いないはずの侯爵子息
俺は、元悪の侯爵子息の弟だ。
決して悪の侯爵子息ではない。元悪の侯爵子息の弟だ。
兄は生まれながらにして、侯爵子息長男として育てられていた。
侯爵家の後継ぎとして厳しく教育され、環境すら整えられた。
窮屈で閉塞的な世界の中でさえ兄がずっと息をできていたのは、ただひとえにその世界しか知らなかったからだ。
両親が厳しいことも、乳母がひどく叱ることも、家庭教師が褒めないことも、全て自分が後継ぎとして期待されていると思っていたからだった。
兄の世界がほころび始めたのは、弟の俺が生まれた日。
とても難産だったために生まれたときは家中が歓喜に湧いたそうだが、通常よりも小さく生まれてしまったために、かなり病弱であった。
優秀な医師を抱え込み、両親は俺の命をつなぎ止めようと躍起になった。
おかげで俺はこうして生きているが、災難だったのは兄だ。
両親は俺につきっきりになり、乳母は冷たく、家庭教師は厳しいばかり。
その時になって、ようやく兄は孤独を知ったのだ。
「……なんで、お前ばかり」
一番最初に聞いた兄の言葉。声はとても冷たく、固いものだった。
兄の声で目を覚ました俺は熱でぼんやりしながらも、あまり会えない兄が見舞いに来てくれたと嬉しくなり、手を伸ばした。
しかし俺の手は、兄によって鬱陶しそうに払いのけられてしまった。
その時の兄の表情はよく覚えていない。
苦しげに、どこか悲しげに俺をきつく睨んでいたことだけ覚えている。
どうして寝ているだけの俺が兄に睨まなければならないのか。
払いのけられた手をかかえて、ただ呆然と兄を見つめるしかできない俺から視線を逸らし、兄は早足で部屋を出て行く。
幼い俺には兄の様子をうまく汲み取ることができず、困惑していた。
やがて兄は俺を避け始めた。
勉強していると思い込んでいた両親は兄の様子にはまったく気づかず、回復してはまた寝ついてしまう俺ばかりを心配していた。
家中の者が俺を構い、兄はただ一人、孤独を堪えながら生きていた。
両親も、俺も、家中の誰もが兄の孤独に気づかなかったのだ。
兄の何に対して盲信していたのだろうと思う。
たとえ侯爵家の長男で後継ぎであろうと、あの時の兄はまだ子供だ。
自分に対して厳しいのは期待されているからだと、期待されているのは愛されているからだと、純粋に心から信じていた子供。
けれど俺という存在が現れ、過保護に守られているのを見てしまって、兄が信じていた世界は壊れ始めてしまった。
「……お前なんていなければ」
家を離れ、学校に入った兄はそう吹き込まれ、信じてしまった。
たとえそれが偽りでも、信じたくないことだったとしても。
兄の立場を利用しようと近づいてきた者であったとしても。
友人という、初めて孤独と無縁の名前の存在を得て縋ってしまった。
厳しくされるのは、侯爵家の後継ぎとして当然のことだった。
期待するからでも愛しているからでもない。厳しくされて当然なのだ。
愛されているのは自分ではなく、病弱な幼い弟だ。
いつ死ぬか分からない命なら、いつ死んでも構わないだろう。
病弱で役に立たない弟は必要ない。侯爵家に必要なのは優秀な後継者。
侯爵家に、世間に、世界に求められているのは侯爵家の後継ぎ。
「俺以外の者など認めない! 俺が、俺がこの家の後継者なんだ!
お前など甘い寝床で永遠に眠ってしまえばいい! 楽にしてやる!」
賢かった兄が、優秀だった兄が、堪えていた兄が、崩壊した。
表情は歪んで声ばかりが憎しみに満ち、目だけを異様にぎらつかせ。
両親が異変に気づいて部屋に飛びこんでくるのがもう少し遅ければ、限界まで首を絞めきられた俺は、すでにこの世にいなかっただろう。
俺は一命を取り留めたが、殺人未遂を起こした兄が許されるわけがない。
一族内では騒動もあったようだが、兄は貴族社会から放逐された。
貴族としての建前は用意しつつ、厳しい処罰と勘当を受け、一族が所有しているというひどく遠くの地に放逐された。
学校に入学するにあたって、俺が方々で噂を聞いて誤解をする前にと、両親が相談しあって全てを打ち明けてくれたのだ。
誤解をするまでもなく俺は全てを知っている。
兄から向けられた冷たい視線も、兄から投げつけられた言葉も、兄から首を絞められた痛みも。兄が抱えていた孤独の意味も。
家系図から兄の名が消えてから、約1年が過ぎた頃。
外に出られるまで快癒した俺は貴族たちの通う学校に入学した。
表立っては何も言われなかったけれど、腫れ物を触るかのような視線や気遣いには心苦しかったとしか言い様がない。
とはいえ、下手に特別扱いなどされるよりは良かったのだが。
だが一線を引かれてしまったため、学校という世界の中で俺に友人と呼べるほどの存在ができるわけがなかった。
一線と呼ぶにはとても曖昧で見えにくく、どこまでが踏みこんで良いものか、俺に訊くこともできないおかげで分からないのだ。
危うきもの触るべからず。確かに貴族としては仕方ない。
「何だあれ……人が波のように引いていくぞ……。いや波じゃない。
どんどん引いて……周囲に誰もいなくなったぞ……何だあれ」
俺がそれを目撃したのは、中等部に入学したばかりの昼休み。
屋上のベンチで読書していると、俺は中庭の様子に目を奪われた。
男子生徒が中庭のベンチに移動しようと歩き始めた所らしいのだが、周囲で談笑していた生徒たちはそそくさと移動し始めた。
