午後4時の出来事
部屋のインターホンが鳴った。モニターを確認してみると、そこには中年の女性が顔を伏せて立っていた。ベージュのスプリングコートを着ている。ウィリアム・ミッシェルはそのモニターに映っている女性が誰だかわかった。自分の母親に間違いない。ちらっとモニターに写った顔のことを、彼はよく知っていて忘れるはずなどない。なぜなら彼は彼女の手で育てられた人間だからである。ウィリアムはモニターの前で思った。でも急に何の用事だろうか。彼女が俺に何の用だ?今日このタイミングで俺のことを訪ねてくるなんて彼女は一言も言ってなかったのに。サプライズか? いや今この瞬間のサプライズにどんな意味があるっていうんだ。それに今回のこの訪問が本当にサプライズの一種だったとして、もうすでに彼女は自分のことを母親だとばらしている。インターホンのモニターには彼女の顔が映っていて、いくらうつむいてもちらっと見える部分だけでそれが誰だかわかる。あれは自分の母親。そしてみずからの正体をばらしてからのサプライズって……ほかに協力者でもいるのか? しかしだとしたらこれはなかなか手の込んだサプライズだぞ。だって第三者の導入なくしては成立しないものを計画してきたってことだろう? 今このモニターで確認できないところに誰か知らない人でも潜んでいるというのだろうか。だとしたら、だとしたら! 一体俺はどうしたらいいというんだ。考えろ、考えろウィリアム! ウィリアムはモニターが設置されている壁に片手をついて、このまま母親のサプライズの企画力を信じてあえてその人形を演じ続けるのもいいだろう。彼女の考えにのってやるのもいいもんだろうさ! それか! それかあえてここで彼女の計画を拒否する何かしらの行動をとってやるというのも一つの手だろう。たとえばインターホンに応答してやらないとか、急にばっとドアを開けて、彼女の背後や廊下を隅々まで捜索してやるとか! だってさ、だって! これがもし本当にサプライズだったとして、それを計画したのが今このモニターに映っている自分の母親とは限らないんだからね! 彼女であるという保証はないんですからね。全然見知らぬ邪悪な奴が、俺の母親を利用して、俺のことを騙そうとしているのかもしれない。無限で暗黒で決してまともな精神では抜け出すことのできない、永遠に俺から何かを搾取するための罠に誰かが俺のことをはめようとしているのかもしれないじゃないか。だとするとここは最大限の注意力をもってしてインターホンの対応に挑むべきだぞウィリアム! 次の瞬間には何が起こるかわからないんだぞ、あなどるなかれ!
「お母さんじゃないか!」ウィリアムは自分の母親が一人暮らしの部屋に急に訪ねてきてくれたことに嬉しくなって部屋のドアを一目散に開けた。そこに立っていたのは紛れもないウィリアム・ミッシェルの母親、ジェニー・ミッシェルだった。
ジェニーは言った。「我が息子、ウィリアムよ、元気か?私は元気だぞ。なぜなら私は朝ごはんを毎日食べているし、もちろんそのあとお昼の時間になればお昼ごはんを食べるし、夕方には晩ごはんも食べる。一日しっかり三食食べる。だから食に関しては、自分の感覚としては欠点など一つもないことだろう。私は自分で料理を作ることができるからな。私は自分で料理を作ることができるから、食べたいものをいつだって作って食べることができるし、また食べなければならないものを自分の体と相談してこしらえることもできる。またこの能力は決して自分だけに有効なものではなく、他人にも影響を及ぼすことができる。料理を作るときに、一人分ではなく二人分を作ればよいのだ。そうすると料理が自然と二人分できることになるから、それをもう一人に分け与えればいいのだ。また睡眠に関しても私は自信を持っている。私は毎日夜の11時に寝る。別の言い方をすると、私は毎日23時には寝床に着くのだ。これが何を意味するかわかるかね、わかるかね我が息子ウィリアムよ!どうせお前のようなどら息子にはわからないだろう。正解だ。睡眠時間がたっぷりと取れているから、体に余計な負担もなく、非常に健康的だということだよ。朝はいつも6時には目を覚ますんだからね。とにかく私は毎日という時間を本当に無理なく、ストレスなく過ごすことに成功しているのさ。しかし、その点に関してお前はいつまで経っても堕落的な生活を送っているんだろう!この自堕落息子め!まずは小魚を食え!」
