第六章 天の利地の利人の……?
『こちら12号車、現在上鷹野中央3番地、県道8号線を北上中』
覆面パトカーの車載無線機から、緊張気味の声が聞こえる。
「ホシは確認出来るか!」
後部座席の下田が怒鳴る。
『レーダーなら! 距離1200』
「こっちが追いつくまで深追いするな」
『了解!』
無線が途切れた後、下田は流れていく夜の街の景色をぼんやり眺める。
「悪霊……か」
コートの内ポケットから拳銃を取り出し、弾倉から弾丸を抜く。
鉛に薄い金属皮膜の被せられた、直径9ミリの弾丸の表面には、細かい字がびっしりと彫りつけてあった。
「こんなんで効果があるってのが、どうも分からんな」
呟いて、銃を戻す。
「下田さん、まずいですよ」
運転をしていた警官がバックミラー越しに下田を見る。
「あ? 何の事だ?」
「ホシは上鷹野中央から北上中ですよね?」
下田はぴくりと眉を動かす。
「フジシロの屋敷がある、か?」
「警察が入るのを嫌がっていますし……」
「悪霊が入るのはいいのか?」
不機嫌そうに下田が呟く。
「名目は何でもいい、捜査令状を急いで――おい! 止まれ!」
急ブレーキで覆面パトカーは停まった。
「下田さん?」
警官が振り向いた時には、もう後部座席に下田はいなかった。
「夜遊びか? 感心しねえな、さや」
「こう見えてもこの私は多忙なんですよ」
自転車を止めた清過は、作り笑いを浮かべる。
(こんな時に)
『なんだ、警察か?』
頭の中に、僧正坊の声がする。
『さっさと振り切れば良かろう』
(そうは行かないんですよ)
清過は苦笑いする。
「詮索する気はねえが」
(嘘を言っちゃいけません。あなたは私を詮索してばっかりです)
「帰れ。今すぐ」
いつになく下田の表情は険しく、口調は厳しかった。
「は、はい」
(なんか、怖いですね?)
「何かあったんですか?」
「最近の上鷹野は妙に危険だ。永埼川の殺人犯だって、まだ捕まっちゃいねえんだぞ」
(慶子さんの事件、か)
「はいはい、分かりました。ちゃんと帰りますから心配しないで下さい」
「20分後に家に確認の電話するぞ」
「ちゃんと帰りますよ! 妙な事しないで下さい」
「絶対だぞ!」
下田はそれだけ言って、覆面パトカーに戻って行った。
「警官にマークされおって、迂闊だぞ」
僧正坊が、清過の影から顔だけ出して尋ねる。
「このまま放っておいては、後々禍根になりかねん。排除を勧めるぞ」
「そんな事したら捕まっちゃいますよ」
「暴力だけが手でもあるまい。杉田に任せればいい。あれはそういう事のプロだ」
「慶子さんに汚れ仕事なんかさせませんよ。それに、別に下田さんをどうこうしようって気もありません」
「使うべきを使うは、頭目の器量ぞ」
「自分で汗をかかないトップは認められませんよ」
「……ならば何故、兄の方に人が従った」
「私は一人っ子ですよ、誰の話ですか」
清過が言った時、覆面パトカーのドアが開き下田がまた出てきた。
僧正坊は影に戻る。
「これ持ってろ!」
下田は清過に何かを手渡した。
「さっさと帰れよ!」
それから彼は全力で覆面パトカーに戻り、走り去った。
清過の手には、交通安全のお守りが握られていた。
「……厄除けとか、そういうのじゃないんですか」
「気が利かんな」
「部外者、うるさいです」
自分のマンションで、慶子は明かりを消して机に向かう。
左目に、白鷺の姿にした十二の式からの映像が映し出される。
悪霊が屋根の上を飛び、大きな屋敷に向け逃げていく。そのすぐ後を、愚釈が飛ぶように走る。
愚釈と協働のパトロールだった。
本体が弱点である慶子は式を使い、愚釈と同行はしない。
逃げながら、悪霊が気を放つ。