いや、移動ではなく我先にと逃げ出したのだ。
自分以上に避けられている生徒なんていただろうかと思いながら観察していると、立ち止まっていた生徒はゆっくりと歩き出す。
硬直から抜け出し、肩から力を落とし落ちこんだ様子で。
興味を抱き、偶然を装って男子生徒と接触を試みた。
彼の顔は悪鬼になりかけていると思うほどに、ひどい悪人顔だった。
そもそもグレているらしく、取り付く島もないほど俺を避ける。
けれどあの落ちこんだ姿を見てしまったおかげだろうか、それほど怖いと感じないため事あるごとにそいつを構い倒すと、まるで野良猫が人に懐き始めるように、徐々に警戒をといていく。
少しずつ聞き出してみれば、なんとも根の良い奴だったのだが、悪人顔のせいでいらない噂や孤独を背負ってきたらしい。
けれど、あいつは一度も言わない。
何故俺ばかりと。こんな風に生まれなければと。
怖がられるほどひどい悪人顔だが、それを上回るほど優しい奴だ。
受け入れてしまった者を排除しきれない、優しい奴なんだ。
あいつに気づかれぬよう暗躍しているご両親も大変なのだろう。
一度だけ、息子と仲良くしてくれてありがとうという内容の、簡単だが温かく心のこもった手紙をこっそり頂いたことがある。
いつかちゃんとご挨拶してみたいものだ。
「……生徒会、大変なんだろ。手伝う」
愛想のない、悪く言えばグレていたあいつを構い倒して、ようやく俺にも慣れて、態度が落ちついてきた頃。
――現れてしまったのだ。
俺がそれを目撃したのは、俺たちの通う学校の高等部入学式。
学期末に前生徒会長から全ての引き継ぎを済ませて、新たに今年度から生徒会長となった俺の、最初の仕事だ。
基本的には進行の確認になるが、高等部へ入学した生徒たちへ堂々と祝辞を述べることこそ、今日の山場になる。
名を呼ばれ、品位ある立ち居振る舞いをもって壇上に立つ。
ゆっくりと祝辞を述べ始めた所で、現れてしまったのだ。
やかましく無粋な音を立てて会場に飛びこんできた遅刻魔が。
染めてるのかと思うほどのピンクブロンド、目薬をさしているのかと思いたくなる水色の瞳、貧血になりそうな白い肌、背も胸も、小さくも大きくもないという中途半端な体躯。
ホールに響く、耳に優しくない高い声。
「ご、ごめんなさいっ……!」
あ、こいつライバルだ。
暗記した祝辞が飛びかけた脳裏の隙間に、すとんと収まる設定。
ただし俺はここで、自分がかつて読みこんでいた小説の世界に転生していただなんて安易には思わないし、思えるわけがない。
遅刻魔の容姿にはとても既視感がある。
言ってしまえば、友人の境遇であったり学校で起こる事件や出来事などに、とても覚えがあるという感覚は多かった。
だとしても細かなところは省略されていたり省かれているから、明記されない空白に何が起きているかは、作者しか知りえない。
俺――こいつの友人の存在は小説では脇役も脇役だ。背景だった。
名前はなく登場人物欄にいない。挿絵にも顔は描かれていなかった。
明記されたのは貴族ということぐらいで、正直俺である可能性も低い。
そもそも友人が昔病弱であったとか、兄に殺されかけていたとか、最近まで友人がいなかったとか、小説にはまったく出てこない。
そんな脇役というより役割でしかない友人の俺が考えるのは、陰険なライバルにあいつを関わらせたくない。それだけだ。
読みこんでいた頃にも思っていたが、あいつに立ち向かってくるあの女ライバルが振るう手腕は陰湿だった。
高飛車な女性が素直になってくる、という傾向も好みも、一応分かる。
それでも今目の前に広がる現実ともなれば、可愛げもない。
貴族の子息や令嬢が通う名のある学校の、晴れやかな入学式。
生徒会長の挨拶の途中で飛びこんでくる品性のない遅刻魔は誰だ。
来賓方の頭にはそう浮かんでいるだろうし、生徒たちも式を台無しにされたことで不満げに顔を見合わせている。
しかし遅刻魔はわたわたと慌てるばかりで、席につこうともしない。
大げさな動作で、どうしようなどと大きく呟いている。
それだけならまだ可愛げもあるだろうが、ちらちらとこちらを見て驚いたような表情をするわ、壇上の袖あたりや生徒たちの方へ視線をうろつかせているのはいただけない。
まるで、想定していたものと違っているかのような動揺ぶりだ。
ちらりと壇上の袖にいるあいつを見やる。
厚い暗幕に隠れるように立ち、進行を確認していたあいつの顔は般若や悪鬼羅刹をかなぐり捨てて魔王になりかけている。
悪人顔だからじゃなく、普通に怒っている。
本当にあいつにも申し訳ない。
祝辞の内容を見てくれたり、会場設営も手伝ってくれたのに。
何とか笑顔を貼り付けて祝辞を述べきり、袖へと引っ込む。
「……おい」
「何だ」
「……あの女生徒、どうかと思うんだが」
「まあ、あれはさすがにな」
珍しく女性に対して怒りを現す友人。
俺たちの意見は同じ。あれは俺もこいつも近づきたくない。
蒸し返してほしくない、腫れ物扱いが落ちついてきた俺の過去。
悪の生徒会長で手を組むはずの兄なんて、ここにはいない。
2025年7月30日にまさかの日間ランクインに入ったようです。
ローファンタジー〔ファンタジー〕9位、異世界転生/転移〔ファンタジー〕38 位
びっくりしました。本当にありがとうございました!