時計
ただいま、なんて言えない。
1Kに住んでいる私の部屋には誰もいるわけない。
よく、カバの『おかえり』のCMを思い浮かべる。
今日は高めのヒールを履いていったためか、右脚のむくみが気になる。
いてててて、と言いながら部屋に入ると年齢にそぐわないピンクのカーテンを習慣的に閉めた。
ルームウェアは決まっている。半袖に短パン。
短パンは高校の頃に履いてきたもの。
大学から東京へ出てきた時に母が段ボールにきっと押し込んだんだろう。
そういう昔から慣れ親しんだルームウェア…いや、部屋着が大好きである。
着替えた後に気が付いた。
あるあるかもしれないが、よく私は時計を外さないまま手を洗うことがある。
その時計が今日は気になって仕方なかった。
さっきの“男子”の投げ捨てた?いや、ふいに言ってくれた言葉が気になる。
『その時計ださいよ』
時計をまじまじと見る。時刻を気にしすぎた時計は可哀想に眉をしかめたように動いている。
20:20だ。
会社は定時で終わったはず―
その後、淡々と電話をしていた。
ふと携帯に目をやって、何時間話したか見てみた。
1:50と表示されている。約2時間話していたのか。
私はあの“男子”もそういえば電話をしていたなぁ…とふと思い出した。そして腕にまとわりつく時計に目をやった。
季節は夏だ。今日は湿っぽい空気が流れ、曇りがちになっていた。入道雲が出ると、夏は終わりを迎える。
まだそこまで雲に目が入らないが今日は梅雨に近いような湿っぽい1日だった。
汗でへばりつく時計を雑にはがしとる。
買い換えないとと思っていた時に、いきなり現れた謎の“男子”。その“男子”に皮肉られた汚い時計。
いくら今日はキレイめなパンプスを履いていったとはいえ、
お洒落は足元なんて嘘じゃん!と私はベッドにうつ伏せで
転がった。
『この時計は、捨てれないなぁ』
つい声が出た。私の本音だ。
汚くなってしまっている時計には綺麗な思い出がある。
中学受験の前日、試験票と持ち物を確認していたら
持ち物に時計、と書いてあったのである。
当時私は、腕時計を持っていなかった。
急いだ私は母に相談し父に買ってきてもらうように頼んだ。
父は会社から帰ると、私にピンクベージュの少し大人めの時計を私に渡した。
『持ち物を前の日に確認するとか、バカだなぁ。』
父は笑っていた。
笑っていた。
そこから私の記憶は止まっている。
いや、動がせない。
母が泣いている。
『お父さん、お父さん!!』
私は父に買ってもらった腕時計をずっと見つめていた。
父が事故に合った時間の前に戻らないかな、小学生の私には
少し大人めの時計を買ったのは これからもずっとつけてほしい、という意味だったのだろうか。平々凡々とした家庭で、平々凡々と3人で生きていく。そう父は思っていただろう。
私は母に寄り添って泣いた。
その日も今日のような蒸し暑い日だった。
母の身体は冷たくなっていた。ずっと病院で父が亡くなるまで
見届けていたからだろう。
私は、塾の帰りで友達とたわいもない話をしていつもより遅めに帰ってしまった日だった。
母の側にいなきゃ、父の代わりにならなきゃ。そんな強い思いで生きてきた人生になった。
ボロボロに汚れた時計を見ながら、私は嗚咽をもらした。
息も胸も苦しくなり、うつ伏せの状態から仰向けになった。
母のために、働かなきゃいけない。父の分まで。
その気持ちは変わっていなかった。
ただあの“男子”に言われたように、こんな時計(過去)にしがみついている自分がバカに思えた。
父の笑顔と今ある惰性の自分の状況が無謀にも、チクリと胸をさし私は初めて父からの形見を床に投げつけた。