第4話 誘拐
目を開くと、すぐ鼻先に布が見えた。
頑丈な麻の生地。酷く狭苦しい空間の中にいて、周りは見渡す限り、布だ。
どうやら袋詰めにされているらしい、とエイダンは気づいた。身体を横倒して折り畳んだ、不自然な姿勢で、袋に詰められ、一定のリズムで揺さぶられている。
抱え上げられて、どこかに運ばれている最中――という事だろうか?
だんだんと頭が回転し始めて、眠りに落ちる直前の出来事を思い出し、同時にエイダンは、焦燥に駆られた。山の中で遭難して救助されたのだとしても、普通、袋詰めにはされない。
身動きをしようとして、エイダンは自分の胸元に、首飾りのような物がかけられているのを見つけた。
シャムロックの葉と茎と、小豆色の布切れを組み合わせて作った、ネックレスだ。エイダンの所持品ではない。
これは何だろう、と考えているうちに、揺さぶりが止んだ。
と思ったら、最後に派手な衝撃が来た。地面に放り投げられたらしい。腰と肩を打ちつけて、「あいてっ」と、つい声を上げる。
「こいつ、起きとんちゃ」
「そらそうがいぜ。よう今まで寝とったもんだわ。……テレンスは? 見つかったんか?」
「なーん」
頭上で、野太い声の会話が交わされる。
紐で縛られていた袋の口が緩んだので、エイダンはそこから這い出ようとした。すると、袋から出した片腕を掴まれ、そのままずるずると引っ張り出される。
地面に座り込むエイダンを取り囲んだのは、およそ二ケイドル半程の身長で、丸太のように逞しい手脚の、二足歩行の生き物だった。青緑がかった、くすんだ色の肌に、ごわついた体毛が生え、腰回りに毛皮を巻きつけている。
顔立ちは人間に近い。ただし、鼻面が大きく発達していて、口の両端から、上向きの鋭い牙が突き出ている。部分的に、イノシシを連想させるところがあった。
……オークだ。
冒険物語の挿絵や、博物学の教科書でしか、その姿を見た事はなかったが、間違いなさそうだ。
「おい、お前」
「……はい」
エイダンを引っ張り出したオークが、声をかけてきたので、とりあえず素直に返事をする。
そのオークも、エイダンがかけられていたのと似たような、シャムロックの葉を編んだ首飾りを身につけていた。ただ、彼の首飾りには、紫色の布が編み込まれている。
「人間か?」
「は、はい。人間です」
まさか、エイダンがオークに見えるとも思えないが。
「人間が何故、オークの『癒やし手』の証を身につけている?」
「オークの……癒やし手?」
「これだ」
エイダンの首飾りに、オークは指を突きつけた。
「その色の布は、医療知識がある者の証。俺の証を見よ。これぞ一族の戦士長、ディクスドゥを示すものである」
シャムロックの首飾りに、染色した布を編み込む事で、それぞれの職能を表す。そんな風習が、このオーク達にはあるらしい。
しかし、エイダンはその風習を知らなかったし、そもそもこの首飾りは、エイダンの物ではない。誰かが勝手に、彼の首にかけたのだ。
……テレンスの仕業だろうか。彼は今、どこにいるのだろう?
「えっと……この首飾りは、俺んじゃなぁです。どうして首にかかっとるんか、分かりません」
「なに?」
「癒やし手と違うんがけ!?」
「さらい損ちゃあ! あの場で殺しとけば良かったがいけ!」
後方から、何人かのオークが口々に、疑問と物騒な不満の声を上げるも、戦士長ディクスドゥにひと睨みされ、一斉に縮み上がる。
ディクスドゥ以外のオークは、皆、空色の布を首飾りに編み込んでいた。ディクスドゥが戦士長という事は、空色の布はその部下の、兵卒を意味するのだろうか、とエイダンは推測する。
兵卒達の言葉には、訛りがある。シリンガレーン山脈北西部の人々が使う言葉に近い。
この地域は山がちで、屈強な人間が育ちやすいらしく、アンバーセットでもしばしば、この訛りを使う冒険者を見かけた。
ディクスドゥだけ言葉遣いが異なるのは、きっと階級差があるからだろう。……オークの社会も、そう人間と変わらないらしい。
「今聞いたとおり、我々は『癒やし手』に用がある。お前は『癒やし手』ではないのか?」
ディクスドゥが問い質す。
静かだが、苛立ちを孕んだ声音だった。エイダンは軽く唾を飲み込んでから、回答する。
「いえっ……治癒術士です。多分、この首飾りをつけさせた人は……俺が治癒術士っちゅう事を、教えたかったんだと思います。オークのみなさん方に」
咄嗟の思いつきを、一息で述べると、ディクスドゥも周囲のオーク達も、怪訝な顔をした。
「お前に首飾りを与えた『人』……とは?」
「もう一人、一緒におったんです。その人から、怪我人がおるって聞いて、青麦峠まで来たがぁですけど」
「……お前に連れがいたのは、追跡中に目撃している。テレンス・ワットモア……!」
突如、憎々しげに、ディクスドゥはその名を口にする。
エイダンは「知っとんさる?」と問い返そうとしたが、その前に大股で近づいてきたディクスドゥから、襟首を掴み上げられてしまった。
地面から足が離れた。軽々と身体を持ち上げられ、息が詰まる。
「テレンスこそは、我が妹の敵! 人間の癒やし手、お前はテレンスの仲間なのか!?」
仲間かと言われれば一応そうだが、はいそうです、とでも答えれば、そのまま殺されそうな状況だ。というか、首が締まって何も答えられない。
「癒やし手ならば、妹を治せるかもしれんと……そう思ってここまで連れてきたが。テレンスの手先とあらば……!」
――治せる?