ウィリアムは呆気にとられた。まさか急に部屋を訪ねてきてくれた実の母親から小魚の食すことを勧められるとは。小魚の摂取を勧められるとは思っても見なかった。しかし考えてみて、自分だけではなく、現代を生きるほとんどの人に小魚という存在は必要なのではないだろうか。小魚を食べるという選択肢は、決してギャグではなく、真面目な顔で考えてもいい文句なのかも知れない。でもやっぱり
もっと考えてみて、そもそもどうして俺が何言っても彼女の中で自堕落な息子、どうしようもない息子、自分のことなど自分一人で何一つできず、したがってまともな食生活も睡眠も取れていない人間として認識されてしまっているのだろうか?もしかして俺には、自分が知らないだけで、若いにも関わらず無理な食生活や睡眠の繰り返しで病院のお世話になってしまった過去でもあるというのかな?今思い出せる限りでは、そんな過去を生きた記憶はないけれども、しかし相手は自分の母親。自分以上に自分のことを知っていておかしくない、今のところ唯一の人間なのである。そのような存在の人に、今回のように決めつけられたものの言い方をされると、なるほどそうなのかも知れないと本能的に納得してしまいたくなるのはなぜだろう。ここは一つ彼女の考えが、彼女の自分に対する認知が間違っていることを証明できるエピソードでも提示しなければならないことだろう。そういえば今部屋の冷蔵庫の中に納豆のパックが残っていたはずだ。これを彼女に見せれば、ああなるほど、この子は、決して自分の健康のことを考えて好きな食べ物を自粛するという選択はしないけれども、しかしその代わりにどんなときでも欠かさず毎日納豆を一パック食べるという健康法を実施しているんだな、納豆は定期的にテレビやネットのニュースにも取り上げられる、優良健康食品界のエース、ポセイドン、日本の古典でいうところの清少納言、ふふふこやつめ、納豆の力を借りて自らの体のバランスを是正しようと企んでいやがるわい、とすると、自堕落な息子で自分のことなど何一つとしてできないといった私の認識は間違っていたかもしれないな、改めよう、とこのようなことを思ってくれて、俺は見事に彼女の胸の中に平和な時間をもたらすことができるかもしれない。
「俺の主食はキャットフードさ!」ウィリアムは言った。「俺の母親よ、俺の母親のジェニーよ、最近の俺の主食はキャットフードなんだ。そうさキャットフードさ。キャットフードのことはあんたもよく知っているだろう、その通り、俺が今言っているのはあのキャットフードのことさ。最近の俺はそれを本当によく食べている。一日中それを食べているときだってあるくらいさ。どうしてかって? どうしてあんたの息子は猫でもないのにそんなものを食べているのかって?金がないからさ!まともな食事の買う金がないからこんなことになっているんだ!本当はバイト先で間違えて大量にあるキャットフードを仕入れてしまったんだ。それでその事を店長に責められて、俺は自分で誤発注してしまった分をすべて買い取ることになったのさ。はじめのうちは、何とか販路を切り開かなければと思って躍起になっていたさ。何とか手に入れてしまったキャットフードを他人にさばこうと思っていたんだ。方々に走り回って少し疲れたある日の午後、俺はふとキャットフードの缶を開けて、フォークでその中身を食べてみた。いけると思ったね。いけると思ったね!そう、だからお母さん、今の俺の主食は残念ながら誤発注したキャットフードなんだよ。決して普通の人間が食べるものではない、基本的に人に飼われている猫が食す用に作られたものを俺はずっと食べているんだよ。自分が好んでそれを食べているのかどうかも今となってはよくわからない。そんなことはもう俺にはわからないんだよ。お母さん今日はどうして俺の部屋まで訪ねてきたんだい?」