細く鋭い気が、周囲のビルに当たり、ガラスが砕け落ちる。
「うげ、在宅ワークで良かった」
愚釈は、降り注ぐガラスの下をたじろぐ事もなく進む。小さい破片は、周囲に張り巡らせた強烈な気と使霊の防御で弾き、大きな破片は刺さるに任せている。
突き刺さったガラスの破片はすぐに抜け落ちる。肉は切れるが、気は全く傷付いていない為、傷はすぐに塞がる。
「天人……だっけ、チート転生者かよ」
抵抗が役に立たないと悟ったのか、悪霊は逃げる事に専念し、走る。
「……わたしにもっと、力があれば」
『杉田!』
愚釈が怒鳴る。
悪霊は屋敷の敷地に飛び込む。
直後。
『気を付けろ、妙な結界が出た!』
言いながら、愚釈は躊躇いもせず塀を乗り越えた。
十二の式が塀の内側に入る。
「む?」
慶子は左目をこする。
送られて来る映像に、ノイズが混じる。
「結界……? にしちゃあ、なんか、おかしい? どっかで同じような事、あった気が」
悪霊は屋敷を通り抜け、反対側の塀を乗り越えようとする。
だが、塀の近くまで来て、弾き飛ばされる。
塀の下に、ずらりと機械装置が並べられていた。
「あれは……」
『……発信用アンテナじゃな。気の波長に近い電磁波を出し、霊を弾き返すバリアを形成しておる』
「そうか……米軍キャンプの結界もあんなだった気がする」
『恐らくそうじゃろ。仕掛けは大げさじゃが、効果は並といったところか』
「普通の結界張れば良いのに」
『そうじゃな。拙僧がガチれば、2億倍ぐらいのものになる』
「隙あらば自分語りウザい」
『新興企業は霊能者にパイプがないんじゃろな。IT企業のヒルズ族なんてのも、同じクチであっという間に呪われて失脚したからな』
「例えが古いよ、あんたいくつだよ?」
『17歳じゃが?』
「突っ込まんぞ」
黒いスーツ姿の男たちと、番犬が出て来る。
皆、サングラスをかけ、手には日本刀を抜き身で提げている。
「私設軍隊かな」
彼らは逃げられずにいる悪霊に斬りかかる。
『にしては、おかしいのお』
「何が?」
『あの日本刀、なまくらじゃ。気の凝集率が低すぎる』
確かに、通常刃に凝縮されている筈の気が、どこかぼんやりとしていた。
『あれでは、多少痛めつける事は出来るじゃろうが、断つ事は出来ん。悪霊の侵入後に作動させたバリアと言い、ここの社長』
「ひょっとして?」
『悪霊の捕獲が目的じゃな』
『あら、ご名答』
「愚釈!」
愚釈の背後には、パジャマに半纏を羽織った20代後半ぐらいの年齢の男が、突っ掛け姿で立っていた。
現れた男は、平々凡々とした優しげな顔立ちだが、どことなく目つきにただならぬ気配と隙のなさがある。
傍らには、ボディーガードなのか、スーツ姿の男がいる。茶色い肌、短くちぢれた黒髪、黒い瞳、背は高く、肩幅の広い、アフリカ系黒人だった。
「神奈川にあの愚釈さんが定住してるって噂は耳にしてたけど、本当にお目にかかれるなんて、光栄だわ」
「こちらこそ、名前を覚えていて頂けるとは、光栄じゃ」
黒スーツ達は未だに悪霊に攻撃を仕掛けているが、宙に浮かんでいる為、制圧までは出来ていない。
「鳥さんも可愛いわね、愚釈さんの式神さんか何か?」
「いや、これは拙僧とは全く関係のない、血塗られて穢れ切った別人の技じゃ」
『喧嘩売ってんのか!』
式越しに慶子が怒鳴る。
「わたくしは、藤代正次。オフィス機器販売のフジシロコーポレーションの代表取締役社長よ」
「あー、神奈川新聞でたまに見かけるような……」
悪霊はバリアに突っ込む。激しい抵抗はあるものの、悪霊の身体は僅かづつバリアを抜けようとしている。
「ね? 良かったら、わたくしに手を貸して下さいません? 報酬は、そうね」
