プロローグ 神社にて
「伊能様ですね」
本宅の玄関で、神主風の装束を着けた男が対応をする。
「はい、この度は引き受けて下さって――」
少女の両親が何度も頭を下げる。
少女はその様子をぼんやりと眺める。
(私のために、してくれてる)
彼女は男に視線を向ける。
(“びょうき”をなおすため)
「さあ、こちらへ」
男は一礼して、少女と両親を招き入れる。
本宅の木張りの床は、きしみ1つ立てない。
少女は両親に付き添われ歩く。
長い廊下が途切れた。
「こちらです」
男が引き戸を開ける。
少女はその部屋に入った。
部屋の奥は祭壇になっており、丸い鏡が置かれていた。そして両脇に榊や神酒がある。壁に明王画や仏画の掛け軸が並び、その隙間は梵字が埋め尽くされていた。加えて棚には、あらゆる神像の類が並んでいる。
不規則という1点で統一された部屋だった。
(だいじょうぶ、どれも、かざりだ)
僅かに落ち着きを取り戻した少女は、棚に視線を向ける。
釈迦像、薬師像から始まり、孫悟空や関羽像までがある。
(いままでいったとこより、すごそうなものは――)
その時、少女は僅かに眉を動かした。
像の中にある1体。
三面六背、全ての面が憤怒であり、6本の腕が全て刃を振りかざしているそれに、何故だか目に留まった。
(なん、だろう?)
その時。
「お待たせした様だね」
明るい声がした。
とても明るい、親しみやすい声に、少女は振り向いた。
引き戸を開けて入って来た若い男、いや、少年に近い。
彼は微笑んでいた。
100人のうち、99人までが、その美しく優しげな物腰に、心を奪われるだろう。
「君、色々大変だったようだね」
彼は手を差し伸べる。
「話してくれないか?」
指先が少女の頬に触れる寸前。
「わあぁぁぁっ!」
少女は声を上げていた。
「清過っ!?」
次の瞬間には少女は、部屋から飛び出していた。
「も、申し訳ありません!」
両親は、深く頭を下げる。
「いえ、こちらこそ、少し油断しました」
少年は微笑んだ。
「ちょっとした悪霊が憑いているようですね。説得できたら、また連れて来て下さい。何でしたら、家の者にも手伝わせるよ」
「ありがとうございます!」
両親たちは挨拶もそこそこに、部屋から出て行った。
1人部屋に残った少年は、どっかりと腰を降ろすと、人差し指を見た。
少女が逃げる時に、弾かれた指先。
白く長い指先に小さな傷が出来、血が珠になっていた。
「――傷か」
少年は紅い舌を伸ばすと、血をゆっくり舐め拭った。
「ただの修羅、如きが」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
参道からずっと外れた山の中で、ようやく少女は立ち止まった。
樹の1本に寄り掛かると、弾む息を整える。
「だれもいない……ね?」
怯えた顔で、少女はゆっくりと振り返る。
日が暮れかけている。
背後にも前方にも、暗さを増した森があるだけで、人の気配はない。
「ふぅ」
溜息混じりに、彼女は胸を撫で下ろす。
彼女は大樹の根本に座り込んで、靴の裏を見た。
激しい全力疾走のせいで、靴底はすり切れかけていた。
拳を握る。
そして、座った体勢のまま、寄り掛かっていた樹を、手の甲で叩いた。
重い音が響き、幹がえぐれ木片が飛んだ。
「……ちくしょう!」
少女は立ち上がると、樹を両拳で殴り続けた。
1発当たるごとに幹は砕けていく。
人間離れした打撃力。そもそも筋肉の断面積からは、物理的に発生し得ない破壊。化け物、魔、神、それらの領域で語られる力だった。
いつしか幹はえぐられるだけえぐられ、揺らぎ始めた。
そして。
大きな音を立てながら、ゆっくりと樹は倒れ始めた。
「うわっ」
不意に声がした。
少女はその場から飛び退き、拳を構える。
「何をする、たわけ!」
野太い怒鳴り声と共に、倒れた樹が彼女の方に飛んで来た。
「!」
少女がとっさに避けると、樹は30センチほど左を通り抜け、土にめり込んだ。15メートル程の高さの樹の重量は、1トンを超える。
(あいつ?)
姿勢を低くし、樹が飛んで来た暗闇を凝視する。
「おい」
声が、少女の真後ろからした。
「ぬわっ!」
振り向きざまに放った裏拳は、空を切った。
「やめんか」
ぽかっ。
軽い打撃が少女の頭を揺する。
「童は躾のされていない犬コロか」
風と共に、少女の前に男が降り立つ。
筋骨隆々という表現が良く似合う大きな男だった。
リュックは背負っているが、後はシャツにジーンズ、スニーカー姿という、山歩きにしてはラフ過ぎる格好をしている。
「だれだ!」
「それはこっちの台詞だ。環境破壊だけならまだしも、人の夕食を邪魔しおって」
不機嫌そうな顔で、男は少し離れた地面を指さす。土まみれになった握り飯が転がっていた。
(おいかけてきたひとじゃ、ない?)
「さっさと山から出て行け。お前を見ていると飯が不味くなる」
男は握り飯を拾い上げ、軽く手で払う。どういう仕掛けか、土がすっかり消え失せていた。
「でていけるなら、でていくよ」
「降りれば良かろう。お前の足は飾りか?」
男は握り飯を頬張る。
「それとも、山から降りたら取って喰われるか?」
少女は口ごもる。
(たべられる……よりも、もっと、こわい……こわい?)
「鬱陶しい! その中途半端な霊力もろとも見えなくなってしまえばよかろう!」
男は少女の額に人差し指を当て、何かを書いた。
「え?」
「消えろ」
そして、無花果の葉を取り出すが早いか、ばさりと一振りした。
気が付いた少女は、再び暗闇の中にいた。
「――ここ、どこ?」
耳に入る僅かな雑踏。そして星の少ない夜空。
「え? え?」
そして固く冷たい地面は、アスファルトに舗装された道路だった。
繁華街の路地裏だった。
妙な気配はない。
額に触れてみる。
特に痛みはなかった。傷もなかった。ただ、自分の手が、足が、やけに稀薄に見えた。
(あいつは――どこ?)
立ち上がって、拳を握った時。
眩しい明かりが少女の目を射た。
「わっ!」
「どうした、こんなところで独りで?」
声をかけた警官の顔は、懐中電灯の光にかき消され、見えなかった。
「迷子か?」
ただ、そのとても優しい声に、少女は固く握り続けていた拳をようやく解いた。