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医療島“アヴァロン”

『アヴァロン』とも別称される医療島は、正式名称を『医療網研究開発人工島/メディカルネットワーク・クラスタリング・アイランド』という。

島全体がひとつの医療機関として機能するよう都市開発され、医療島の中枢を担うスーパーコンピューターを介し『医療網』と名付けられた独自のネットワークで患者と医師を常に繋いで体調管理するだけでなく、西洋医学・東洋医学のみならず民間療法のような代替医療を含む古今東西さまざまな治療法を網羅し、既往歴・薬歴とすべてのカルテの某大な臨床データを電子化し共有する事で、患者にとってもっとも効果的な治療法を導き出し、施す事を目的としている。

傷病の解明・治療による改善、生命危機からの回復・生命維持、未病の治療、健康の促進、予防、薬剤・医療機器の開発等、医療に関わるあらゆる項目への“多方向から”のアプローチを目指し、その為、名称に単に集合体を表す“クラスター”ではなく“クラスタリング”を使用する事で、医療関係の企業や研究機関、教育機関を地理的にただ寄せ集めるだけの医療クラスターではなく、医療網に“接続”された島内すべての人と、医療・研究・教育機関、企業のデータベースを“共有”する事で“連携”を図るという意志を強調している。


医療網の実現には高度で大規模な演算処理が必要だったが、それを可能にしたのが2台のスーパーコンピューター『赤竜』と『白竜』である。

開発当時は次世代と謳われたスカラー型汎用計算機で、さらなる次世代機の試験運用の目処が立った為に医療網開発に回されたものだが、現在そのうちの1台が医療網を管理し、もう1台はバックアップとして稼動している。

当然ながらセキュリティが一番の問題になったが、医療網専用に開発されたファイヤーウォールは鉄壁で、安全性を示す為に開催されたクラッキングコンテストで侵入できた人間は皆無だった事からも、その性能は立証された。

とはいえ拭いきれない不安も根強かったが、それを補って余りあるメリットに、名乗りを上げる研究・教育機関、企業はかなりの数に上った。医療網に参加すれば、バックアップ用であるスーパーコンピューターを優先的に、しかも無償で使用できるのだ。産業分野の大規模シミュレーションが増えてきている現状を鑑みれば当然の結果で、さらに従来の医療体制や、学閥といった時代遅れの慣習に疑問を感じていた医療従事者、患者とそれに共感したたくさんの人々が加わる事で、ひとつの“意志ある都市”をつくり上げた。


このプロジェクトに参加する――つまり医療島島内で生活するすべての人間は、『PD』と呼ばれる特殊な装置を片耳と手首に装着する事で、医療網の総合管理システムの知的エージェント『モーガン』と常に接続される事になる。

具体的には、耳に取りつけた装置から脳波などの情報、手首に取りつけた装置からは脈拍や血液中の成分などの情報がモーガンによって絶えずモニタリングされ、体調の微妙な変化を常時記録・管理し、異常があれば即時に耳に取りつけた装置から注意を喚起したり、必要と判断されれば一番近い医療機関や主治医に通報する。

さらに、例えばひとりの人間が“インフルエンザで近所の診療所にかかり、歯の治療で歯科医院に通い、事故で怪我を負って救急病院に緊急搬送される”といった場合、診察や治療を受けた医療機関がバラバラであってもカルテとしてはひとつ、つまり“生涯カルテ”としてモーガンが管理する。

各傷病に対する所見や臨床検査の結果、レントゲンの画像、薬歴やアレルギー、経過や反応などに加え、体質や趣味嗜好、職業、生活習慣までを踏まえた個別の傾向を時系列順に、季節や天候、体調と関連付けてデータを蓄積し、傷病の進行・悪化時、再発時、新たな傷病罹患時の診断・治療、予防に役立てる。


その上、医療島が他とは違うのは、そこから一歩踏み込んでいるところだ。

いわゆる病院に通ったが、症状に改善が見られないので鍼灸や整体など施術所に通った、抗生物質に抵抗があるので薬を漢方にしたい、などのように、民間療法など別の角度から観点を変えて同じ症状に対応した場合も、西洋医学だけを医学とせず、患者の受けたすべての治療と経過をモーガンが管理する事で、詳細な情報と膨大な症例から患者に一番有効と思われる治療法を導き出す。

