“城壁内”のウィザードと白い妖精
――狂っている。
ミルクパンを電磁調理器にかけながら、テレビを眺める。流れてくる朝のニュースはどれも不快なものばかりだ。
政治家の汚職。一部の人間だけが得をする法案の可決。白昼堂々と行われた無差別通り魔事件。異常気象の二次災害による多数の被害と死者。子供の虐待の件数を表したグラフが出た後に、子供が親を殺した事件を映し、子供同士のいじめの実態をまとめた特集が流れる。
――まったく、何もかもが狂っている。
厭世的な感傷ではなく、ごく冷静に世界を再認識しながら、マグカップにココアパウダーと砂糖とバターを入れてよく練る。こういう手間がケイは意外と好きだった。ミルクパンで温めた牛乳をカップに注いで溶いてからマシュマロをひとつ浮かべ、少し考えて3つに増やす。
ちょうどよく冷めるのを待つ間に手早く後片付けを済ませ、淹れたココアを持ってとなりへ続く扉を開くと、そこは複数のモニターとキーボードが並ぶ冷房の効いた部屋だった。あちこちから伸びたコードやケーブルが中央に置かれた椅子に集まり、繋がっている。
椅子には、特殊な形のヘッドセットを着けたひとりの少女が座っていた。
背もたれに身体を預けてモニターを見つめるその目に感情らしいものは浮かんでいなかったが、ケイが入ってくると甘い香りに誘われるように振り向いた。
「グウェン、頑張ったご褒美だよ」
ココアを渡すと、表情の乏しい顔にほんのわずかだが嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「ゆっくり飲みなさい……ああもう、こぼして……」
カップを取り上げると、浮かべたマシュマロはすでになかった。舌先ですくい取ろうとして行儀悪くこぼしてしまったらしい。口元とアゴをティッシュで拭ってやり、カップを持たせると今度はゆっくりと飲み干す。
少女は満足げに息を吐くと、途端に目元がとろんとなり眠そうに頭が揺れる。
「もう寝るかい?……こーら、ダメ。寝るのは歯を磨いてから」
眠くなるのも当然だった。深夜過ぎからつい先程まで、ずっとハッキングを仕掛けていたのだから。
ヘッドセットを外し、足元のおぼつかない少女に洗面所まで付き添う。
「ほらほら、グウェンの好きなイチゴ味の歯磨き液だよ。ちゃんと磨いて、ゆっくり眠ろうね」
以前から知り合いの下津浦という新聞社の人間に頼まれて、医療島の電子的な厚く堅い壁を越えようと試みていたのだが、そのあまりの強固さと独自性に当初はまったく歯が立たなかった。プログラム的な欠陥が見当たらないのはもちろんの事、攻撃するたびに違う反応を示し、防御は堅くなっていくからだ。恐らくはニューラルネットワークのような学習しながら最適化していく方式を基礎概念としているのであろうが、現行しているものとは圧倒的にレベルが違い、試行錯誤どころか取っ掛かりさえ見つけられぬまま、かなりの時間があっという間に過ぎてしまった。
その突破口を開く糸口を手に入れたのはつい数か月前、思いもしない方向からだった。
――医療島への出向。
もともとイギリスの大学で神経科学を専攻していたケイが、日英共同の研究開発チームで働く為に日本へ来たのは約2年前。本拠地を筑波に置いていたその研究施設で新しく立ち上げられるプロジェクトのメンバーに抜擢されたのだ。
「……おやすみ、グウェン。いい夢を」
パジャマに着替え、ベッドに横になった瞬間に眠りに落ちていく。
気持ち良さそうに寝息を立てる少女を確認するとカーテンを引き、間接照明をひとつ点けて静かに扉を閉めた。真っ暗にすると、目を覚ましたグウェンが泣く事があるからだ。
ケイはそのままバスルームへ向かう。熱いシャワーで目を覚まし、まだ残る仕事を片付けるつもりだった。
3時間も眠れば充分なよう訓練されたケイとは違い、グウェンはまだ10歳程度の子供だ。
ハッキングの“相棒”であるグウェンは暗号を解読する才能があり、ケイひとりでは埒の明かない時に手伝ってもらっていた。といっても本人にはハッキングをしているつもりなどないし、もっといえば暗号を解いている自覚すらない。ただ目の前の文字列や数列に対して脳が反射的に演算処理し解を導くのだ。
警察からスカウトされてサイバー犯罪の捜査に協力するようになったのは、ケイがまだ16歳の時だった。義憤にかられて、というよりはむしろ力試しという気分で、政治家の裏帳簿を次々とクラックし、賄賂や脱税の実情をネット上で公開して警察と財務省をてんてこ舞いさせたのだ。
大炎上したネットの様子から、マスコミは犯人を“サイバー・ガイ・フォークス”と名付けて一部では義賊扱いで持て囃し、警察は躍起になってその愉快犯を捕まえようとしたが、結局捕まる事のないまま騒動は収束し次第に人々の記憶からは忘れられていった。
―――表向きは。
