第三章 京都にて
署に戻った下田は、自分の椅子にだらりと腰掛ける。
「夜勤、お疲れ様です」
若い刑事が、茶を出す。
「あー、すまねえ、吉住」
下田は茶を1口飲む。
「何か霊、出ました?」
興味深げに若い刑事が尋ねる。
「無駄な仕事の方が疲れらぁな」
「ま、いいことじゃないですか」
「べけーろぃ。少な過ぎんだよ」
「どっかの慈悲深い霊識者が霊を往生させて廻ってるとか?」
「けっ、霊識者なんてのは、悪霊を将棋の駒ぐらいにしか見てねえ。使霊にして使い潰すだけだ。どんな綺麗事言ったって、頭丸めてたってな」
「ああ、去年の米軍キャンプの?」
「ふん」
「あれ、愚釈だって噂じゃないですか。よく喧嘩売って無事でしたね?」
「気が衰弱して3日寝込むのを無事とは言わん」
忌々しげに呟いて、下田は電子煙草をくわえる。
「何があるんだかさっぱりだ。最近、霊識者たちの縄張りが変わってやがる」
「こういう時には、妙なとこに悪霊を取りこぼしたりするんですよね」
「さやのヤツ、こんな事情にも気付かねえで、夜遊びなんかしてやがんだろうなぁ」
電子煙草の吸い口を噛みしめる。
「……そーいや、今修学旅行中だったっけかな」
「紅葉良いですよね」
「今年はまだだよ」
京都の旅館に、清過達、藍川高校2年生は宿泊する。
「――へえ、四谷君をねえ」
「あんた相当な物好きねぇ」
「あら、あの方、ここ一番の時は凄く――」
消灯時間が過ぎた後も、清過たちは布団で寝転んだまま取り留めもない話をする。
「清過は好きな人いるの? ラブの方ね、ラヴの」
恵が尋ねる。もう大分声が眠そうになっている。
「いっ!?」
慶子がびくり、頭を動かす。
「そうですね……特にいませんけど」
「だ、だよね」
「またまたー」
「じゃあ、さー、ふぁああ」
その時、部屋の戸がノックされた。
清過達は一斉に寝たふりをする。
「話し声が聞こえたぞ、いつまでも起きてるな。寝不足でフラついてたら1日救護室だぞ」
教師が声をかけ、そして、戸口に腰掛ける。
「寝たフリは無駄だぞ、寝るまでここから動かんからなー」
あちこちから寝息が聞こえ始める。
教師はまだ立ち去らない。
それから5分経っても10分経っても、教師は動かない。
生徒たちは、ほぼ全員が本当に眠りについていた。
それでも教師は動かない。
痺れを切らした慶子が、顔を教師に向ける。
「え」
教師のいるはずの場所には、教師と同じ姿勢で座って、気配だけを出している、清過の使霊の姿があった。
「ええっ!?」
清過の布団は、別の使霊が入っていた。
慶子は布団にもぐり込み、右目を閉じる。
『二の式付けといて良かった、か?』
旅館から抜け出した清過は、暗闇の京都の街を走る。
(何年ぶりでしょう)
中心部を抜け、線路を走り、山へ迫っていく。
山の陰の先に、鳥居とそれに続く長い階段が見えて来た。
夜空に浮かぶ山は、星空を遮る黒い影にしか見えない。その中腹に、ぽつりと明かりがあった。
清過は走る速度を弛め、鳥居をくぐる。
傍らの石柱には「雅矢射宮」の文字が刻まれていた。
(雅矢射……万葉仮名の『あしや』。わざと読めなくしてありますね)
清過は長い石段を登る。
登りながら、呼吸を整えている。
手入れの行き届いた石段は、半月の月明かりにぼんやりと照らされていた。
(あの時、逃げる事しかできなかった)
梟とも鳩とも取られる鳥の鳴き声が、木々の間から聞こえていた。
夜風が吹き抜けていく。
階段が終わり、もう1つの鳥居を通ると、境内に大きな社が見えた。
(……でも、今なら)
「道にでも迷われましたか?」
本宅の玄関で、神主風の装束の老いた男が訝しげに清過を見る。
清過の背中に付いていた蝶が、影を伝ってより影の濃い天井に張り付いた。
「この前は、用事の最中で帰ってしまって申し訳ありませんでした。改めて、お会いしたいと思いまして」
清過は深く頭を下げる。
「この前――?」
「――君のような綺麗なお嬢さんを」
廊下の向こうから、着物の寝間着姿の男が歩いて来る。
「忘れる筈がないのだけれどね」