また、近くに同等の医療検査機器を持つ医療機関があるにも関わらず、学閥の都合でわざわざ遠くの系列医療機関に検査に行くよう指示されたり、医療機関を変える度にレントゲンを撮り直したり、医師が変わる度に同じ説明を繰り返す必要はなくなる。

島にある医療機関・施術所すべてを“ひとつの医療機関”とし、患者を中心に考え、傷病の治療を最優先とするシステムの開発を目的とした島なのである。


とはいっても、9本の柱によって支えられた人工島は、“研究所区域”など特殊な区分けをされている場所があるくらいで、見た目には普通の都市とそれほど変わりはない。

八角形を描く島の中心に、総合管理センター『アムブロシア』を置き、そこから放射状に延びる大通りで分けられた各地区はその用途によって特色を出しながら整備され、街づくりを行っている。

常時約6万人が暮らしていて、居住区域と適度に点在する医療機関・施術所、企業や会社、教育機関、図書館や美術館、警察や消防署はもちろん、あらゆる店舗、イベントホールや会議場、ホテル、ショッピングセンターなどのさまざまな娯楽施設だけでなく、たくさんの公園や遊歩道を整備し緑化にも力を入れる事で都市景観との調和を大切にし、また、何かのアクシデントから孤立した場合に備え、島の地下には全島民分の食糧や各備蓄品が約3ヶ月分確保されている。

島といっても本土との間に橋は架かっているし、事前に申請していれば入出は可能で、完全に隔離されているわけではない。ただし医療に特化した実験開発地域であり、その維持と機密保持、特殊なネットワークや機器を使用してのデータ収集を目的にしている為に、入出時には厳しいチェックが入る。

そしてそれが一時的であっても永続的であっても島に入る時には例外なくすべての人間に『PD』が装着され、島を出るまで外す事はできなくなる。


医療島プロジェクトが始動してから10年。

常時6万人を繋ぐ医療網は、その独自のシステムと積み上げられた某大なデータにより大きな成果を上げ、次の段階へ進もうとしていた。




「――場所は千葉県の向こう側だったっけ?」

行木が渡されたメモを見て首を傾げる。

“千葉県茂原市医療島”

あまりにもざっくりとした地理的把握に苦笑しながら、伊豫は不器用な手つきでマグカップを置いた。

「九十九里浜の南端ってところかな……コーヒーでよかったか?」

「ああ、サンキュー」

熱いコーヒーを一口啜ると、テーブルの上にあった医療島のパンフレットに手を伸ばす。

「なんだってこんな田舎につくったんだろうな。千葉なんて、成田より向こう側は行った事もないぞ、俺」

「その成田空港があるのが1番の理由じゃないか?」

「首都圏内で国際空港があるってんなら、東京湾内につくればいいじゃないか。羽田も近いし」

「あ、最初は候補に上ってたらしいよ。でも面積的に湾内は無理があったんだろうな。重要な港が多いし、京浜工業地帯やら京葉工業地域やら船の行き来も多そうだし」

「まあ、確かに邪魔になるかもしれないが。でも医療の看板掲げてりゃ、それほど文句も出ない気がするけどなあ?」

行木はこんな言い方をしているが、単純に場所に対して不満があるのではなく、気軽に見舞いにも行けないような区域である事が不満なのだ。それが分かるから伊豫は曖昧に笑うしかない。2人は大学時代からの10年来の親友で、別々に就職してからもたまに連絡を取り合っては呑みに行ったりと、互いに行き来は続いていた。

「……来週には出発だったか?」

「ああ。絶対に良くなって戻ってくるから」

「ったりめぇだ。みんな待ってんだからな」

そんな一言を当たり前のように言ってもらえる事が素直に嬉しい。

「に、してもスッゲーなあ」

パンフレットを流し読みながら、その厚さと内容に行木が感嘆する。

着工から完成まで20年、さらに本格的に稼働してから10年、ほぼ自分の人生と同じだけの時間を費やされた国家的プロジェクトである医療島“アヴァロン”は、ニュースで目にするだけの自分には縁のないはずだった場所から、命を繋ぐ希望の地となった。