「お母さん再婚するのよ」
「何だって!」ウィリアムは母親のジェニーの発言に驚いた。純粋に驚きすぎて、いきなりなぜ俺の母親は俺に嘘をつくんだろう、あなたはどうしてそんなことをするんだ、などと彼女の言葉の聞き入れるつもりなど全然ない自分がまず思考の表面に出てきたほどだった。だが冷静に考えてみて、今彼女が嘘をついて何か得をするようなことがあるのだろうか。彼女が自分に対してそのような行為をしなければならない理由があるというのか?もしそんなものがないとすると、母親が今嘘をついたというのは間違った見解ということになる。一体何が嘘なんだ?母親は再婚するのだ。今日俺の母親は、俺に自分の再婚するという情報を伝えるためにこの部屋までやったきたんだってさ!ウィリアムは急に複雑な感情に見舞われた。彼は今目の前にいる自分の母親にどのような態度を取ってやればいいのかわからなくなった。それは自分がどうしたいのかがわからないということでもあり、また彼女が自分に何を望んでいるのかもわからないという状態でもある。小学生六年生に上がる前の春休み、一人で中古のファイナルファンタジーVIを買ってプレイし、最後のボスのいるダンジョンの手前まで行ったけどそこでやめた。なぜだかはわからない。理由はまだない。ウィリアムは思った。お母さんが再婚だって?お母さんが再婚だってさ!そんなまさか。そんなの寝耳に水だよ。確かに俺は母子家庭で育った。そういえば物心ついたときから父親と呼べる人はおらず、俺にとって家族といえば母親だけだった。だから俺が大学生となった今、母親が誰かと再婚するってのはそんなに変な話じゃないかもしれない。でもさ、俺としてはやっぱりショックなわけ。ちょっとくらいはこうなんていうの?とにかくなんか心がちくっと痛まずにはすまないわけ。悲しいわけでも寂しいわけでもないんだろうけど、本当に何なんだろうな。事態はいつの間にそんなことになっていたんだ?って感じ。だって再婚って急に思い立ってするもんじゃないでしょう。ある朝鏡を見たときに、口元にできている吹き出物じゃないんだから。口元の吹き出物みたいに、自分でも気がつかないうちに急に再婚してしまうような事態ってあるかね。ないよね。そんな事態って一応この世の中にはないよね。それにしても母親の再婚相手って誰なんだ。俺の知っている人なんだろうか。それともやはり俺の全然知らない人なんだろうか。俺としてはやはり、ここは全然知らない人の方がいいかもしれない。知らない人の方が、きっとすんなりと母親の再婚という事実と向き合えることだろう。たとえば今回の母親の再婚相手が俺の知っている人だったとして、思うことは、は、こいつかよ、っていうかお前いつから俺の母親とそんな関係になっていたんだ、どのタイミングで手を出したんだよこの野郎、ということだろう。気持ち悪い。なんで俺がそんな嫉妬みたいな感情を持たなければならないんだ。しかし一度抱いてしまった感情は、いつでもズボンのポケットに入っているわけではない。自分でもわからない体のどこかに潜んでいて、そいつの居場所を見つけ出すまでは、たとえ自分の持ち物でもすぐにぬぐい去ることはできない。そうするとだ、もしかすると俺は一生その新しい母親の再婚相手に気持ちの悪い感情を抱き続けなけりゃならないわけであって、またそのせいで再婚相手とうまくやっていけるかどうかもわからない。知らない人の方がいい。子供が大人になってからの母親の再婚相手なんてものは、絶対に見ず知らずの他人であってしかるべきなんだ。ウィリアムが黙り込んでいると、母親のジェニーが言った。「実は今日もうその人を連れてきているのよ、紹介するわ、アンドリューよ。アンドリュー・マクドナルドさん。アンドリューこっちに来て」