正次は少し小首を傾げてから、納得したように頷く。その仕草は、女を演じている男というよりは、女そのものだった。
「お夜食を御馳走させていただくわ。近くにおいしいラーメン屋、あるのよ」
『あー、知ってる、平沢屋でしょ?』
「そっ、鳥さんはお酒どう? おつまみメニューも豊富だから、ビールもおいしいわよ」
「こいつは未成年の上に、ただの折紙じゃ。代わりに拙僧が頂こう」
『な! このクソ坊主!』
「ふふ、お会いしたらちゃんと奢るわ。そうだ、割引券持って帰る?」
『あるの?』
「ご近所のよしみで、無期限の半額券が冊子でいっぱい」
『おおっ! だったら清過と行けるな……』
「じゃ、やらせて貰うかなっ!」
愚釈は錫丈を構え、走る。人間の視覚限界を超えたスピードで、バリアもものともせず、塀を駆け上がる。
「はああああっ!」
気が集中した錫丈が、ぼんやりと発光する。
勢いを一切止める事なく、今正にバリアを抜けようとしていた悪霊を、錫丈で叩き落とした。
落ちた悪霊に、十二の式が飛びかかり、首をがっちりとくわえる。
そこへ、スーツの男達がわっと飛びかかり、刃引きした日本刀で滅多打ちにする。
打たれまくり、気を大量に失った悪霊は動く事が出来ない。
「ルット、封印を」
「はい」
先ほどから傍らにいた黒人のボディーガード、ルットことルトアビブ・ボンバルダは、比較的流暢な日本語で返事をする。
ルトアビブは、素早い動きで悪霊に近付くと、呪の掘られた針を次々に突き刺していく。頭頂から足の先まで、合計108箇所刺すと、悪霊は完全に動かなくなった。
「急いで! 早く封じないと消滅するわ!」
正次が怒鳴る。
ルトアビブは呪符越しに悪霊を持とうとする。
「急ぐなら、拙僧が運ぼう」
愚釈は、素手で悪霊を抱きかかえる。
「そ、そんなコトをしたら、とりつかれます!」
「悪霊より気が強ければ、喰われはせん」
「こっちよ!」
慶子の十二の式と愚釈は、正次に案内されるまま、屋敷の地下へと走って行った。
翌日の放課後、慶子と清過は割引券を貰ったラーメン屋に来ていた。
カウンターが7席、テーブル席が4席の、比較的広々とした店だった。2人はカウンター席に座っており、他の客はいない。
「――昨日はごめんなさい。下田さんに捕まっちゃって、結局パトロールに参加出来なくて」
モヤシチャーシュー麺――太さ、固さ普通、油多め――を、清過が食べる。
特定の人間以外の認知領域外に出ている僧正坊が、宙に浮きながら大盛りつけ麺をすする。こざっぱりした柄シャツにチノパンツ姿が似合っていない。
「いや、警察に怪しまれなかったならそれで良いって」
慶子はネギ玉味噌ラーメン――太さ太め、固さ固め、油少なめ――を食べる。
「なんなら……どうにかしようか? あの刑事」
「そういう事は気にしないで良いですよ」
「まあ、そうだよね……それより、ちょっと面白い事になってるよ」
「面白い事ですか?」
大きく柔らかいチャーシューを、清過は半分噛み切る。
「うん。割引券と話が繋がるんだけどね」
慶子はメンマと麺を一緒に食べる。
「もうじきじゃないかな」
店のドアが開く。
「あー、来た来た」
薄い色のサングラスをかけたルトアビブが入って来た。
「この娘がわたしたちのボスの清過だよ」
「はじめまして、サヤカさん。ルトアビブ・ボンバルダです。ルットとおよびください」
「はじめまして――慶子さん、この方は?」
「お仲間候補」
ネギをレンゲに集めながら、慶子が答える。
「杉田、党首の許可なく仲間を引き入れたのか?」
僧正坊は渋い顔をする。
「しかもこんな、霊力のほとんど感じられない木偶の坊を?」
「あんしんしてください」
ルトアビブは笑う。