「運が良かったと思うよ」

「悪運が?……はは、冗談だって。真面目に生きてきた結果だよな、お前の場合は」

医療島が新プロジェクトとして募った被験者に選ばれたのだ。その倍率、実に2500倍。

「変な機械ずっと着けてなくちゃなんないんだろ?」

「PDの事?まあブレスレットとイヤーカフスをずっと身に着けてると思えば、そんなに邪魔じゃないとは思うけど」

PD――もともとはフィジカル・デバイスの略であったが、医療島の別名アヴァロンにちなみアーサー王の父、ユーサーの称号ペンドラゴンの綴りと重ねて、“竜頭”とも呼ばれる。

「んで、フィジカルサポート・ナノデバイスを体内に注射する、と。……え、体内!?危なくないのか?」

「一応、この10年で事故は1度もないってさ」

「そうは言ってもなあ……」

体内にナノデバイスを注入される事に抵抗を感じる人間は、10年経った今でも少なくない。それこそが、このプロジェクトがわざわざ人工島という特殊な環境下で実施される事になった最大の理由だった。

島として隔離されているのは機密保持と純粋なデータ収集の為だけでなく、個人の意思を尊重し自ら選択した結果としてのみ存在し得る場を明確に区切る目的でもあったのだ。

つまりアヴァロンにいる6万人すべてが自らの意志で実験に参加しているという事で、だからこそ入島時には厳しい審査と検査、たくさんの契約書・誓約書へのサインが必要になる。

「島に入る前に、入口にある施設で検査やら説明やら準備やらで、丸1日は足止めされるんだと」

「さすがの厳しさだな」

それだけではない。見舞いなど外部の人間がごく短時間島に入る場合も、簡易タイプであるがPDを装着する事は義務付けられる。例外はない。

「つうかお前、なんであんなにニュースになった事を知らないんだ」

「ほら俺、ニュースってスポーツにしか興味ないし」

「そうだったな……」

「アヴァロンへ行ったらいろいろ教えてくれよ。こっちと何が違うとか、最新の技術だとか、生の声ってヤツでさ。ヤバ、俺モテちゃうかも」

「あーはいはい。ま、なんか面白そうな事見つけたらメールするよ」

「おお、期待してる」

「あ、守秘義務的なネタは教えられないぞ。追い出されちまう」

「もちろんだ。お前は直す事に集中して、その生活の中であの島特有のエピソードみたいなのがあったら教えてくれればいいよ……え、でもバレないだろ、別に」

「いや、ネットの回線は全部一度島のどこだかに集められて、そん時にマズイ内容は自動的にブロックされるし、外からのサイバーテロも受け付けない。島の中で使う分には、いわゆるスタンドアローンな状態らしい」

「マジか」

「そこまででないと安心してみんな参加できないだろ。稼動してからこのかた、あそこのファイヤーウォールは1度も破られた事がないって話だしな。医療を謳っているけど、既存のネットワークを超えたサイバー空間の構築も医療網構想のひとつに入っているんだから」

どことも繋がっておらず、独立した状態を指すはずのスタンドアローンが、どうして外と繋がっていながら実現しているのかは皆目分からないが、きっと頭のいい奴がなにか画期的な方式を考えたのだろう。なにしろいくら日本がスパコン大国と言っても、ちっぽけな島に2台ものスパコンがあるのだから、規模と期待の大きさも分かろうというものだった。

「なるほどなあ」

腕組みをして、しきりに頷く行木に、伊豫が胡散臭そうな視線を向ける。

「本当に分かったのか?」

「いや、漠然と“スゴイ”という雰囲気が分かった」

こういう奴なのだ。

「ところで、新聞社は辞めたのか?」

「一応こっちは退職願いを出したんだけどな。会社と話し合って結局休職扱いって事になった。ある意味“聖域”のアヴァロンに入るんだから、完治した暁にはその経験を活かした記事を書かせようって魂胆なんだろ」

