第9夜 『手袋』
どたどたと大きな足音を立てて奥から熊のような男が姿を現した。ひげ、大きな口、重たげな外套、褐返のグローブ、この男の姿かたちを表すのにこれだけで十分だと思う。緊張の緩んできた二人が突然のお男の登場に身を固くする。
「おれが電話かけても全く出んというのに久方ぶりに電話を鳴らしたと思えば餓鬼を拾ったたぁ何考えてんだおめぇはよぉ!」
「電話は好かん。説教は聞かん。それから子供を拾ったことについては成り行きで考えなどそこにない。」
「歯ぁ食いしばれ蹄のぉ!育て上げる覚悟もないのに命を拾うんじゃねぇっ!」
「生憎見殺しにする覚悟もなかったのでな。それからその手袋はめた状態で殴るというなら私に蹴りぬかれる覚悟もいいんだな。」
「ちょ、ちょっとお頭いきなり何言い出すんですか!?やめてください!それとアーホルンも煽るようなこと言わない!こんな狭いところで戦争し始めようとしないでください!仮にも子供の前ですよ!」
身の危険を感じて退避する商団の面々。不自然に空いた空間に果敢に足を踏み入れ捨て身で止めに入るスキンヘッドは称賛に値するだろう。不服そうな顔でトルペが拳を下ろすのを見届けてから戦闘態勢を解く。挑発するようなことを言った自覚はあるが大人しく説教されるのは御免だし、殴られるのも遠慮願いたい。あの男に殴られれば控えめに言って死ぬだろう。殴られたことはないが殴られれば一発で肉片になるであろうことは目に見えている。
「子供?そうだ、子供だ。ライゼとエルガーってぇ餓鬼はおめぇらのことかぁ!」
「だから声量落としてください、怯えますから!」
熊登場から硬直し茫然としていた二人が大男を見上げる。じぃ、とのぞき込むように二人の顔を見るトルペとそれに対峙する幼子二人の様子は、あるはずもないが捕食寸前にも見える。店に入る前にエルガーが危惧していたのがあながち間違いでもないような気がしてきた。状況を飲み込めていないであろう、何の説明も受けていない商団員たちがざわつき始める。
「す、すげぇ……お頭の顔を見て泣かねえだと……!?」
「顔を見られてコンマで泣かれるお頭のあの顔を……!なんて餓鬼だ……。」
にらみ合って1分たとうかしたあたりから馬鹿馬鹿しく思えてきた。トルペが何のつもりか知らないが、連絡した時点で彼が二人を跳ねのけることはしないし、威圧しているのであれば二人は泣いたりはしない。単に恐ろし気な形相というものは本物の恐怖を感じない。顔が恐ろしいというのは先に言ってあり、なおかつ彼らはそんなものとは比べ物にならないほどの恐怖を知っている。
何の前触れもなく、トルペの目から大粒の涙零れた。当の二人はギョッと目を見開き、他の面々は安堵に包まれる。
「今まで辛かったなぁ!大体のことは蹄のから聞いとる!もう大丈夫だ!ここがおめぇらの家になる。おれたちが新しい家族になる。」
「っ!」
二人まとめてトルペの腕の中に収められ息を飲む。ボロボロと泣きながら力強く抱擁する。二人は戸惑うように視線を彷徨わせていたが、どちらともなく涙を零した。
一歩引いたところでゼンフと並び三人を見つめた。
こうなることは想像していた。何もかもが想像通りだった。トルペ・アルミュールはこういう男だった。その性質は何年たとうと変わることはない。店の中に三つの泣き声が木霊した。
「……手袋は変わらないな、何も。」
「ああ、お頭は昔から変わらない。だから着いてきたんだ。あんたもわかってたからあいつらをここに預けようと思ったんだろ?」
小声のつぶやきはあっさりと拾われ、なんでもないように問われる。私はそれに何も返さなかった。
私は他人のために涙することなど、できない。何もかも受け止め、受け入れ、あんな風に愛することは、私にはできない。圧倒的に私に足りていないものを、トルペは持っている。同時に私が子供の時に持っていなかったものを、エルガーたちは持っていた。泣いてくれる誰かとともに泣くことも、与えられる愛を享受することも、できなかった。
いやむしろ、何も変わっていないのは彼だけではないのだと気づく。
私は与えられた愛を疑心と共に撥ね退けたあの時から何も変わっていない。
「あの二人は昔のお前らによく似てるなぁ。」
「…………、」
返事はしない。とても返す言葉が見つからない。
それでもわかっていたかのようにゼンフは返事も待たずに続ける。
「まるであの二人は、あったかもしれない未来だな。」
あったかもしれない過去の未来。もし出来事の順番が違ったなら、私たちもああして泣けたのだろうか。思うままに手を取れたのだろうか。
「アーホルン、お前が意識して重ねてるのかは知らないが、赤の他人にそれを重ね合わせるのは、悪いことじゃない。原因や過程じゃない、結果だけ見ればいい。」
「……結果か。」
「おう。結果だけで良い。自分勝手に過去を拾い集めてやり直しでもするような自慰行為だとしても、それで良い。それであの二人は掬われたんだ。」
なんでもない愚にもつかない陳腐な慰めに、少しだけ笑った。彼の言うことが的を射ているのか、それすらも自覚できないが彼が何をしたいのかは理解した。彼もまた私を掬いたいのだと。
「……ゼンフ。」
「名前を呼ぶのは珍しいな。なんだ?」
「詩人だな。あんた。」
「ほっとけ。柄じゃないのはわかってる。」
「柄じゃないのにか。」
こらえきれずクツクツと笑うと脇を肘で突かれる。仄かに顔を赤くしているがいい大人の赤面など可愛くもなんでもない。ただそのいじらしさはさらに笑いを誘った。
「ゼンフ。」
「何だ……、」
「ありがとう。」
明後日を見ていたのに突然こっちを見返すスキンヘッドをさらに笑ってやった。
笑ってなければ、やってられない。
「あんたやっぱうちに来ないか?もう……いいだろ?」
「断る。それから、もういいなんて言える日は絶対に来ない。」
「……今のは悪かった。だがあんたが来る気になったら、おれたちは歓迎する。」
「それは大歓迎だろう。キャラバンの神宝主が二人になるのだから。」
咎められるかと思った軽口は、予想に反してため息だけで済んだ。まともに受け答えしてはいけない。そうすれば意見が合わずこの場を壊すことはお互いにわかっていた。だから冗談交じりに探るしかできなのだ。
「……だが、すべてが片付いたとき、あんたたちが同じことを言ってくれるなら、存外満更でもないかもしれない。」
「そうなら、諸手を上げて迎えよう。でも無理はするな。行動するにも焦るな。『蹄』は確かに『天秤』より有利だ。だがタイミングとバランスを考えなければ、『翼』は盗れない。この国も揺らぐ。あまりオイタが過ぎるようであれば、お頭ももう黙って見てられない。」
「……重々承知の上だ。現人神を引きずり下ろすのだから。それに派手にやりすぎれば、シャムロックが悲しむ。」
ギュッと眉間に寄った皺は見ないふりをした。