「ワタシは、ボディガードです」
「ルット、この天狗見えるの?」
「見えないように術を使ってらっしゃるのに」
「フジシロ・カンパニーをあまくみてはいけませーん」
「……実体を消しているだけだ、本気で隠れ蓑を使えばお前らにも見えんぞ」
「分かってますから」
「これです」
ルトアビブはサングラスを外し、照明にかざす。
無地に見えたガラスは、無数の幾何学模様の影を作った。
「低級の見の符だな」
僧正坊は呟く。
「レイシメガネです。これでワタシにも、ぼんやり見えます」
ルトアビブはサングラスをかけなおした。
「不便なもんだね、そんなの使わないと見れないんだから」
「ん? 杉田、汝とて――」
言いかけて、僧正坊は言葉を切った。
「ふはー、食べた、食べた、ご馳走様でした」
「うん、これで650円、割引券で300円は安いや」
「少々薄味だな」
ラーメンを食べ終えた清過達は、支払いを終え、店を出る。
「ミナさん。クルマへどうぞ」
ルトアビブは自然な動きで自動車のドアを開ける。
「うわー、豪華な車ですねぇ」
「クラウン如きでそんなにはしゃがないの!」
5分も走らないうちに、自動車は正次の屋敷へ到着した。
「こちらです」
男の使用人に案内され、慶子たちが通されたのは、豪奢な応接室だった。
天井には天井画、照明はシャンデリア、壁には様々な絵や織物。どっしりとした木製のテーブルに、床はグラスを落としても絶対割れなそうな毛足の長い絨毯。
そして、テーブルの向こうには、正次が座っている。部屋の中に、ボディーガードが隠れているというような気配はない。
「よくいらっしゃいました、杉田さん。よく考えると初対面かしら?」
「そだね、昨日は式越しと、電話越しだったしね」
「それから」
正次は清過にお辞儀をする。
「来ていただいて嬉しいですわ、伊能さん」
「こんにちは、ええとお名前は?」
「フジシロ・カンパニー代表取締役、藤代正次ですわ」
正次は優美な笑みを浮かべる。
使用人が紅茶を淹れ、出て行く。
「あなた方には、わたくしとても興味を持ちましたわ」
「……慶子さん、事情がやっぱり呑み込めないんですけど?」
「昨日、悪霊を追っかけてたんだけど、この屋敷に逃げ混んでね。協力して悪霊を捕まえたのよ」
「え?」
清過は首を傾げる。
「この方からは特別な力は全然感じられませんよ?」
「お金の力があるとね、ある程度の事は出来るものよ」
「でしたら、私たちにそれほど御用があるとは思えませんけど……」
「そうでもないわ。コストが段違いなのよ。それに、状況も少々変わって来てるみたいなの」
ルトアビブが部屋に入って来る。
「ヨウイできました」
「ありがと、ルット――皆さんもこちらへ」
清過たちは応接室から出ると、屋敷の奥へ続く廊下を歩く。
突き当たりの扉を開くと、エレベーターになっていた。
「会社を経営していると、霊的な妨害を受ける事も多いの。1、2年前にも、うちの貸しビルが1つ焼かれたわ」
「ただの放火じゃないんですか?」
「それにしては、痕跡がなさ過ぎるのよ」
「フジシロ……ビル……」
慶子の顔色が僅かに変わる。
「まあ、暴力団傘下の半グレに貸して、予め火災保険たっぷりかけてたお陰で、収支はプラスだったけどね」
「い、いやぁ、流石だね、藤代さん、流石新進気鋭の成長企業っ!」
「慶子さん、太鼓持ちみたいになってますよ?」
「そんな事ないよほ?」
エレベーターは止まり、扉が開く。
「フジシロ・コーポレーションはわたくしが父から独立して1から築いた会社のせいか、歴史のある企業なら慣習の名で行っている、霊的防衛力が欠けているの」
地下であるのにかなり豪奢な廊下を歩く。