分厚いパンフレットを発行しウェブサイトの内容も充実しているように見えるが、島から出てきた人間に中の様子を訊いても「守秘義務があるから」という理由で答えてはもらえない。

情報が制限されているのは明らかで、だからこそ記者として医療網を実際に体験できる事は、大きな強みになるはずだった。

「そっか。ま、帰ってきたら盛大に祝ってやるからさ。こっちの事は心配すんな。香子さんの墓は俺が時々見に行ってやるから、安心して早く良くなれよ」

「……頼む」

伊豫は3年前に奥さんとそのお腹にいた子供を一度に亡くしたのだ。以来、不眠と心身の不調に悩まされているが、部分的対処療法でしかない今の西洋医学では胸の痛みに対する心臓その他周辺臓器の異変、常につきまとう頭痛と耳鳴りに対する脳を含めた頭部の異常は見つけられず、通う心療内科でも改善の兆しは見られなかった。そんな折、医師に勧められ応募したのが、医療島での“身体的原因の特定できない慢性疼痛の改善”の被験者だった。

慢性疼痛はその痛みを完全に取り除く事は難しいとされているが、医療島では“慢性疼痛への新しいアプローチによる完全なる疼痛の除去”を目標にしていて、それに参加・協力する為に3年間の契約で医療島に移住する事になったのだ。

もちろん必要であれば、そして必要とされるなら、更新・延長する可能性もあるが、とりあえずはとにかく治療を受けてみるつもりだった。

といっても藁にもすがる思いで、とまでの必死さはなく、どこか他人事のように感じている自分がいる。痛みをこらえ、眠れない夜に苦しみながらも、もうひとりの自分はそれをどこか冷静に傍観しているのだ。それがいつからなのか、考えるまでもなかった。

「……おい、大丈夫か?」

「え?」

「なんか思い詰めたような顔してたぞ」

「ああ、うん。大丈夫だ。その為に行くんだからな」

その為?

一瞬引っかかりはしたが、この後も来客があるという伊豫に、行木はそれ以上突っ込む事ができなかった。深刻になり過ぎないようできる限りいつもの調子で別れの挨拶を交わすと、少しためらってから右手を差し出す。

「なんだよ?」

「いや、俺には何にもできないけど、せめて元気とかそんなんを分けてやろうと思ってさ」

「……しょうがねえな。もらっといてやるか」

憎まれ口を叩きながらも固く握手をし、それはそれ以上の言葉はなくとも再会の約束となる。

行木が部屋を後にし、伊豫はカップを片付けながらふと右手を見て、その手を握り締めた。

「悪い、行木。俺はお前に、そんな風に励ましてもらえる資格はないんだ……」



「―――調査、ですか?」

「そうだ」

医療島での被験者に決まり、まさか選ばれるとは思っていなかった幸運と、長くもないキャリアを天秤にかけて多少悩んだ上で退職願いを提出した翌日、打ち合わせ用の個室で伊豫は上司と向き合っていた。上司といっても直属ではなく今まで雲の上だった論説主幹の下津浦だ。思いもかけない布陣に戸惑いながらも、あと数日で関係のなくなる雲上人のお言葉を待っていると、切り出された話は意外なものだった。

「君にはあの医療島でいろいろと調べてみてほしいのだ。出来る限りで構わない。君もあの島にまつわる噂は聞いているだろう?」

「……技術がらみですか?利権や政治がらみですか?」

「ま、両方だね。基本的にその2つは絡んでいる事が多い」

大きなプロジェクトに必ずついてまわる黒い噂。それはこの医療島に関しても例外ではない。

「君はどのくらい知っている?」

「そうですね……」

どうやら力量を測られているらしい。

「まず技術がらみで言えば、第3のスーパーコンピューターの存在。稼動している2台の他に、実は秘密裏に開発に成功した量子コンピューターが存在しているのではないかという噂です。もし事実であれば世界的に誇れる一大ニュースであるはず。それを何故公表しないのか。“何か”または“誰か”に配慮したのか、それとも公表できない“何か”があるのか。

存在しないのであれば本当に1台で医療網を管理でき得るのか。いくら2台のスパコンを有しているとは言ってもあれだけの規模で医療網という独自のネットワークを布いて、しかも1台がバックアップだとすれば実質1台でまかなえるものなのか。あってもなくても疑問が残ります」