その美しい容貌と、抑えていながらも伝わって来る強大な気の流れ。それは1片の違和感もなく調和していた。
「暁人様」
「柏崎、下がって良いぞ」
「はっ」
老いた男が奥へ下がる。
清過の表情から笑みが消えていく。
「いつのお話かな?」
にこやかに男――芦屋暁人が尋ねる。
「11年前の……3月でしたよ」
清過の声に、僅かな震えが混じる。
「11年――でしたら、あなたが相当小さい頃?」
「小学校に上がる前です」
「小学生――ああ」
暁人は少し首を傾げていたが、ぽんと手を打った。
「変なものが見えてるみたいですって、ご両親が真っ青な顔して連れて来た女の子」
暁人はうつむいたまま呟き始めた。
「せっかく見えなくなるように『祓って』あげようとしたのに、逃げちゃったんだよねぇ」
気が膨らみ始める。
「いけないなぁ、パパとママに迷惑をかけちゃ」
「あなたに」
清過は中段に構える。
「勝ちに来ました」
瞬間。
「が」
暁人が間合いを詰めた。
清過は思い切り踏み込んで間合いを取る。かわす、というより逃げる踏み込み。
「なりふり構わず逃げる、か。良い勘をしてる。でも、その勘は、ここに来る前に働かせるべきだったね」
だらりと下げた暁人の拳に、気と使霊がまとわりつき始める。
暁人の拳に膨大な気が溜まり凝縮され、まるで暁人自身の拳が巨大化しているようだった。
「上手く避けないとお煎餅になっちゃうよ」
「くっ!」
清過は使霊を暁人の影に入れようとする。
「鈍い」
近寄る使霊を、暁人は腕の一閃で砕き散らす。
「本当に呆れたものだ」
「ちっ!」
清過は暁人が使霊に気を取られた一瞬の隙に賭け、左の正拳を繰り出す。
「鈍い鈍い!」
暁人は清過の拳を、ほんの少し身をよじっただけでたやすくかわす。
「ただの修羅がっ」
続けざまに清過が繰り出した右回し蹴りも、難なくかわす。
「10年やそこら修行したところで」
清過の脇腹を、暁人の拳が砕いた。
「がはっ!」
「修羅王に勝てる訳がないだろう?」
間合いを開こうとして玄関の外に出た清過を、暁人はそれ以上の速さで追い、右側の肋にも拳を繰り出す。
防ごうとした清過の右肘がへし折れた。
「まあ戦を避けられないのが、修羅の性だけどね!」
清過の首を暁人の手が掴もうとする。一瞬早く、清過は左手を突っ込み首の締まるのを止める。だが、暁人は清過の指先もろとも首を握り持ち上げた。
「思い出して来たよ。君は、僕の指を怪我させて逃げ出したんだよね」
暁人の形相は憤怒に歪んでいた。
「よくも傷を付けてくれたね。ええ? 痛かったよ? ああ、ものすごく痛かったとも。素直に『お祓い』を受けていれば、その半端な力と心を完全に封じて、平穏な人生を歩ませてあげたのに」
暁人の手に力が入っている。清過の指先が悲鳴を上げ、首の骨がきしむ。
暁人の手を首から振り解こうと指にどんなに力を入れても、まるで万力で押さえ付けられているように、ぴくりとも動かなかった。
暁人は赤黒くなっていく清過の顔を見つめる。
「――これは」
暁人の細く長い指が、清過の額に触れる。
「文字が魂に刻んであるね。形式は古いが、信じられない程緻密な紋だ」
「ぐ!」
「これは何か、って訊いてるんだけど? あはは、首が締まってて答えられないか」
暁人の指が一閃する。
「じゃあいいや」
清過の額が裂け、血が溢れ、鼻の脇を通って流れ落ちる。
「お?」
清過の気が膨れ上がる。暁人には及ばないまでも、相当な量と圧の気だった。
「気を隠す印か」
話しながらも、暁人に隙はない。
「賢しいねぇ。影に隠してあるそのちょっぴりの使霊で、僕の隙を突こうとしたのかい? でも印がなくなった今、それも奇襲としての意味がないよ」
暁人の指先に力がこもる。清過は首の間に入れた指で、必死になって抵抗する。
「力だけはあるね。だったら」
暁人は清過の首を絞めたまま、懐に手を突っ込んだ。
その一瞬、暁人の両手は塞がり、注意が清過から外れた。
清過は折れた右腕で暁人の脇腹を殴りつけ、同時に膝打ちで暁人の鳩尾を狙う。
「そんな攻撃予想していなかったと――」