すると今まで気が付かなかった、母親の後ろからぬっと人影が伸びてきて、それはやはり人だった。これが今母親がアンドリューと呼んだ人物なのだろうか。背丈がちょうど母親と同じくらいで小さい、浅黒くて顔にシワがあって少しだけ生えている髭がしろい。どんな歯をしているのかはわからないけれども、口を開けたら何本か目立つところの歯が欠けているかもしれない。その男はなぜか胸に巨大な発泡スチロールの箱を抱え込んでいた。
母親からアンドリューと呼ばれた男が言った。「こいつは最近北の海であがったマグロを冷凍したものなんだ。俺はいつも冷凍したマグロを持ち歩いておってな、俺は、冷凍したマグロを見るとつい持ち歩きたくなっちまう、冷凍したマグロをいつも持ち歩いている男なんだよ。だからこの発泡スチロールの中に入っている冷凍マグロのことは、できればあまり気にしてほしくないんだ。俺にとっては普通のことなんだ。このことばかりに気をとられて、息子である君との会話がうまくいかなかったら今日という日をわざわざセッティングしてもらった意味がないだろ?セッティングしてもらった意味がなくなっちまうじゃないか。だからこの冷凍マグロの話はこの辺でやめにしておくとして、そうそう、このマグロはかなりの価値があるんだぜ。いくら世の中が広くても、常日頃から冷凍したマグロを持ち歩いている男なんてあまりいないことだろう。俺さ。俺がその冷凍したマグロを常日頃から持ち歩いている男ってわけさ。冷凍マグロの話はもうやめるんだ。冷凍マグロの話はもうこれくらいにしてくれないかね。これは本当にただの冷凍されたマグロなんだよ。冷凍されたマグロ以外の何者でもないと言えるだろうね。そんなに冷凍したマグロを日常生活の中で持ち歩いていることがおかしいかい?不思議なこととして君の目に移るかい?よく見てみな、これは冷凍したマグロというより、冷凍したマグロでも入っていそうな、なかなかに巨大な白い発泡スチロールの箱だよ。今のところの、我々の共有しうる真実で表現できるものはそんなもんだろうね。これはまだ発泡スチロールの固まりに過ぎないよ。そしてたとえばだけど、みんなだっていつも財布にお金を入れて持ち歩いているだろう?だからこういう観点はどうだろう。もしこの箱の中に本物の冷凍マグロが入っていたとして、それは俺もただただみんなにとっての財布のように、他人にとって価値のあるものを何かあったときのために持ち歩いているだけだと。まあ俺も普通に財布は持ち歩いているけどね。普通に現金とか免許証とかクレジットカードとかの入った財布を持っているけれどもね。なんだ君のその目は。何なんだその君の母親によく似た綺麗で澄んだ瞳は!こんな重たいマグロはこうしてやる。こんな重たいマグロはこうしてやるんだ!」
男はそういうと、抱えていた発泡スチロールの箱を頭上に掲げ、そしてそれをそのままアパートの外へと放り投げた。ここはアパートの4階だから、もし発泡スチロールの中身がそれなりに巨大な冷凍マグロだったとすると、この男は今大変なことをしたことになる。重たいものを、下の状況も確認せずに、ほとんど自らの言葉と感情と混乱とともに投げ捨てたのである。最低の男だ。こんなに最低な男はこれまでに一度も見たことがないかもしれない。っていうか一体何のつもりなんだ。本当にこの野郎。手土産のような冷凍マグロはこいつの渾身のギャグなのか。しかしそれは実際に俺の顔を見てみると急にむず痒くなってきて、馬鹿らしくなってきて、それで冷凍マグロのプレゼントは鉄板だと思っていたけれども、心が折れて謎の行動に走ってしまったのか。現実の壁ほど高くて固くて冷たいものはなかったか。いや本当にただのどういうことなんだ?一体何が起きて、何が起きればよくて、そしてこれからまた何が起ころうとしているんだ。