「だから、あなたたち伊能党と組んで、霊的防衛のノウハウを教わる事は、企業体力の向上になるって訳」
「私たちへの見返りは、具体的に言ってどうなりますか?」
「清過、具体的なんて言葉知ってんだ?」
「知ってますよ。えへん」
「ある程度の表の戦力と、資金、それから、表世界の情報。霊関係は愚釈さんの方が遙かに詳しいでしょうから、専らブラックマーケット系かしら。いわゆるお仲間としての常識的な範囲の協力ね」
廊下の突き当たりには、重厚な扉があった。
「開けて、ルット」
「はい」
ルトアビブの虹彩認証で、電子制御の扉が開かれた。
薄暗い部屋の中には、魔法陣が描かれ、その中に霊魂が蠢いていた。
「ありゃら、悪霊さんが生のままで捕まってますねぇ」
「生言うな」
「昨日わたくしの敷地に入って来た悪霊は、配置された防衛システムにかなり奇跡的に引っかかったの」
「その時に、なし崩しで協力したのがわたしと愚釈」
「ふーん」
清過は魔法陣越しに霊魂を眺める。
「やけにはっきり見えますねぇ」
「魔法陣に可視の梵字が入れてあるのよ。霊力のないわたくしでも見られるようにね」
「もしもし?」
清過は悪霊に声をかけてから、首を傾げる。
「喋りませんねぇ、この悪霊さん。拷問でもしましょうか?」
「すなすな。愚釈が言ってたけど、どうやったって喋らないって」
「そう、芦屋とは違う術式で加工されてるそうよ」
「藤代さん、それをやった霊能者さんと組もうとは思わなかったんですか?」
「近場にあの愚釈さんがいらっしゃるのに?」
「なあるほど」
じっと清過は悪霊を見つめる。
「――この悪霊さん、どうするおつもりですか?」
「分析しようと思うわ。色々」
「後でちゃんと往生させてあげて下さいね?」
「そのつもりよ」
「では」
清過は小さく頷いて、手を差し出した。
「よろしくお願いします。伊能党党首、伊能清過です」
「フジシロ・コーポレーション会長の藤代正次よ」
2人はがっしりと握手をした。
「あ、そうそう、僧正坊さんもご紹介しないといけませんね」
影から一瞬にして僧正坊が現れた。
「多財餓鬼でもいないよりはマシだろう」
「あ、あなたはどなた?」
正次は後じさりし、ルトアビブが一瞬のうちに間に入る。
「ふふん、今度は霊視ゴーグルとやらでも気付かんかったな」
僧正坊は自慢げにルトアビブに笑いかける。
「……変わった術を使うのね、伊能さん?」
「別に術じゃないですよ。私の魅力にクラクラ来ただけの天狗さんです」
「ふ・ざ・け・る・な。誰が修羅如きに」
「天狗――?」
正次の目の色が変わる。
「あなた天狗様なの?」
「いちいち確認をするな。この阿呆が」
「――嘘でしょ?」
「何故嘘を言わねばならん!」
「だって、天狗様がいるなら、この辺の支配なんてあっという間じゃない?」
僧正坊はふん、と鼻を鳴らす。
「知りたければ――」
「天狗さんって強いですから、人間の戦争なんかに手を貸すと一瞬で終わっちゃうんですよ。でも、天狗さんの価値観もそれぞれ、相手方にも天狗さんが付く事があるじゃないですか」
「ああ、核戦争みたいなもんね?」
「そう。それに天狗さんって要するに仙人さんですから、死なないんですよ」
「こら、我が今説明を――」
だが、僧正坊の言葉は遮られる。
「だから天狗さん同士で喧嘩をしちゃうと、いがみ合ったまま永遠に生き続ける事になるでしょう?」
「それは嫌ね」
「それを防ぐために、天狗さんたちの間でルールが決まってるそうですよ。自分のテリトリー以外では人を殺さない事、術兵器『宝貝』をみだりに人間に貸さない事、とかですね」
「我に話をさせろ、伊能!」
とうとう僧正坊は怒鳴った。