「ふむ」

反応から察するにこの方向であっているようだ。

「それから、医療網を実験するのにどうして人工島だったのか。隔離できる場所ならある程度手を加えればいくらでも確保できただろうし、海で隔離したいというのなら無人であれ有人であれ島の候補などいくらでもあったはずです。それが何故わざわざ人工島なのか、何故あの場所なのか。この手の場所や建設に絡む利権は、大抵分かりやすいくらい政治家と業者の癒着が見えてくるものですが、ここで見え隠れするのが、上之薗財閥。どうにも掴めないあの財閥が資金の実に2割を出資しているという――」

「ああ君、その辺りはいいよ。他には?」

ありきたりの癒着や影の財閥と噂される上之薗は、今は興味の範疇外のようだった。つまり政治がらみでありきたりではない何かが医療島にはあるという事だ。

聞いた事のある話の中で何かあっただろうか?下津浦主幹はどうやら政治と技術が絡んだ噂を御所望のようだが。

「……スパコンに関係する省庁といえば文部科学省、人工島建設で国土交通省、それに医療関係なら厚生労働省も絡んでの贈収賄などの汚職の話も聞いていますが」

主幹の表情が曇る。やはりこれも違うらしい。

「あとは立案の時点で、日本医師組合がかなりの圧力をかけてきたと聞いています。組合内部でも意見の違いから分裂したとか。当時の首相と厚生労働大臣が――」

とうとう主幹が片手を上げ、話を中断させた。

「私が余計な事を言ってしまったかな?誤解させてすまないね。君に調べてもらいたいのは、“あの島にいなければ調べられない事”だ。汚職や金の流れはこちらにいても充分調べられる。なにしろ“麗しき林檎の楽園”へ行くには俗世を一旦諦めないといけないが、政治業者たちにそんな勇気があるはずもない」

政治家を業者と表現する辺り、そしてそれを吐き捨てるようにではなく柔和に言ってのけるところにジャーナリストとしての冷静さを感じる。

ようやく質問の意図を理解し、頭のメモをめくった。

「医療網の治療への有用性、医療網やそのセキュリティの不具合、事故、不正、悪用などの実際、ナノデバイスの身体への影響、不自然に強固と言われるファイヤーウォール、一切出てこない不都合な情報……」

思いつくまま羅列すると、ようやく満足げな表情を見せた下津浦主幹が頷く。

「そう、外に向けて発信する為に体裁の整えられた情報ではなく、医療島で行われている本当のところが知りたいのだよ。だが今までの協力者は皆、こちらにアクセスした途端に音信不通になってしまう」

「アクセスした途端?」

「電話は通話中に不自然に途切れたりノイズが入ったり、核心になると聞き取る事ができない。メールやアプリなどを使ったコミュニケーションツールも、あの島でやり取りされるすべての情報がネットワークハブで独自の言語に書き換えられ、その際に内容によって自動的に削除され、その後アクセス不能になってしまう。暗号化したものですら、簡単に解かれてしまうらしくてね。電子的な方法ではまず不可能だった。郵送物は検閲でもされているのか外に出てこない。およそ思いつく限りあらゆる方法を試したのだよ。空き瓶に情報を入れて海に流す、なんて原始的な方法までね」

「でもあの島から出てくる人だっているでしょう」

「もちろんだ。ところが訊いても何もなかったと言うばかりで、調査すらしていない、いや、依頼した事自体憶えていない者もいた。何かを伝えようとしていたはずの人間すら、自分の間違いだったなどと、無かった事にしようとする。どうやら、伝えようとする行為自体がスイッチとなり、伝える意志を失くしてしまうらしい」

「……………」

徹底した情報管理の噂は聞いていたが、まさかそこまでの異常さとは知らなかった。

とはいえ、それが事実なら、だ。そんな事、本当にありえるのだろうか?