下の階から女性の悲鳴のような声が聞こえた。「ぎゃあああああ」
急いで部屋を飛び出し、冷凍マグロ発泡スチロールの投げ入れられた箇所を確認してみると、そこはアパートの敷地内で地面はアスファルトだったのだが、買い物帰りと思われる主婦が腰を抜かしてその場に尻餅を着いているようだった。どうやら彼女にマグロの直撃したようなことはなかったらしかったが、彼女は、急に上から降ってきた巨大な白い物体に不意にのけぞらされ、そしてそのままその場に倒れ込んでしまったらしい。危機一髪といったところか。いやそれにしたってビックリしたことだろう。自分だってビックリする。極上にビックリする。本当にこのアンドリューだか何だかよく知らんが、この野郎は何てことをしてくれたんだ。今あんたは自分が意識していなくても人を殺めかけたんだぞ。人にケガをさせかけたんだぞ。こんなところでガチで警察を呼ばなけりゃならないような事件を起こしてどうする。あんたには早く刑務所に入りたいわけでもあるのか。
アンドリューが現場へと駆け付けると、主婦らしい女はまだその場でうずくまっているようだった。女の持っていた買い物袋の中身が周囲に多少散らばっていた。もしこの女がスーパーなどで豆腐や卵をかっていたら、多分それらは今潰れていることだろう。そうなれば、きっとそれらはこちらが弁償しなければならないんだろうな、まあそれくらいの弁償ですんだらいいけど、たとえばもっと高級なものが壊れていたり、またどこへ行っても買えないものが壊れていたりしたらどうするんだ、あのおっさんはちゃんとお金を持っている大人なのか、仕事はしているのか、大丈夫なのか、などと妙に冷静な感覚に見舞われながらうずくまっている彼女に近づいていると、ウィリアムははっとあることに気がついた。うわ、この人妊娠してる。そうなのである。今この冷凍マグロの投下によってバランスを崩して地面に尻餅を着かされた女は、上の階から見たときはよくわからなかったのだが、しかし近づいて見てみると確実にわかる、この人は妊娠している、しかもかなりお腹が大きくなっているように思う、と思わされるほどのりっぱなお腹を有していたのである。
「大丈夫ですか!」ウィリアムは思わず女に掛けよ寄って言った。そして肩に手をまわしてそっと抱き起こした。女は言った。「私はもうダメです。きっと私はこのまま再び地上を両足で踏みしめることなく死滅するはずです。大丈夫です。私はこの地上の重力から解き放たれ、永遠の天使になるのですから。毎日甘いものを食べて暮らします。毎日チョコレートと生クリームをゴミ袋いっぱい分くらいなめまくることでしょう。ビスケットや紅茶もたしなみますよ。ビスケットや紅茶やスコーンなんかもちょいちょい摘まむことでしょうね。ああもっとたくさんのご飯を食べたかった。たくさんの食べたことない料理たち、そしておいしかった料理たちを食べたかった!チンジャオロースとかの中華も好き!天使っていくら食べても太らないんですかね?もし太るんだったらこの世と一緒じゃない!この世界の事象と一緒!そんなんだったら自分の思うままに好きなものを食べまくることってできないじゃん!堕天使じゃん!」女はかっと目を見開いて、「すみません取り乱しました。ちょっと滑って尻餅を着いただけですから大丈夫です。ご心配なさらずに。しかし今理解不能なことが起きました。理解不能だと思われることことが起きたと思うんですが、どう思いますか、私としては、急に何か目の前に白い物体が降ってきたと思うんですがどうでしょう。あれは何ですか?あそこに転がっている白い物体は何なんでしょうかね?」
