最終話【正しい別れ方】
優花に言われた通り、僕は自宅で彼女の到着を待っていた。
自宅でニュースを観ながら待っていると、大通りを走る救急車のサイレンが聞こえた。美月ちゃんの通う大学のある方向だ。交通事故でも起こったのだろうか。
やはり、優花一人に夜道を歩かせるべきではなかったのではないか――不安になり席を立った時、不意に家のチャイムが鳴った。
家の玄関には優花が佇んでいた。髪が濡れているように見えるのは、シャワーでも浴びて来たからだろうか。
「こんばんは、圭くん」
「う…うん、こんばんは。どうぞ、入って」
僕は優花に家へ上がるように促したが、彼女はゆっくりと首を横に振り「少し歩きたい」と言った。
◇ ◇ ◇
僕と優花は懐かしい道を歩いていた。
僕らは以前、この道を歩いた事がある。しばらく歩くと、そこには小さなバス停があり、そのバス停に乗り、しばらく行った先には通称“恋人岬”と呼ばれる自然公園がある。恋人岬といえば、静岡や新潟にあるものが有名だが、僕らの地元にある恋人岬は知る人ぞ知る……というか、殆ど観光客も訪れないような小さな自然公園だ。
恋人岬は僕らが付き合い始めて間もない頃に、デートで行った思い出の場所ではあるが、夜闇の中歩く道程は少し不気味だった。
こんな夜更けにバスが運行しているはずもなく、僕らはバス停を通り過ぎるとそのまま岬へ向って歩き続ける。
「懐かしいね、圭くん。あの頃の私達、幸せだったよね」
「……うん、そうだね。幸せだったと思う」
普段なら気恥ずかしくて「幸せだ」なんて口に出さないけど、今なら夜闇が全てを覆い隠してくれそうな気がして、その言葉はすんなりと喉を通り、世界へと解き放たれた。
「圭くんは……私を許してくれるの?」
優花と龍造寺の逢瀬を見た時、僕は二度と彼女を許せないと思った。
喫茶店で話し合った時、優花とはもう二度と分かり合えないのだと痛感した。変わってしまった彼女へ対し、気味の悪さすら感じていた。
今は……今は許せる。ただ、それは変わってしまった優花を受け入れるという意味ではなく、むしろ逆で、彼女に対して抱いていた恋愛感情を失ったからこそ、その歪みを“他人の価値観”として許容できるようになったという意味だ。
「許すよ。けど……」
僕は続く言葉を飲み込んだ。
月明かりに照らされた優花の瞳が、まるで迷子になって震える子供のように濡れていたから。
「圭くんはやっぱり優しい……本当、どうして私は……」
優花は「こんなにも汚いのかな」と続けて呟いた。
ひんやりとした夜風を頬に感じながら二人並んで歩いて行くと、徐々に磯の香りを感じ初めた。恋人岬に到着したようだ。
僕の家からこの岬までは4km弱程あったはずだが、今日はやたらに距離が短く感じた。
点々とする街灯の明かりを頼りに、僕らは想い出の場所へ進んでゆく。
「……あった! まだあったよ、圭くん」
優花がスマートフォンの明かりを頼りに探していたのは、恋愛成就を願って掛けられた絵馬で当時、高校生だった僕らが一緒に書いたものだ。
――ずっと“一緒”に居ようね。圭一・優花。
何も知らなかった僕ら。この絵馬を書いた日、優花の浮かべた心からの笑みが想起され、胸が締め付けられるな痛みを感じた。
「優花……これから君は、どうしたい?」
痛みで詰まりそうになる言葉を必死に押し出す。
もう過去に縛られる時間は終わりにしなければならない。優花や他の被害者女性達も、いずれは前を向き、それぞれの人生を歩んで行かなければならない。とても辛くて苦しいと思うけど、例え一生懸けても消せない傷を抱いたとしても、振り向いてばかりはいられないのだから……。
「私は……今でも圭くんが好き。信じてもらえないかもしれないけど、本当だよ?」
「……それは、僕とやり直したいって事?」
僕の問いに対し、首を横へ振った優花はその口元をフッと緩めた。
「ううん。たぶん圭くんは私の事、もう好きじゃないよね? だから、恋人同士じゃなくても良いの。私にとっても、圭くんは眩しすぎるから……隣じゃなくて、後ろを歩かせてほしいな」
眩しすぎる……以前、美月ちゃんにも同様の事を言われた気がする。
もしかして、僕は気が付かない内に彼女達を苦しめていたのだろうか?
「眩しいだなんて……僕はそんな大層な人間じゃないよ」
「ふふっ……圭くんは凄いよ? 優しくて強い。いつも真っ直ぐで、誰かの為に行動できる人。圭くんと一緒に居ると、やっぱり私は弱くて汚い人間だって……そう思っちゃうよ。だからね……圭くん、私を“セフレ”にしてくれないかな?」
「セッ?! な…何で……」
「圭くん、経験無いよね? 新しい恋人が出来る日に備えて、私で練習したらどうかな? セッ○スってね、凄く気持ち良いんだよ? それこそ、嫌な事を忘れられるくらい……」
優花の瞳を見つめる。濁った瞳の奥には微かな希望の光が見て取れた。
恋人以外との性行為に疑問を抱かない程、優花は変わってしまった。彼女は性行為を特別なものではなく、交友におけるコミュニケーションの一環として捉えているのだろうか?