「結構よ。大体の所は分かったわ」
正次は笑う。
「あなたが本物でも偽物でも、全然役に立たないって事がね」
「上手いこと言いますねー」
「……伊能」
清過たちの騒ぎを見ながら、慶子は肩をすくめて、ほんの少し寂しげに苦笑いをした。
広く暗い室内の中央に清過が立つ。
その前後左右は、屈強そうな男4名に囲まれていた。彼らの手には拳銃が握られている。
「ふっ!」
清過は真っ直ぐ真正面の男に突っ込んでいく。
銃声が響き渡った。
だが、四方から飛んで来る弾丸は、清過の影をかすめただけだった。
第2射の引き金を引こうとした男の喉に、既に清過の手は届いていた。相撲で言う喉輪を決めたまま、壁に叩き付ける。
3方向から来る第2射の弾丸を、清過は昏倒させた男の身体で受け止める。
男たちが昏倒した男に気を取られた瞬間、もう1人が清過の拳を顔面に受け、そのまま気絶する。
残った2人は十字射撃を行うが、清過はそれを確実にかわし、もう1人の首に手刀を当てて落とす。
最後の1人は拳銃を捨て、拳を構える。
清過は殴り掛かってくる彼を軽やかなステップでかわし、身体が泳いだ男の背中に肘打ちを当てたまま倒れ込んだ。
「!!」
うつ伏せに倒れた男が清過をはね上げようとしたが、背骨を軽く押さえられただけで動けなくなっていた。
「はい、これでチェックメイトですね」
清過は立ち上がった。
「つよいですね、サヤカさん。うごきはタンジュンなのに、あたらないし、よけられません」
押さえられていた男――ルトアビブが起き上がる。他の者達も、愚釈の手当で意識を取り戻し、起き上がる。
正次の屋敷の地下にある体育館だった。
床には、壁に弾き返されたゴム弾が転がっている。
「ルットさん、鉄砲を使うか、拳を使うか決めておいた方がいいですよ」
「でも、フレキシブルなたたかいのためには、イロイロなセンポウがひつようではありませんか?」
「2丁拳銃よりも、ライフルの方が強いですよ」
清過の額には、汗一筋流れていなかった。
「理屈で言えば、気の集中という事じゃがな」
愚釈が指先に気を集めて光らせて見せる。
「霊は魂。魂は気。気は物質的存在ではないから、気によってしか削る事はできん。日本刀に代表される、気を効率良く使う武器もあるにはあるが、まずはこれで相手を確実に打ち倒せるという確信を持つ事じゃな」
「それじゃ、今度は本物の悪霊さんと戦って貰いますよ」
清過は影から1体の使霊を出した。
ルトアビブたちは霊視ゴーグルをかけ、戦闘態勢に入った。
「どう思いますか、愚釈さん?」
戦うルトアビブたちを眺めながら、清過は愚釈に尋ねる。
「アフリカ内戦で鳴らした歴戦の傭兵というのもダテではなさそうじゃが、それを簡単にあしらう伊能殿が凄いのう」
「私に言わせると、実戦経験が足りませんよ。気を隠しませんから次の攻撃が丸分かりです」
「気で先読みし合う戦いは、ちと難しいじゃろなぁ」
清過と愚釈が話しているところに、慶子が入って来た。
「清過、やっぱりここにいた!」
「どしたの?」
「学校行くよ、学校!」
「え?」
「今日は校内模試でしょうが! さっさと来なさい!」
「あっ、すっかり忘れてました」
模擬試験が終わり、清過は慶子を含めた同級生たちと、コーヒーショップに来ていた。
「ふーむ、タワーの正位置だね」
慶子が狭いテーブルにタロット広げる。
「ねーねー、杉田さん、それってどういう意味?」
占われながら、興味深げに仁科恵が尋ねる。
「人間の不遜や奢りの象徴。要するに、あんまり調子に乗っていると足もとをすくわれるよ、って感じだね」
「えーと、この場合だと?」
「1度冷静になって考えろ」