すると遅れて駆け付けてきたマグロのおっさんが言った。「あれはルシファーです」
「ルシファー?」女が素直に反応する。おっさんは続けて、「ええ、あれはルシファー、平和な世界で暮らしている我々にはあまり馴染みがないですが、すべての不幸の象徴、すべての災いの発端と言われている永遠の堕天使、悪魔ですよ。今やつが奥さんの肉体めがけて襲いかかってきたのです」「まあなんて恐ろしい」「しかし今奇跡が起こりました。奥さんのその体に宿っている新しい魂、聖なる魂があの邪悪な者の手をはねのけたのです!」女はおっさんの方を確実に見ながら、「この子が?この子がまだ生まれてきてもいないというのに、早速邪悪な者の手から私のことを守ってくれたというの?」ええその通りです――とおっさんが小さくうなずきながら言いかけたときだった。さらに遅れてやってきた母親のジェニーが階段を下りてきた勢いそのままおっさんの顔面をビンタした。おっさんがその場に倒れ込んだ。強烈な音が響いた。ビンタだ!ウィリアムはその瞬間思った。しかし彼は、それ以外のことは何が起こったのかよくわからなかった。追い付かなければと思った。今この空間を支配しようとしているのは母親だ。彼女がトップランナーだ。彼女の行動が他の人の思考に影響を及ぼし、また新たな結果とその報告を求めている。俺はただちに母親の次の行動を予測し、なるべくみんなが平和になるような選択をしなければならないことだろう。だがだからといって実際は何をすればいい?みんなぶっ飛び過ぎているよ!正直俺はもう疲れていて、部屋のソファーでくつろぎたいんだ。俺の主食はキャットフードだなどと言っていたころが懐かしい。俺はあのくらいのギャグで限界、あのくらいのギャグで満足なんだよ。ああ、もうあの頃に戻りたい! 何だったらキャットフードの発言も撤回したい!俺は最近電子レンジじゃなくてオーブントースターを買って、それで毎朝焼きたての食パンを食べることにはまっているんです。
ジェニーはうずくまっているアンドリューに対して言った。「まさかあんたがこんなに最低な人物だとは思っていなかったわ!まさかあんたがこんなに最低な人物だとはね!私はがっかりよ。私はあなたがまさかこんなに最低な人物だとは思っていなかったのよ。本当に今までそんなことはちっとも思っていなかったわ。それどころか素晴らしい人間だとさえ思っていた。とっても魅力的な人物だと思っていたの。だから私もですあなたとの再婚を考えたのよ。ところが今日という日がやってきてしまった。今まで私たちが築き上げてきた関係というものを根底から覆すような出来事が目の前で起こる日がね!だいたい冷凍マグロって何なのよ。繰り返すわ、冷凍マグロって一体どういうことなの。あなたは果たしてこの場で何をしたかったというの。はっきりと教えてちょうだい。嘘なしで、完全に私の目を見て答えなさい。あなたは本当に何がしたかったの?冷凍マグロで何が出来て、そしてどんなことが起こると思っていたのよ。あなた別に魚屋さんの息子とかじゃないでしょう?自分でそういうものの取り合うかう仕事をしているわけじゃないし、じゃあ何なの、冷凍マグロに詳しい友達がたまたまいたってわけ?だとしてもこの場に冷凍マグロを持ってきちゃダメでしょ。ダメすぎるでしょ!まあ冷凍マグロをこの場に持ってきてしまったことは百歩譲っていいとしましょう。絶対にそれをアパートの玄関のところから投げちゃダメ。そんなことしたら本当に絶対にダメでしょ。みんなあなたという人のことを疑うわ。疑わざるを得なくなる。あなたのことを、あ、こいつ頭がおかしいんだな、いかれてる、近寄っちゃいけないな、と思わなくちゃならなくなっちゃうって言ってんのよ。まだ私の息子にこれで嫌われるだけならいいわよ。こんな見ず知らずのお嬢ちゃんにケガをさせるようなことしちゃダメでしょ。もし万が一お腹の赤ちゃんに何かあったらどうするというの。どう見ても臨月じゃない。あんたバカだから臨月って何かわかる?もうすぐ赤ちゃんが産まれてくるってことよ。本当死ねばいいのにこのタコ男。あんたみたいな人はこの人間界から去りなさい。バカでどうしようもない男なんだから、正義の味方がこの世にいたら、あんたなんか絶対悪側」