「……そこまで聞くと、自分なんかに何かできるとは思えませんが……」

歯切れの悪い返事だったが、下津浦主幹は微笑んだ。

「まあ、こんな話ばかりでもなんだから、報酬について少し説明しておこうか。まずは身分の確保。ひとまず休職扱いとし、こちらに戻ってきた際にはそのままここで働けるようにしておく。その時点で転職を考えていたら君の意思を尊重するが、とりあえず仕事の事は心配しなくてもいい。休職だからもちろん給与の何割かは支払われる。あとは情報に対しての具体的な報酬だが」

下津浦主幹はメモ用紙にさらさらと書き付けると、折りたたんでこちらに押しやった。

受け取ったメモを拡げ、思わず息を飲む。

「これは……」

数字は思いがけない高額さだった。ここまでする値打ちがあるのか。

「驚いたようだね。あの島の情報はそれだけの価値があると、我々は考えている。……どうだね?引き受けてみる気にはなったかね?」


――どうする?

条件を見る限り、主幹は本気のようだ。長い期間就業できなくなる社員に対して、これはかなりの高待遇だろう。休職願いを出していたら、普通なら依願退職を迫られるところだ。療養の行き先が医療島というだけで、この違い。それは不公平な事かもしれないが、ジャーナリストの端くれとしては会社の期待に応え、被験者に選ばれた幸運を大いに利用し、真実を白日に晒す為に精励するのもいいのかもしれない。

とはいえリスクも大きい。バレればどんなペナルティを受けるか見当もつかないし、最悪、島から追い出される可能性だってある。だが、追い出されてそれがなんだと言うのだろう。“被験者”というのはとどのつまり、治療法を探る、または試す為の“実験体”という事だ。

――俺は本気で治したいと願っているのか?

答えは否だ。妻と生まれてくるはずだった子供をいっぺんに亡くしてから、それまでの生活をまるで機械のように繰り返す毎日の中、心が動かなくなっていく自分に気付いていた。

天涯孤独だった自分に初めてできた家族を失ったショックは、別の人間を観察でもしているかのように冷静に客観視する事でしか受け入れられなかったのだろう。慢性疼痛や不眠の苦しみも、被験者に選ばれた幸運も、確かに自分自身の痛みで喜びであるはずなのに、すべてがどこか他人事のようで、だから今も目の前の提案に迷っているように見えて、実は投げやりにこう考えていた。

――ま、いいか。なるようになるだろう。

治せなかろうが、島を追い出される事になろうが、極端な話たとえそのせいで死ぬ事になろうが、自分にとって本当はどうでもいい事なのだ。

第一、なんだかんだと伝える方法について深刻ぶっているが、それだってできなかった場合は戻った時に直接伝えればいい、もっと言えば、自分で書けばいいだけの話だ。

そもそも暴き立てる真実自体、存在するのか。いやあれだけの規模だ。“何か”はあるだろうがそれを見つける事ができるかだって、何のツテもないあの島では確証がないのだ。

「……お引き受けします。成果は保証できませんが」

「そうかね。期待しているよ。君には向こうで人と会ってほしい。こちらに伝える手段は彼が考えてくれている。最悪その方法が無効だった場合は、情報を持ち帰ってほしい」

「わかりました」

多少緊張した空気が緩むと、思わずといった感じで主幹がひとりごちる。

「それにしても……」

その口ぶりは心の底から気持ち悪そうだった。

「おかしな話だ。いくら口止めされ、治療に対する恩義を感じているとはいえ、人間のやる事だ。一言も漏らさない、漏れてこないなんて事があるはずがない。それがあの島から出てきた人間にどんなに訊いても、感謝と称賛の言葉以外、肝心な事は絶対に話さない。不審な事などなかったと言うばかりだ。まるで無自覚な強迫観念、あるいはある種の暗示、洗脳でも受けたかのように……」



休職届など表向き必要な書面に記入し伊豫が帰っていくと、途中から呼ばれた光吉経理課長が書類を整えながら下津浦にさりげなく尋ねた。

「いいんですか、主幹?奴のあだ名、知らないわけではないでしょう?」

「もちろん知っているさ。ここ何年か、まるで死に場所でも探しているみたいにハードな現場ばかりを取材していて、付いたあだ名が“死にたがりの伊豫”だろう?だからこそ、期待しているのさ。たくさんの偶然の重なった“今”に」

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