ガラスの断面、木蓮の花
化学のことで明らかな間違いがありましたらお教えください……!
「日直より、まだ校内に残っている生徒に連絡します。本日の最終下校時刻の六時半を過ぎました。戸締まり、消灯、エアコンのオフを確かめて、直ちに下校してください」
結城先生だ、とすぐに思った。三十年もののおんぼろスピーカー越しでも、芯の通った先生の声はじんわり気持ちを温める。在校生の頃でも結城先生の放送を聞くのは何か月かにいっぺんくらいだったのに、またこうして耳にできるだなんて本当に幸せな偶然。校舎の奥へと足を進めると、生徒たちの喧騒の名残が蛍光灯に照らされて、きらきらと空中を漂って見える。今ここに通う子たちもきっと、人が来ないかを順番に見張りながらスカートのままでんぐり返しをしたり、山登り好きな現社の先生が一コマの授業で何回「実は」と言うかを真剣に数えたりしているんだろうな。「時計の針は進んでも、高校生は年を取らない」……いかにもありがちな台詞が浮かんでくる。
お目当ての第一化学室は、静まり返った理科棟の薄暗い廊下に、真っ白な光を惜しげもなく振りまいていた。失礼します、と一応つぶやいてドアを開けたけれど、予想通り人影はない。そしてこれも予想通りに、実験机の上には試験管や試薬の瓶が雑然と並んでいる。授業プリントが純水のボトルの脇に放り出してあるのに気づき、覗きこんだ。「実験3:鉄の化合物の性質(廃液はすべてその他金属)」と一番上にあり、その下には詳しいやり方が続いている。その途中の一か所、2,3滴と書かれたところが二重線で消され、鉛筆で2mLに直してあった。流れるように無駄のない、結城先生の筆跡だ。全体的に繋がり気味で右側に傾いているけれど、誰が見ても確実に読める。数字と記号に長い間親しんできた先生だからこそ、書ける字なんだろうな。たまらなくなり、手をのばした。先生の「2mL」を、人差し指の一番やわらかいところでそっと押さえる。まるでそれが、白衣のすき間からこぼれ落ちた先生のかけらででもあるかのように。
ぱたぱたぱた、近づいてくる足音が聞こえて、慌てて指を離し姿勢を正す。それとほぼ同時に、入り口のドアがからりと開いた。
「ああ加納さん、もう来ていましたか。席を外していてすみません」
大好きな結城先生の声が、今度はスピーカーを通さずに、直接わたしの鼓膜を揺らす。
「いえ、今着いたばかりですから。先生、放送の当番だったんですね」
はしたないかもと心配になるほど、どうしようもなく頰がほころぶ。先生は実験机に歩み寄りながら、つられたみたいに少し笑った。
「聞かれてしまいましたか。……何回やっても慣れませんよ」
片手を机に突き、わたしから顔を背けるように軽くうつむく。ふふ、という笑みともため息ともつかない音がその唇からは漏れる。
「今日は鉄の実験の予行でいいんですよね?」
訊ねると、先生は片腕に体重を預けたままこちらを見て頷いた。
「硫化物と水酸化物の沈殿生成は確認したから、あとヘキサシアニド鉄のとチオシアン酸カリウムのをやれば終わり」
そのときふと、一瞬のひっかかりが胸の奥をかすめた。
「あそこの試験管立ての右側四本はもういらないから洗ってもらって、それとそこの硝酸の瓶も後ろに戻しておいてくれますか」
……気のせいか。示された試験管を二本まとめて手に取ると、沈んでいた黒い澱が、濁った液の中をびらびらと舞った。わたしはそっと、結城先生に視線を移す。風格の染みこんだ白衣でほっそりした体を包んだ先生は、どこかここではないところを見つめているようだった。
「今って、もうすぐ学年末考査みたいな感じですか」
「うん、今週の金曜日から」
「じゃあこれ、テスト前最後の実験なんですね」
「そうだね」
高校で定期試験を受けたのも、もう二年も前のことなんだ。不意に胸を打った感慨が、試験管ブラシを握る右手に力をこめる。