そう考えた僕だったが、優花の言動に微かな矛盾を感じた。
優花にとって性行為が“普通”なものならば何故、彼女は自身を“汚い人間”だと卑下するのだろうか。
「優花、僕は君を汚いとか、汚れたとか……そんな風には思ってないよ」
「……でも、圭くんは私と“一緒”になってくれないんでしょ? 何で?」
「上辺だけ“一緒”を装っても、幸せになれないと思うから。歪んだまま寄り添っても、心は決して結ばれない……僕はそう思ってる」
あるいは「歪んだ」という概念ですら、僕の主観に過ぎないだろう。
何を“正しい”とするか、その是非が個人の価値観や倫理観から生まれるものならば、歪んでいるか否か、汚れたか否かですら、酷く曖昧で、受け止める人によって全く違うものになるだろう。
僕は優花を汚いとは思っていない。僕にだって汚い部分はあるし、決して高尚な人間じゃない。だけど、彼女の価値観を受け入れる事は出来なかった。
ヤリサーに染められ、龍造寺のセフレになり、先輩部員達とも乱交を繰り返し、肉○器のような扱いをされても、嬉々として快楽を受容してしまうまでに“堕ちた”優花。いや……堕とされたというべきか。
それとて僕の主観に過ぎないのだが、彼女が自身と向き合い、その行動を省みて、己を堕ちたと感じなければ……僕らは“一緒”には居られない。お互いに苦しい思いをするだけだ。
「……やっぱり、駄目かぁ。圭くんは凄いね、本当に……」
儚げに笑う優花と僕の間を生温い潮風が通り過ぎていった。
「優花、もう一度考えてみて欲しい。僕は君を否定したい訳じゃない。だけど、僕のセフレになったとして、その先に何があるの……? 仮に、僕が優花と価値観を共有できるようになったとしても、己の尊厳を捨てた僕らに残された道は、快楽を求め合うだけの浅ましい生き方になるはずだ。それは……幸せなの?」
優花は微笑んだ。
「それでも私は幸せだよ? 圭くんと一緒に居られるなら、更に堕ちるのも……だけど、圭くんは嫌なんだよね? 私と一緒に居る事よりも、自分の信念が大事なんだよね?」
もしかしたら、僕の考えは酷く傲慢なのかもしれない。
世間は優花を事件の被害者として扱うだろう。さしずめ僕はそんな彼女に寄り添う事もせず、自身の価値観や倫理観を優先する薄情な彼氏……そう思われるかもしれない。
それでも構わない。悪者になる事で、優花が前を向く切欠になるのならば、僕は喜んで憎まれ役を演じよう。それが傲慢な僕の考える“正しさ”だから。
「そうだよ。僕は優花の気持ちより自分の信念が大事なんだ。最低だろう? だから、優花。君が卑屈になる必要はないよ。僕だって汚れている……穢れた人間さ。自分が一番大事なんだ」
無言で見つめてくる優花を見つめ返し、僕は詭弁を説く。
「でも、そこから目を逸らさないで欲しい。もし少しでも自分が汚い、堕ちたと感じたのなら、諦めないで考え続けてみて。自分と相手にとって、何が一番大切なのか。どうやったら違う価値観を持つ他人同士が……それを個性として認め合い、幸せになれるかを。それを出来る人間が汚いはずがない……受け入れられない存在であるはずが無いんだ!」
月明かりに照らされた海。凪いだ水面。囁く波音。
優花は僕を見つめたまま、その瞳から大粒の涙を流していた。そして僕も……頬に涙を伝わせながらも、しっかりとその瞳を見据え、決して目を逸らさない。
どれだけ綺麗に取り繕っても、皆自分が大事なんだ。その本質は独善的で自分本位だと言える。それでも幸せになりたいのならば……相手に己の価値観を押し付けるのではなく、共に歩める道を……許容できる在り方を模索していかなければならない。
その上で別離を選択するのならば……きっと、それも“正しい別れ方”だと……僕はそう思う。
不意に優花の身体が揺れた。
優花は笑顔を浮かべたまま「ごめんなさい」と囁くと、その身体をゆっくりと傾けた。彼女の身体が転落防止柵を越え、漆黒の水面へと吸い込まれてゆく――
「優花ぁあああ――!!」
僕は手を伸ばす。あの日、掴み損ねた手を……!
確かに彼女は間違えたのかもしれないが、それは僕だって同じだ。だけど……だけど、死んでしまったら、後悔する事も出来ない。自分と向き合えないまま終わってしまう。
彼女の手を掴んだ時、その浮遊感に僕は息を呑んだ。
眼前に迫る水面。底の見えない漆黒の海は獰猛な魔物を思わせた。
意識を失ったのか、ぐったりとする優花の頭を抱えた僕は衝撃に備えて身を固くする。
永遠にも感じる刹那、迫りくる漆黒の水面。何かが浮かんでいるのが見えた――あれは岩、岩だ。浮遊物などではなく、岩肌――
「ぐっ――?!」
優花を抱えたままでは、まともに受け身を取ることも出来ず、僕は背中から岩に叩き付けられた。
強制的に肺から吐き出された息が苦悶の響きとなった。
「ぅ……っく……」
衝撃が走る。おそらく肋骨が粉砕されたのだろう。
ダメージは内臓にまで及び、四肢が千切れそうな痛みが僕の意識を刈り取ろうとする。
気を失う訳にはいかない。死なせない……僕だって死ねない。
必死に泳ぎ、ようやく見付けた浜辺へ優花を横たえると、その隣に僕も身体を預けた。
全身が怠い。頬に覚えるはずである砂の感触は脇腹の激痛に掻き消され、その痛みと倦怠感により、指一本たりとも動かす事が出来ない。
何が正しかったのか……僕にだって未だ解らない。
それでも考えて……考え続けて、いずれ後悔なく自分の天寿を全う出来た時、その時にきっと答えが解るはずだ。だから優花、君もいつか……。
――心から笑える、自分を誇れる。そんな未来を目指して生きて欲しい。
※後日談、追加しました。