「えーっ、でもでも、冷静だなんて。燃え上がる熱い思いって奴がぐつぐつ言ってるうちに、子供でも何でも作って結婚しちゃうとか――」
「脳が沸いてんのか、あんたは」
慶子は苦笑する。
「子供は暮らしの当てが出来てからにしないとえらい事になるっつーの」
「だーってぇ。絶対結婚してくれるよぉ」
「結果はどうあれ、その過程に問題があると、後々禍根になんだよ」
「うーん、いい事言いますねぇ」
清過は感心した風に頷きながら、恵の背中に掴まっている脳の欠落した子供の悪霊を引き剥がして砕く。
砕かれた悪霊は、一塊の清浄な気に戻り、周囲の分裂したばかりの細菌に少々、残りは近くを通った妊婦の腹に入り込んでいった。
「もう少し何か占う? 恋愛占いって正直あんまり気が乗らないんだよね。受験とかは?」
「ん、いいや。ありがと」
恵はじっと慶子の顔を見る。
「――なに?」
「なんか、杉田さん変わったなって思って」
「ど、どこが?」
「付き合い難くなった」
「え?」
「初めて合った時の杉田さんって、明るくて誰とでもすぐに仲良しになれる感じだったけど、今は不機嫌な時も結構あって、嫌いな相手もはっきりさせてる気がする」
「あはは、悪い方向に変わってますねぇ」
心から楽しげに清過は笑う。
「清過」
「ふふ、さっちゃんも別に悪いって言ってるんじゃないよ」
他の同級生たち頷く。
「杉田さんが何が嫌いで何が好きなのか、ちゃんと分かって、ちょっと安心」
「ふーん。そう」
タロットカードをまとめながら、慶子は笑う。嬉しげでありながら、どこか泣き顔のような笑顔だった。
マンションの玄関口に、地区担当の警官が来ていた。
「木藤出流、それから、杉田慶子、ええ、字はそれで合ってます。関係はこの子の母親の姉が私という事で。両親が事故で亡くなったので、引き取って育ててます」
伯母の木藤出流が答える。
慶子は傍らから、興味深げに警官を眺める。
「はい。では、お仕事は?」
「契約社員です。社名は共和ワークス株式会社」
「姪御さんは学生さん?」
「はい、高校2年です」
警官は調査票への記入を終える。
「では質問は以上です、ありがとうございました」
警官は敬礼する。
「最近はそれほど大きな事件はありませんが、まだ例の永埼川の殺人事件の犯人も捕まっていませんので、戸締まりには気を付けて下さい」
「はい、お疲れ様です」
「お疲れ様ー」
警官は再び敬礼して、立ち去った。
慶子はドアを閉め、チェーンロックをかける。
それから、出流をまじまじと眺める。
「……忘れ物で戻って来られると厄介だし、ちょっと、置いとくか」
出流は部屋の隅で膝を抱え、動かなくなる。
「よし……」
慶子は自分の部屋に戻り、勉強机に向かう。
「あー、そうか」
それから、立ち上がり、ベッドの上に放り出されていたバッグを取り、中からプリントを出す。
進路指導の三者面談の知らせだった。
「……顔出させないと、妙な噂にもなるかもだけど、流石にあんまり長時間だとバレるよね」
ため息をついて、卓上カレンダーに印を付ける。
「あー、早く成人して」
呟いて、出流に視線を向ける。
「正式に死んだ事にしたいなぁ……」
同時に、出流は折紙のヤッコに戻り、一瞬で燃え尽きた。
慶子は貸倉庫の扉を開け、明かりを点ける。
紙用の幅の狭い棚に、1枚づつに広げられた折紙がぎっしりと並んでいる。
慶子はこれを端から集めると、倉庫の隅に置かれた机の傍らの椅子に座る。
それから、カッターと定規で1枚づつ辺を切り揃え、完全な正方形にしていく。
200枚程切ったところで。
「精が出るな」
背後から声をかけられ、慶子はびくり、と肩を震わせ振り向く。
僧正坊が、プカプカと浮かんでいた。
「な、覗き?」