「テストの問題はもうできたんですか」
「いや……」
「あら」
「来年度の時間割作成の担当になってしまって、連日その会議が」
結城先生はそう言いながら駒込ピペットを構え、試験管中の淡い緑色の溶液を電灯に透かした。
「同じクラスの中に文理も選択科目もばらばらな生徒たちを入れること自体、無理があるんだと思いませんか」
先生はふっと笑ってピペットを試験管に差しこみ、ゴム球を軽く押す。ぽとりと落ちた黄色が淡緑の溶液に出会った瞬間、インクのように鮮やかな青が湧き上がる。大学生になってからもずっと、週に二回ほど実験の準備の手伝いという名目で先生のそばにいさせてもらっているけれど、先生がこうしてぼやきを聞かせてくれるようになったのはごくごく最近のこと。ほんのわずかでも高校の頃より先生に近づけている気がして、何だか嬉しい。
「時間割って、パソコンに作らせてるんだと思ってました」
「よく言われますけど違うんですよ。おかげで、三四限が授業で昼休みは会議で五六限も授業で、お昼を食べ損なってます」
ブラックですねと言ってみると、まったくですよ、と先生は返す。
「このところ……ずっと、そんな感じで」
その声に、わたしははっと先生を見上げた。茶化すような調子の中に、思いがけないほど深い疲れの気配が潜んでいたから。まるで、左右非対称にできた天秤を、ぼろぼろの細い糸で無理やり支えて釣り合わせているみたいに。大丈夫ですかという言葉が、本当に喉のところまで出かかった。でも、試験管を持ちかえてこちらを見た先生は、わたしの表情の意味がわかっていないみたいだった。
「加納さん、鉄(III)イオンにヘキサシアニド鉄(II)カリウムを加えると、どうなるんでしたっけ?」
結城先生はいつもの調子で言う。胸を大きなへらでかき回されるような不安感を打ち消そうと、わたしは泡だらけの試験管の上で思いっきり蛇口をひねった。
「濃青色の沈殿が生成します。今先生がやってらしたみたいに」
勢い余って飛び出した水が、白衣の袖口に冷たく散る。
「そうですね、まあできる物質は同じですね。では、鉄(III)イオンにヘキサシアニド鉄(III)カリウムを加えると?」
「三価に、三価……」
そんなの、習ったことあったっけ?
「今の加納さんでも、知りませんか」
結城先生は白い頬を片方持ち上げ、楽しそうにピペットをつかんだ。
「こうなるんですよ」
見とれるほど洗練された手つきで黄色に黄色が注がれて、次の瞬間目に映ったのは、
「暗、褐色……?」
「そうです。大学入試ではまず聞かれませんけどね」
満足そうに頷いた先生の顔は、すっかり教師のそれだった。やっぱりだめだ、まだ追いつけない。本当の意味で結城先生に近づくには、先生にとっての「教えるべき存在」から抜け出さなくてはいけないのでしょうに。虹に向かって走るみたいに、焦りが高ぶり空回りする。
あとはこれだけと呟いて、先生は試薬の入った最後の試験管を取り上げた。
「……ああ、加納さん」
「はい」
「チオシアン酸カリウムを……お願いしてもいいですか」
そう言って先生は教卓に目をやる。つられて見ると、ペーパータオルの包みの隣に、プラスチック製の白い薬品瓶が立っていた。
「あっ、取ってくればいいんですね」
「ええ」
さっき洗ったばかりの試験管をつかみ、部屋の前の方へ向かう。ほんの五、六歩で到着し、お目当ての瓶のふたをくるくる回して取る。ゴム球を押した状態でピペットを差しこみ、注意深く指の力を抜いていく。ゆっくりと上がってきた液体は、色を持たない透明だ。コンタクトレンズのような形の液面が一の目盛りのところまで来たら、それ以上吸い取るのをやめてまっすぐに瓶から引き上げて……
「ッ、は」