「これは本当は君への結婚指輪なんだ」アンドリューはそう言うと立ち上がり、白い発泡スチロールの箱のところまで移動した。そして彼はそれを再び抱え込むと、神妙な面持ちで話を続けた。「これはね、本当は君への結婚指輪なんだ。この白い発泡スチロールの箱の中には、大切な大切な君への結婚指輪が入っているんだよ。これは俺の意思表示なんだ。君への素直な気持ちなんだよ。俺は君と結婚したいと思っているんだよ。とても大切に思っているんだ。だからこの箱の中身が君への結婚指輪というのは本当さ。これ以上ない本当の話さ。人は結婚するとき、相手の人に指輪を贈るという。そして人々はそれをお互いの愛のしるしとしてお互いの指にはめ合うんだ。これはその話のそれさ。伝説のそれさ。結婚指輪なんだよ。結婚指輪。え、もしかして今俺の言っていること、君は嘘じゃないかと思っているのかい?とんでもない、どうしてそんな風に思うのかな。これは紛れもない結婚指輪だよ。箱のふたを開けてみればすぐにわかる話だけどね、でもね、本当はそんなことをしなくてもわかる話なんだよ。だってこの箱の中身はね、もう結婚指輪以外に変わることはないんだから。最初から結婚指輪が入っているんだから。箱のふたを開けずに箱の中身なんて取り出すことはできないだろ?だから箱の中身を取り替えることなんてできない。俺は君と結婚したいと思っているだけのただの男で、決してインチキ臭いマジシャンなんかじゃないんだからね」「じゃあ何で箱が発泡スチロールなの。やっぱりまるで冷凍マグロが入っていそうな箱じゃない!」ジェニーが言う。アンドリューもすぐさま言い返す。「それはもちろん魚屋で買ったからさ」「なんで結婚指輪を魚屋で買うのよ」「だってたまたま魚屋に行ったときあったから」「は?バカじゃない?魚屋に結婚指輪なんて置いてるわけないでしょ」「いやでもあったんだよ。ハマチ、マグロ、シャケ、ティファニー、みたいな感じで」「え、これティファニーなの?」「そうだよ、ジェニー俺たち結婚しよう」
ウィリアムはもちろん今目の前で何のやり取りが行われているのか理解できなかった。本当に今この瞬間たちの連続は何なんだろう!俺の頭にどのようにして残りたいのか。俺にこれからどのような記憶として呼び起こされたいというのか。さっぱりだ。これはもう気持ちのいいくらいさっぱりわからない出来事だ。俺が今気になるのは、地面に尻餅を着いた妊婦さんが本当にケガをしていないかってことだ。彼女が本当に無事なのかどうかということであって、おっさんたちの話はどうだっていいんだ。それはつまり自分の母親のこともどうでもいいってことになるんだけど、うん、そうだよ、どうでもいい。だってもう俺も二十歳越えてるしね。だから再婚することになった?どうぞどうぞ。むしろこのまま母親に一人でいられるより百倍ましだ。どうぞご自由に気の済むように後悔のないようにしてください。俺はもうあとは妊婦さんにケガの有無の再確認をしたら部屋に戻るよ。部屋に戻って、いつものバイトへ行く準備をしなきゃ。午後5時からなんだ。今日はコンビニのアルバイトが午後5時から夜の10時まであるんだよ。だからそろそろさようなら。この世界観から僕は消えます。僕の魚屋にはやっぱりティファニーの結婚指輪なんて置いてないから。
妊婦が言った。「う、お腹が痛い」