痕跡は残していなかったはずなのに警察に連行されたのは、騒ぎが沈静化に向かいつつあったある週末の午後だった。散歩中に突然数人の男に囲まれ、これといって特徴のないワンボックスカーにむりやり乗せられた時は胆を冷やしたが、連れ込まれた窓のない部屋で行われたのは尋問というよりはスカウトだった。連行時の強襲は灸を据える意味合いが強かったらしい。
あれだけの騒ぎを起こしたにも関わらず、お咎めなしというか連行された事自体を秘密裏に処理されたのは、偶然ケイが適当にターゲットにしたのが警察に悪質な脱税容疑でマークされていた政治家で、尻尾を掴ませないその抜け目の無さから立件になかなか踏み切れずにいたところだったというタイミングの良さと、ケイの暴露した情報の裏付け捜査の一環で麻薬に絡んだ余罪と、思わぬ大物が発覚したからだ。
「―――いい腕だ」
取り調べ室で開口一番にかけられた言葉は、怒号でも威圧的でもなくケイのハッキングの技量を認めるものだった。
こうして時折捜査に協力するようになったケイはその3年後、グウェン――グィネヴィアと出会う。
当時追っていた孤児院を装った犯罪組織が、保護を名目として身寄りのない子供たちを集め、嗜虐趣味のある金持ちや労働力として外国に売り飛ばし資金の足しにしていて、大がかりなガサ入れでかなりの人数の子供たちを一時警察病院で保護する事になった。自閉症で歳もはっきりしなかったその少女をたまたま見かけたケイが掛け合い、引き取ったのだ。
引き取った頃は怯えきり、自分の名前も分からない少女にグィネヴィアと名付けたのはケイだった。アーサー王の妻の名から取ったもので、“白い妖精”または“白い亡霊”という意味らしい。ケイ自身も父親の趣味で円卓の騎士から名を与えられたので、白い肌に銀髪という少女の外見にぴったりだと思ったのだ。
12歳で亡くなってしまったが、ケイには自閉症の弟がいた。まだ子供だったケイには、友達とは違う弟の反応や行動が恥ずかしく、両親の関心を独り占めする弟を疎んでいた。特に意地悪く接していたわけではなかったが兄らしくしてやる事もなく、亡くなってしまって初めて、もっと優しくしてやればよかったと悔やんだ。だから贖罪の気持ちがあったのかもしれない。少女が自閉症と聞いて反射的に申し出て、そんな気持ちに気付いていたのか相談した両親は喜んで賛成してくれた。
弟を亡くした後しばらく、ケイは医者を目指そうと考えていた。自閉症の治療法や、自分のような無理解な人間を少しでも減らす方法を探そうと考えたのだ。
だがその頃すでに、弟へのフラストレーションをきっかけにのめり込むようになっていたコンピューター技術とネットの世界で才能を見せ始めていたケイは、医者以外の道で自分にできる事を思いつく。当時の無茶なクラッキングは自分の力がどこまで通用するのかを試す為でもあった。
グウェンに暗号を解く才能がある事に気が付いたのは、引き取って少し経っての事だ。
だんだんとケイの家で過ごす事に慣れて落ち着いてくると、1番なついたのはやはりケイに対してだった。家にいる時には大抵そばにいたがり、無理に離すとその後毛布をかぶって出てこなくなってしまう。その為、グウェンはケイのそばでパソコンの画面を眺めている事が多かった。
その日も、いつの間にか部屋に入ってきていたグウェンは、ハッキング中のパソコンの画面を飽きる事なくずっと眺めていた。ケイがどこから侵入しようかと思案し何度も繰り返し探していると、突然グウェンが画面を指差した。驚きつつもよく確認すると、それがセキュリティホールだったのだ。
“サヴァン症候群”
自閉症患者の中にはそんな通常ではありえない特別な能力を持つ者があるという。
どうやらグウェンには、反復して見る事でその内容を理解しないままに頭の中で組み上げ、法則性やつじつまの合わない部分を見つけ出す能力があるらしかった。
濡れた頭を無造作にタオルで拭きながらモニターの前の椅子に身体を投げ出すように座り、ペットボトルの水に口をつけて一息つくと、今回のハッキングで得られたデータの整理を始める。
「“オペレーション・トロイ”というところだな」
とはいえ、事はそう簡単ではなかった。医療島内に入り込んだはいいが、問題なのはその間に立ちはだかる“壁”だ。そして最新の技術の粋を集めたこの島で、既成概念に縛られていては突破するのは不可能だった。
――まったく別方向からのアプローチ。
まさか本業の神経科学から派生した研究――その最終的な目標が、こちらに結び付くとは夢にも思わなかった。他分野からの発想が革新的な成果を得るというのはよくある事だとしても、運命とすら感じてしまうこの状況を、逆にケイは憂えずにはいられない。
「上手くいき過ぎている」
だからといってそんな根拠もない不安の為に、この依頼をキャンセルするつもりなど毛頭ない。むしろこの成果が研究の進捗を劇的に早め、グウェンの、そして他の自閉症の患者やその家族の為に役立つ事に期待している。
――上手くいき過ぎている?
ならば、その幸運の女神の微笑さえも利用する、それだけの事だった。