正しい”在り方だと思ったから。だけど胸が苦しくなるのは、どうしてなんだろう。
ズキリと痛む胸を押さえながら、僕は頷き、ゆっくりと口を開いた。
「……はい。でも、僕だって優花を守れな――「圭一くん、それは違うよ」」
僕の言葉を遮った優花のご両親の瞳には涙が浮かんでいた。そして優しく微笑んでいた。
良いご両親だ。もし……もしも、あの忌まわしい事件さえなかったら、僕らには同じ食卓を囲み団欒する……そんな未来があったのかもしれない。
「我々の代わりに優花を守ってくれて、本当にありがとう……さようなら」
◇ ◇ ◇
僕が通院を終えた翌日、優花とそのご両親は引っ越して行った。
結局、優花が姿を見せたのは、彼女から罪の告白を受けた日が最後だったけど、僕の手元には一通の手紙が握られている。
手紙には後悔と謝罪の言葉、そして優花の想いが綴られていた。
所々滲んだ文字は涙の跡だろうか。涙を流しながら筆を走らせる優花の姿が思い浮かび、僕の頬にも一筋の雫が伝った。
優花は精神病と診断され、あの日以降、心療内科へ通っていたらしい。今はある程度回復したらしいが、その文面から、彼女が未だ悪夢の檻へ閉じ込められたままである事が伺えた。
自傷行為……自殺こそ考えなくなった優花だが、今は自分を傷付ける事でしか罪悪感から逃れられない。そう思い込み、衝動的に自分を傷付ける事があるそうだ。
それでも、いつか……優花が自分と向き合い、彼女にとっての“正しさ”を見つけた時、僕はもう一度彼女と話してみたいと思う。
価値観や倫理観、その多様性を個性と呼ぶのならば、そこに“正しさ”など存在しないはずだ。それ自体に善悪など存在しないのだから。
でも、己の考える正しさを他人に押し付け、強要すれば……それは“独善”であり、場合によっては“悪”だと断罪されるだろう。
己の正しさを証明する為に人を傷付けてしまえば、それはもう個性として許容される事はない。もしかしたら龍造寺の凶行も、己の正しさを信じて行動した結果なのかもしれない。勿論、許せるはずもないが。
ただ、その手段さえ違っていれば、違う価値観を持った人間として、個性として受け入れられたのだろうか?
おそらく誰もが考え、そして求めるはずだ。正解など存在しないはずの“正しさ”を。
僕も未だに考える。何が正しかったのか。何をすれば後悔しない人生を送れるのかを。そして想い描いた正しさを他者と共有したいと願う……願ってしまう。
それとて価値観の押し付けだと言われてしまえば、僕に反論する術はない。
僕は優花の価値観を受け入れなかった。彼女と別れる道を選んだ。染まる道だって選べたはずだ。それでも僕が別れを選択した理由は……やはり、自分の倫理観や価値観における正しさを優先し、優花と同じ倫理観に染まり、己の価値観を曲げる事を拒否したからだ。
お互いが幸せになる選択。その選択が別離という答えならば、それはきっと“正しい別れ方”だと僕は思っていた。今でもそう考えている。だけど何が幸せか、何が大切かは個人の主観により異なる。そこに正しさは存在しない。
正しさとは何か。その答えを見つけられた時、世界は変わって見えるのだろうか。
僕は一歩踏み出した。いつまでも振り返ってばかりはいられないから。
いつか近しい倫理観や似た価値観を持った人に出会えるかもしれないし、全く異なる価値観を持つ人とも出逢うかもしれない。でも、その正しさが同じ方向を指していたとしたら……きっと、歩み寄る事は出来る。
そして、いつの日か……自分と愛する人が共有する、その正しさを誇りたいと思う。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!