ジェニーがアンドリューの顔面に再びビンタを炸裂させて言った。「ほらやっぱりじゃない、やっぱりだ!やっぱりこの妊婦さんどこか痛めてるじゃない。あんたのせいでお腹を痛めてるんだってさ!絶対にこれはあんたのせいだよ。あんたのせい以外には考えられないね!まったくあんたは何てことをしでかしたんだ。何度も言うよ、あんたは本当にとんでもないことをしでかした!妊婦さんを傷つけてしまったんだよ。お腹の中の赤ちゃんにも今何らかの悪い影響が確認されそうなんだ。もし産まれてくる赤ちゃんに何かあったらどうする?さっきも言ったと思うけど、お腹の中の赤ちゃんにもし万が一のことがあったらあんたはどうするというんだい。箱の中身が本物の結婚指輪だったとしても、そんなもの絶対に貰えないよ、受け取れないね。もし貰ってしまったら、その指輪を見るたびに今日の出来事を思い出さなくちゃならなくなる、赤ちゃんとその母親に、彼女たちの家族や祖先や歴史にも悪いことをしてしまったと常に思いながら生きなくちゃならなくなる。私はそんな生活には耐えられないね。そんな毎日を過ごさなくちゃならなくなるんなら、指環なんていらないよ。そんなものに価値を認めることはできないよ。さあ早くあんた何とかしなさい。私のことやウィリアムのことはどうでもいいから、早くこのお母さんのことをどうにかしないといけないでしょ。どうするの。タクシーを止めて、掛かり付けの病院に連れていってあげなくちゃ」
「すみませんでした」
ジェニーとアンドリューが妊婦を連れてアパートの敷地内から去っていった。ウィリアムは一人アパートの敷地内に残されて、遠く離れていくタクシーからなかなか目が離せなかった。あいつら絶対に病院に着いてからも、いまもうすでにタクシーの中ででも!何かとんでもないことを起こすんだろうな。しかし俺は本当にバイトだ。本当に俺は今これからいつものコンビニへとアルバイトをしに行かなくちゃならないんだ。今の俺にとっての午後4時から5時とはそのような時間であるべきなんだ。大学の授業を軽めに終えて、さあ夕方からアルバイトだと心とからだの準備をする時間なんだ。だから今日のこの出来事が一体何だったのか、どんな意味を持ち、未来へと繋がり、他人や自分の後悔へと成り果てていくのかまだ俺は知らない。ただ一段落したんだ。一段落した、落ち着いた、一旦の区切りが着いたということは間違いないだろう。時計は大丈夫か?いつも通りカチカチとこの瞬間まで動いているか?そんなことさえ今はふと気になる。もしもあのインターホンが鳴ったときから今まで時計が止まっていたら、今目の前で繰り広げられていたことはきれいに夢だということになる。非現実の世界での出来事で、たとえばはっきりと幻だったといえるだろう。ウィリアムは時計を確認した。時計は順調に針を進めており、今午後4時をまわり、しっかりと次の午後5時を目指しているようだった。ふいにウィリアムの心にこんな疑問が生じた。果たしてそんなにうまくいくかな?本当に時計の針はこのまま午後5時の場所へとたどり着くことが出来るかな?いつも出来ていることだからって、今日もうまくいくとは限らないんだぞ。そして近い将来何もかもうまくいかなくなったとき、自分はいつの間にか幻の世界を生きていたんだと気付かされることになる。どんなことにも心底ワクワクし、準備をおこたらず、さぼらず、何が起きてもその変化を受け入れるためには、いつでもこれが最後だと思わなければならないのでは?今日ですべてが終わって何もおかしくないというためにはどうすればいい?そもそも首をふり、すべてが終ったあとでも、自分の周囲のものを冷静に見渡すことなんて可能なのだろうか。
ウィリアムが部屋に戻ろうとしたとき、道の方から彼を呼び止める声があった。恋人のサマンサだった。サマンサは言った。「ごめん、ちょっと遅れちゃった。なんか最近カラコン変えてから目が痛いんだよね」「今日はちょっと早めに出てブラブラしながらバイト行こうぜ」