「竜脈を泳ぐのは天狗の娯楽の1つだ。流れに任せて竜穴から飛び出した時に、知り合いがいれば声ぐらいかけるだろう。一応は知らん仲でもなし」
「……人間なんかに興味なんかあったの、あんた」
「なくなったら、宇宙の中心のダンスパーティにでも参加するつもりだ。フルート奏者の演奏がなかなかイカしていてな」
「宇宙的恐怖に陥りそうな大層なご趣味で」
慶子は再び折紙を整形しようとして、手を止める。
「……ねえ、僧正坊」
「なんだ」
「……もっと強くなる方法、ないかな」
「置く時間を2倍にすれば、溜まる気も2割り増しぐらいにはなるだろう。そうすればパワーもスピードも増す」
当たり前のように僧正坊は答える。
「いや、四方式の話じゃなくて」
「ん?」
「霊力の事だよ」
「霊力?」
「わたし、あんまし気の力、ないじゃん。霊もあんまりはっきり見えないし、声も曖昧にしか聞こえないし。それに、強い気喰らうとすぐに具合悪くなるし。そういう基礎能力の部分を高めたいな、って、ちょっと思ったりなんかして」
「無理だ」
僧正坊は即答する。
「ちったあ考えてから返事しろよ!」
「何を考える必要がある。霊識者でない人間が、今生で鍛えたからと言って、霊識者になれないのは常識だろう」
「……は?」
間が空く。
「霊識者じゃない?」
「うむ」
「ミー?」
「ユー」
「……嫌味言われる筋合いないんだけど」
「ん? 事実だが?」
「何も術式を使わずに霊や気を感知出来る、これが霊識者の条件でしょ? それとも他に何かあるの?」
「見えておらんではないか」
「こんな見え方じゃ見えてるうちに入らないっての?」
「いや、そうではなくて」
僧正坊の方が、不思議そうな顔をする。
「お前の左目の水晶体に刻まれた呪は、警察の見の符と全く同じものだろう」
「え……」
慶子は左目に手を当てる。
「目や耳にそういう手術を施す闇医者がこの近辺にも何人かいる。元々の視力や聴力が落ちたりなくなったりするから、見える人間がやる訳もなし」
「って……わたしは」
「霊能者だな。体系的に術を学んだ訳ではないから、もっと言うと、単なる『折紙を折るのが超上手い人』だ」
「じゃあ、霊識者になるには」
「2、300回魂の形をそこそこ壊さずに転生を続ければ、阿頼耶識も多少はっきりしてくるかも知れん。その先、もう1000回も続けて魂の扱い方を習得出来れば天人級、そこから悟りに達して自分自身の魂を含めてゼロから再構成出来るようになると天狗だ」
「だ、だったら、あんた、わたしの魂を霊識者に作り替えてよ! 出来るって事でしょ!」
「それは死んで転生するのと同じ事だ。外から見たら同じでも今の記憶も人格もなくなるぞ。喩えるなら、RAMの中身を残したままで、マザーボードの交換をしろと言っているようなものだ」
「訳の分からん喩えを使うな!」
「かなり分かり易いつもりなんだが」
慶子はカッターをぎゅっと握り締める。左目に手の気が映る。微弱な、常人同様の気。
「お、おい、そこまで落ち込む事でもなかろう。四方式はその弱さ故に目立たん。お前が伊能党の戦力で、清過が信頼しておる事は変わらんのだ」
「あ、あはは、そんなに落ち込んだように見えた? 節穴だね、あんたの目も」
「……うむ」
僧正坊は気まずそうに頷く。
「滅多な考えを起こすなよ。お前に何かあると……清過が怒る」
「余計な心配大きなお世話だよ」
慶子は再び、折紙を正方形に切り直し始める。1分ほどその様子を眺めていた僧正坊は、竜脈を巻き付け姿を消した。
僧正坊がいなくなった後、慶子は切り終えた折紙を明かりに透かす。
「……ずれてる」
慶子は傍らのゴミ箱に、切り損ねた折紙の束を捨てた。