突然わたしの後ろから、短く息をのむような音が聞こえた。一応振り向いてみたけれど、さっきと同じ場所に結城先生が立っているだけだった。何でもないかと向き直り、手にしたピペットに意識を戻す。試験管に溶液を入れて瓶のふたを閉め、元の実験机に帰ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう、ございます」
奇妙に硬い、切迫した声だった。どうしたんだろう? 視線を上げると、結城先生の顔色は白のアクリル絵の具で塗りこめたように不自然になっていた。
「先生? あの、先生?」
先ほどの音が蘇り、だんだん耳を埋めていく。
「大丈夫、だいじょうぶです」
自分に言い聞かせるように先生はそう繰り返し、今わたしが渡した試験管の中身を左手の試験管に一気にあけた。その瞬間迸ったのは、目を見張るほど毒々しい赤。
「三価の鉄イオンはチオシアン酸カリウムと反応し血赤色溶液を生成……ぁ、くッ」
「先生!」
白衣をまとった痩身が揺らぐ。先生は冷や汗の浮いた蒼白な顔で、赤黒い液体入りの試験管を突き出した。咄嗟にわたしは手を出した、しかし届いたと思ったちょうどそのとき、ガラス器具は先生の指の間をすり抜けた。
パリーン……
絶望的に澄んだ高音が、化学室の白い天井を突く。一瞬遅れてばさりと音がし、先生の姿が視界から消えた。はっとして下を見ると、飛び散った血赤色とくずおれた結城先生が同時に意識を貫いた。
「先生! 大丈夫ですか、先生!」
がたがたわたしは震え出す。助けを呼びに行こうと思うのに、壊れた蝶番と化した膝は全く役目を果たさない。
「だれか! だれか!」
先生の白衣に血液さながらの色が染みこんでいく。
「だれか! はやく! だれか……」
やわらかな朝日が、東向きの大きな窓から差しこんでくる。冬の冷たさの中に、桜のつぼみの優しさを秘めたような日差しだ。窓に面した首すじが光を受けて温かい。薄く盛り上がった掛け布団は明るく照らされ、寄り添うわたしの輪郭を淡い影として写しとる。
結城先生は、背を起こしたベッドの上で眠っていた。義務や自信や仕事の疲れや、その他のいろんな俗っぽいものたちから一歩遠ざかったその寝顔は、思っていたよりもずっと若かった。何百年もの間、こうして横たわったまま運命の誰かの口づけを待っているのだというような、汚れのない独特の雰囲気がそこにはあった。でもきっと、今目の前に見えるこの美しさは、先生のまとっていた「先生」という殻が壊れてしまった結果なのだろう。体内に潜む毒リンゴの気配から逃れようと、高校という閉じられた社会の中で無理に無理を重ねたことで、いつしか一線を越えて傷を作り、皮肉にも自らの手でリンゴの臭気を招き入れてしまったのだ。先生の、ヨウ素らしき黄色や塩化銀らしき黒色が染みついた指先と、入院着から覗く純粋に真っ白な鎖骨とを見比べて、わたしは不意にやるせない思いに囚われる。
左手の腕時計が九時半を指す。もう行こうかなと立ち上がりかけた、そのときだった。
「加納、さん……」
待っていた声が耳に届いた。
「あ! お目覚めですか。お邪魔してました、おはようございます」
「おはようございます。今日も、来てくださったのですね」
「はい。お加減はいかがですか」
「上々です、おかげさまで」
このところ毎日交わすやりとりだ。先生は点滴の繋がった細い腕を前に突き出し、うーんと伸びをしてみせた。あどけなくすら見えるその表情に苦しみの影がないのを確かめて、わたしはやっと笑顔を返す。どこかに違和感が残るのは、入院してからの先生が使う丁寧すぎる敬語のせいだろう。
出発の時間を十時まで延ばすことを決め、まだ心なしかとろんとした先生の顔を見るともなく見つめる。数日前までは、先生の状態が安定しきっていなかったのと、先生がわたしの訪問を喜んでくれているかがよくわからなかったのとで、一言三言会話をしたらすぐに失礼することにしていた。けれどおととい、もう少しいてほしいという意味のことを遠回しに言ってもらえたおかげで、時の流れが足をゆるめたようなこの空間に安心して身を委ねていられる。