混乱しつつも、エイダンはその言葉に反応した。
テレンスの行方も、彼が何をやらかしたのかも、このオークに八つ当たりされている理由も、何も分からないが、とにかく、治すべき誰かが――患者が、いるらしい。
「み、診ても……」
どうにか、それだけ口にする。
「……なんだ?」
「診さして貰うても……ええですか、妹さん……治せるかも、しれんですけん……」
ディクスドゥが、エイダンを掴んでいた手を離した。
地面に投げ出され、何度か咳き込んでから、エイダンはディクスドゥを見上げる。
しばし、黙考する様子を見せた後、ディクスドゥはくるりとエイダンに背を向けた。
「ついて来い!」
ぶっきらぼうな声がかかる。
周囲のオーク達が、エイダンを引っ立てた。
どうやら、今この場で殺されずには済んだようだ。エイダンは安堵の息を吐く。
とはいえ、オークの診察など全くの未経験である。上手くいかなかったら、恐らくそこまでの命だ。
背中の長杖は奪われていないが、先程のディクスドゥの腕力から推し量るに、正面から戦っても、到底勝てる相手ではない。この人数に囲まれていては、逃げ切るだけの自信すらない。
この旅の出発前、きっと命までは奪われないだろう、と呑気に高をくくっていたのを思い出す。……見込みが甘かったかもしれない。
エイダンは再び息を吐いた。今度は嘆息である。
◇
エイダンが連行されていたのは、木と毛皮と布を組み合わせて造られた、テントの中だった。
外に出ると、辺りはもう夜中である。夜目が利くのか、オーク達は明かりも掲げずに、のしのし歩いて行く。
腕を引っ張られながらついて行くのがやっとで、周囲を詳細に観察する余裕もないエイダンだったが、ここが集落になっている事は分かった。
辺りには他にもテントが張られ、全くの暗闇ではなく、いくつかは明かりが見える。
籠や薪を背負ったオークや、何かの作業中と見られるオークと、何度かすれ違った。「戦士長!」とディクスドゥに呼びかけ、恭しく頭を下げる者もいるし、エイダンを珍しそうに見つめる者もいる。
「言葉、人間のと同じなんがぁですね」
ふとエイダンは、自分の腕を掴んでいる、空色の首飾りのオークに話しかけた。
オークは話しかけられた事に驚いた風だったが、思ったよりも愛想良く応じてくれる。
「ここらのオークはな。何代か前から二言語話者ちゃ。言うても、古いオークの言葉は、もう祈りや子供の名づけの時くらいにしか使わんがよ。オークの言葉は神聖で大事なもんだが、人の言葉には文字もあるし、数も数えやすいし、正直、便利がいぜ」
「子供のオークって、おるんですか?」
思わず、そんな質問を口にする。
魔物という種族は、大気中や水中や、泥土の中の、魔力の淀みから生まれ出て、誕生時から成体の姿を取るものが多いと聞く。代表的なところで言えば、ゴーストやレイスなどの、アンデッド系魔物がそうだ。
「そらそうちゃ、オークを何だと思うとる」
「あ、すんません」
「まあ、おらなんぞは、古木の根から生まれたオークだがな。それでも生まれた時は、お前くらいのナリだったちゃあ。ディクスドゥ様らに名づけられ、育てられて、こぉにすくすく育ったがいぜ」
「はぁ、古木から……」
オークは、古い木に溜まった魔力の淀みから生まれる。
それは、教科書に書いてあったとおりだ。エイダンの身長は一.六八ケイドル。そのサイズの赤ん坊とは、なかなかのものである。
「でも、オークの女の腹から生まれるオークちゅうのも、たまーにおるがいぜ。ディクスドゥ様がそうで、大体、生まれた時は特別小さいが、ああして特別強いオークに育つちゃあ。最近は、オークの女自体が少のうなったがな。ディクスドゥ様の妹君は、この村で数少ない女がいぜ」
「へぇー……!」
二通りの生まれ方があるとは、知らなかった。
言われてみれば、ディクスドゥが『妹』と呼んだのだから、今からエイダンが診療に向かう患者は、女性のオークなのだ。
「ノッバ! 余計な話をするな」
お喋りが過ぎたらしく、ディクスドゥがこちらを振り返って叱る。
エイダンと、ノッバと呼ばれたオークは、揃って首を竦めた。
「ここだ」
程なく、ディクスドゥは足を止め、エイダンに前方を顎で示してみせた。
目の前には、テントが一つ。他のテントと比べると、華やかな柄の織物が、入口に垂れ下がっている。
ディクスドゥに続いて、エイダンはテントの中に踏み入った。
そこに――オークが一人、横たえられていた。