暁人が懐から長い針を引き抜きざま、清過の攻撃をかわそうとした瞬間。
「ごはっ!」
暁人は思い切りのけぞった。
「な!」
境内の無数の玉砂利が、空中に浮かんでいた。
それら全てが石つぶてとなって、暁人に襲い掛かる。
「先に仕込んでたかっ!」
暁人が石つぶてを振り払った時には、既に清過の姿はなかった。
「僕を2度も出し抜くなんて」
暗闇に、暁人の影だけが浮かぶ。
「大したものだよ、君。少し、落ち着いて話がしたいものだね」
風が、ほんの僅かな灰を舞い上げた。
「すず、あや」
いつの間にか、巫女装束の若い女が2人、暁人の背後に控えていた。
「はっ」
「はいっ」
「捕獲出来たか?」
「第2戦闘部隊が追跡中です」
「ふむ」
暁人は首を傾げる。
「あの手負いでまだ捕まっていない、か……念のため、第1戦闘部隊も出しておけ」
「はいっ」
背の高い、ロングヘアの巫女が頷く。
「えー? 暁人様、私たちは?」
背の低い、ツインテールにしている方の巫女が不満げな顔をする。
「標的は、極めて高度な支援を受けている可能性がある。君ら第5戦闘隊は、最大精度で霊気感知を実施、第1と連携を取れ」
「つまんないなぁ……」
「それから」
ほんの少し、暁人の声に緊張が混じる。
「ハーヴェイに連絡。衛星で愚釈の位置を再確認させろ」
「はい」
「それから兵隊も出して貰う。人祓いの法は付けてやれ」
「……え?」
「探索範囲に鞍馬を含める」
「鞍馬……ですか」
「そうだ、モタモタしてた第2にも行かせよう、うん、それがいい。何しろ僕をイライラさせたんだものね」
暁人は冷たく笑う。
「じゃ、伝達よろしく」
遠くで野犬の遠吠えがする。
(まさか)
息切れと足音が真っ暗な山の中に響く。
(あれほどとは。これだけ成長して)
折れた肋骨のせいで、呼吸は不規則で荒い。
足音と、足が枯れ枝を踏み折る音がする。
「……使霊さん、減っちゃいましたね」
走りつつ、清過は呟く。
清過の影の中に、使霊が200体ほど渦巻いている。
(往生出来た、と思えば喜ばしいのかも知れませんけど……別れるのは、やっぱり寂しいです)
木々の間から聞こえる野禽の声が、清過の呟きを感じてか、ぴたりと止まり、飛び去って行く羽音が聞こえた。
山道を横切っている木の根に、清過は何度となくつまづいて転びそうになる。
走っていた足は、いつしか早足に、そして、1歩1歩の重い歩みになっていく。
「はぁ……はぁ……痛い、はぁ……」
清過はついに膝を付いた。
「悔しい」
4つん這いになって、進む。
手が、膝が、泥に汚れる。
暁人に切られた額は、気が断たれているため未だに塞がらない。気を整えて治そうにも、生命維持が精一杯で、余分に使える気が残っていない。
流れ出る血が目に入るのを、ぐいと腕で拭う。
「私は」
地面の木の根を掴み、ムリヤリに身体を動かす。
(負けるのは)
荒い呼吸が山に溶け込む。
「大嫌いです」
清過の口の端が歪む。
「もっと、色んな戦い方を、知らないと、もっと、強く」
その不格好な笑みを浮かべた口から、血が一筋流れ出る。
「今度、愚釈、さん、から、本格的に、治気を教わり、ましょ、う――げほっ!」
真っ赤な血を吐き出す。
折れた肋骨が、肺を破り、動脈血が肺の中に流れ込んでいる。
「負けません、絶対。最後には絶対勝ちます、勝てば勝ちです、だから、生きのび、ます」
血を吐き捨てる。
「使霊、さん」
使霊が現れ、清過の胸に入り込む。使霊は、肺の気に干渉し、動かす。
「おげえええっ、げほっ、ぶはっ!」
自分の意思と関係なく動く肺に、清過はのたうち回る、しかし、のたうち回りながらも、進む。
野犬の遠吠えは近付かない。血の臭いを嗅ぎ付けてはいるが、強烈な清過の鬼気に、むしろ遠ざかっていく。
「芦屋暁人……絶対、3度目の正直、次は、絶対……」
その時。
ばさっ。
大きな羽音がした。
「はぁ、はあ……?」
「誰かと思えばまた童か!」
清過の頭上から、不機嫌そうな声がした。
「進ま、な、きゃ……」
「寝ておれ、鬱陶しい」
清過の頭に、手が当てられた。
同時に、清過の意識は遠のいて行った。