「木蓮が……咲きました」
ささやくように先生が言い、視線で窓の外を示した。手で日をよけながら振り返って見ると、少し離れた場所に立っている木の枝の先の方に、紫がかった桃色の花弁が幾重にも重なってついている。
「本当ですね。いい香りがしてきそう」
室内に目を戻して言うと、先生は外を見たままわずかに笑んだ。
「加納さん」
「はい」
「白木蓮から始まる合唱曲があるの……ご存じですか」
「ええ、はい。一番は普通の卒業ソングみたいなのに、後半から急に歌詞が激しくなるあの曲ですよね。高一のときの合唱祭で歌いました」
「そう、それです。……お好きですか」
先生の微笑に、ひとひらの影がよぎった気がした。しかしその訳もわからなくて、わたしは素直に好きだと言った。
「そうですか……」
先生は自分の手へ、次いで点滴のパックへと視線を移し、落ちていく黄色い液体を眺め始めた。結城先生の一部になっていくその黄色は、倒れた日に扱っていたヘキサシアニド鉄溶液の、法案の可決を伝えるニュースみたいにぱっきりとした黄色とは違い、天気予報のお姉さんが出すお日さまマークみたいに柔らかな色だった。十数秒が経って、とうとうわたしが口を開こうとしたとき、唐突に先生は声を発した。
「加納さん。僕が、学生時代になりたくなかった職業って何だと思いますか」
「え……」
「ワースト一位が医者、二位が教員です」
一瞬、何が起こったのかと思った。慌てて先生の顔を凝視するが、その表情は変わっていない。穏やかな目を点滴に据えたまま、淡々と言葉を継いでいく。
「僕は元々、研究者志望だったんです。自動車のバンパーなどに使われる、より劣化しにくい素材を開発するために、複数のポリマーを様々な割合で混ぜ合わせて……大学院時代の僕は、毎日本当に夢中でした。研究は楽しかったし、向いていたとも思います。将来は大学に残るか、どこかの企業の研究所に入るか。その二択だと固く信じていました」
化学室の周りに貼ってあったポスターのタイトルが、わたしの脳裏を順にめぐった。めくるめく炭素骨格の世界、あなたを取り巻くポリマーアロイ……あれらは全部、結城先生の専門を反映したものだったのだ。
「でも……博士論文のための実験をしているときでした。僕はいつもの通りブチルリチウムをシリンジで吸い取っていて、そこで……倒れたんです。シリンジを落とし、この前のように中身を床にぶちまけました。……加納さんもご存じのように、ブチルリチウムは空気に触れると自然発火します。すぐに気づいて対処してくれた仲間のおかげで最悪の事態は免れましたが、もう少しで大火事になるところでした。実験室には爆発性のものもたくさんありましたから、場合によっては死人が出ていてもおかしくはなかったでしょう」
先生はそこまで言って一呼吸置き、わたしを見てにこりと笑った。
「僕はそのとき、悟りました。無理なんだと。どんなにやりたいことがあっても、またいつ倒れるかわからないような体では、研究を続けることはできないんだと。僕のエゴのために誰かが傷つくなどということは、あってはなりませんからね。……退院するとすぐ、僕は大学院を辞めて職を探し始めました。修士号と壊れた心臓以外に何も持たない僕にとって、この高校の化学科に空きがあるという話をいただけたのは不幸中の幸いと言っていいのでしょう。念のために、と友人に説得されて取った専修免許が役に立つ日が来るなんて、夢にも思いませんでしたけれど」
もしかしたら先生は、今までに何回もこの話を人にしてきた、あるいは話そうと反芻してきたのかもしれない。そんな気がした。そうでもなければ、こんなに重大な人生の転換点についてここまで軽い口調では話せないに違いない。自分の過去の経験を引きずり出し、つきまとうであろういろんなどろどろした感情を洗い落として、人に聞かせられる形のエピソードとして小綺麗にまとめるのはきっと容易なことではない。
話し疲れたようにまた点滴を見上げた目の前の人に、わたしは思わず呼びかけた。
「結城先生、あの」
「ああ、加納さん……もう、先生とは呼ばないでいただけますか」
「え……?」
「慶仁で、十分です」
ぞくりとするような自嘲の香りが鼻先をかすめた。
「もうすぐ僕は……あなたにとって、先生ではいられなくなるでしょうから」
「どうして!」
思いのほか高い声が、わたしの喉を飛び出した。
「それは、加納さん自身もよくおわかりでしょう。あなたは優秀です。どこまででも学べ、どこまででも行けます。対して僕は、もう高校を出られません。高校の中ですら、これからは試薬に触れるのを控えることになりますし」
そんなことない、と叫ぼうとした。先生はいつまでも先生です、と。でも不意に、何かがわたしを引き留めた。本当に、それでいいの? 今、白衣もまとわずここにいて、無防備にベッドに体を預けているこの人を、なお先生と呼び続けることは……この人との間に、わたしの方から線を引いて壁を作ってしまうことにあたるのではないの? まっすぐに見つめたその人の目は、放置された紅茶のように静まり返っている。わたしは冷えたつばを飲みこみ、次に発する言葉を決めた。
「わかりました。そう言われるのなら、もう先生とはお呼びしません。でも、そのかわり……これだけは、言わせてください」
何を、と問う目がこつんとぶつかる。
「今のわたしが化学の道に入ったのは、あなたのおかげだったということを。先生としてのあなたが、わたしの人生に目標を与えてくれたということを」
そして小さく息を吸いこみ、真っ白な角砂糖を落としこむように、そっと唇を開いた。
「……慶仁さん。ずっと、好きでした」
出会ってからの五年間で、初めて発するこの言葉。空気がすり抜けた前歯にも、上顎を弾いた舌の先にも、じわりと痺れるような感触が残る。先生、いいえ、慶仁さんの瞳は、はっと大きく見開かれた。沈んでいた茶葉が舞い上がり、シュリーレン現象の透明な糸まで見えそうだった。どうしてこんなに大胆になれたのか、自分でも訳がわからない。でも、長いまつ毛を伏せ、その間から潤いを滲ませた慶仁さんを見て、間違った選択をしたわけではないのだと思った。
「あの……あまり僕を驚かせすぎると、その……心臓に悪い」
慶仁さんはほろりと一粒、笑顔の溶けた涙を零した。
「僕は教員だったから、思っていても言えなかった」
胸がいっぱいにふくれ上がり、鳩でも飛び出しそうな気がした。掛け布団に投げ出された慶仁さんの右手を、両方の手で包みこむ。痩せてはいても、大きくてかたい、きちんとした男の人の手だった。
「人生と言う名の迷路は続きますが」
先ほど慶仁さんが持ち出した合唱曲に寄せ、言ってみる。慶仁さんはためらうように少しはにかみ、思い切ったように言った。
「僕たちの手は、握り合える」
そして慶仁さんはわたしたちの手を上に持ち上げ、光の差しこむ窓へとかかげた。
「ありがとうございます……千歳さん。これからもどうか、よろしくお願いします」
わたしはその手に頬をすり寄せ、こちらこそ、とささやいた。これからもずっと、できれば元気で。慶仁さんはそれを聞き、とびきり優しい笑顔で言った。
「無理をしなければ僕だって……この先もきっと、生きてはいけます」
慶仁さんの手の甲の、青く浮き出した血管をなぞり、祈った。この管が繋がっていく先が、いつまでも壊れずにいてくれますように。慶仁さんは何も言わず、わたしの顔を見つめていた。
太陽はもう、ずいぶん高い。あの枝の先の木蓮も、今ごろ温かく香り立っているのだろうか。