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“奇跡”の始まり

ありふれた昼下がり。

よく晴れた空の下、小さな公園では近所の老人や子供たちが穏やかな日射しを楽しんでいた。まだ幼い子供の付き添いであろう母親たちは、噂話に余念がない。やがて子供には聞かせられない話題に熱中し深刻気に装った顔を寄せ合うと、監視の目から解放された子供が一人、ボールを追って公園の柵をくぐった。

いつもなら「危ないから柵を出ないで!」と金切り声が追いかけてくるのだが、それがなかった子供はそのまま転がるボールを捕まえる為に歩道から車道へと下りた。

わりと大きな通りで、店舗も交通量も多い事に比例して道路脇への駐停車も多い。

車道に落ちる際に段差の角に当たって跳ねる勢いを増したボールは、駐車した車と車の間から子供を連れ出した。

悲鳴のようなブレーキ音とガツンと重い衝撃音がし、周囲の人間が振り返る。

まさか、と否定したい予測がすべての人の頭に浮かんでいた。

「―――子供が撥ねられたぞ!」

悲鳴と怒号の上がる中、一様に眉をひそめて状況を見守るその視線の中心には、5歳くらいの子供がぐにゃりと転がっている。

集まる野次馬の中から、ようやく自分の子供の姿が見えない事に気付いた母親が、撥ねられた子供の見覚えのある服装に困惑しながら近づいていく。顔を確認して尚、状況が飲み込めない。

――これは何?どうしてこの子がこんな所にいるの?まさか車に轢かれた?どうして?だって私、ずっとこの子を見ていたのに……。

目の前の事実がゆっくりと沁み込み、吐き気と涙が込み上げる。

「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」

悲痛としか言いようのない声を上げ、母親が人目も気にせず子供に懇願する。

「悠くん目を開けてっ!お洋服汚したってもうママ怒らないから!お願いっ目を開けてぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ」

ぴくりとも動かない子供を抱きしめ錯乱する母親と、運転席から降りて取り返しのつかない目の前の状況にただ呆然とする加害者の運転手。大きくへこんだ旧い大型トラックのフロント。事故後すぐに呼んだはずも未だサイレンすら聞こえない救急車。

目撃したすべての人間が子供の生死は絶望的だと思い始めた、その時。


“奇跡”は起こった―――。


「―――っだってんだ?畜生!」

鳴り止まない電話と、理解と常識の範疇を超えたニュースに半分以上自棄になりながら、受話器を叩きつけて吐き捨てる。

雑然とした編集部では誰も彼もが戸惑いの表情を貼り付けて対応していたが、ひっきりなしに飛び込んでくる情報はどれも“奇跡が起こった”というにわかには信じ難い代物だ。

いつもであれば軽くあしらって切ってしまうのだが、ここまで口を揃えて同じような内容だといっそ信じてしまいたくなる。

「今日ってエイプリルフールだっけか?」

隣の席の同僚が大真面目な顔で確認してくるが、応じる余裕もない。

ここは安いゴシップが売りの週刊誌ではなく全国紙の編集部だ。しっかり検証しなければとても使えるネタではないが、本当にその価値があるのか。かといって取材しないわけにはいかない勢いに上の連中はどうするつもりだろうと、会議室に入ったきり戻ってこない編集長の席にチラリと目をやると、誰かが声を上げた。

「おい、この動画見てみろ!」

1台のパソコンに皆が集まり覗き込む。


――中学生くらいだろうか、演劇の稽古風景を撮っていたらしい。舞台中央で演じていた生徒が1歩踏み出した瞬間、突然頭上から何か黒いものが降ってきて、赤い飛沫が散る。

落ちてきた照明が重さで加速し、かなりの衝撃で頭部を直撃したようだ。悲鳴を上げる生徒、ただ立ち尽くす生徒、走り寄って血を止めようとする教師の姿をただ冷静に撮影していた動画は、やがて奇跡を映し出した。


「嘘……だろ……」

信じられない光景に、そんなありきたりな言葉しか出てこない。

「……やらせ、じゃないのか?」

「それにしちゃ、よくできてるが」

「待て、こっちにもアップされてるぞ。アメリカの動画だ」

「こっちはドイツだ」

どれもこれも即削除されてもおかしくない内容ながら、その往きつく結末はすべて“奇跡”へと収束する。

「まさか……」

感動に打ち震えるというよりも薄ら寒い空気が流れる中、電話だけがやかましく鳴り続ける。

突然現実感を増した奇跡が、悪い予感のように不安をもたらしていると、ようやく戻ってきた編集長が大声を張り上げた。

「何ボーっとしてる!さっさと取材に行かないか!この“奇跡”は明日の一面だ!!」



―――私の目はおかしくなってしまったのか?

看護師から処置室に呼び戻されるまで半信半疑だったのが、こうして目にしてしまっては信じないわけにはいかなかった。

つい先ほど死亡したはずの患者が、自分でも生きている事に驚いているかのように手のひらを握ったり閉じたりしている。ゆっくりとこちらに振り向いた少し幼さの残る顔は、まだ19歳だという事だった。

ほんの10分ほど前、確かに呼吸・鼓動の停止と瞳孔の散大を確認したのだ。困惑しながらも、すぐに検査の為の指示を看護師たちに出しながら、脈を見る。手に取った腕は温かく、脈もしっかりしている。

「気分は?」

「口ん中……血の味がする………」

看護師が水を持ってきて、口をすすがせた。

救急で運びこまれたこの患者は大工の見習いで、建築現場での仕事中に事故にあったという事だった。

「あの、こいつ、助かりそうなんですか……?さっき、死んだって……」

親方に電話で報告してきた付き添いの大工仲間が、戻ってきて処置室の喧騒に戸惑ったように尋ねる。

そうだ。さっき診た時、確実に死亡を確認した。誤診の余地のないほど確実に、だ。

2階の足場から落下した際に運悪く突き出した鉄柵が肺に刺さり、運び込まれた時点で失血と呼吸困難でほぼ心肺停止状態だったのだ。

「先生……」

青ざめた顔で看護師が呼び、致命傷となったはずの傷を指す。

「―――!?」

やはり、私の目はおかしくなったのか?

だが看護師たちも一様に、我が目を疑うように何度も傷を確認して、言葉を失っている。

運び込まれてから止血処置に奮闘したはずの傷は――

「一体、何が………」

――なくなっていた。



「お願いします!どうかうちの子を助けてください!!」

街の中心部からそれほど離れているわけでもないのに、少し車で走っただけで急に緑の濃くなる山中で、うっかりすると見落してしまいそうな横道に入る。舗装もされていない道を上っていくと突然目の前に現れる建物は、社殿のようでも西洋風なようでもあり、荘厳さよりはむしろちぐはぐな気持ち悪さを感じさせるものだ。その建物の一番奥、五芒星やら密教風の文字やら、やたらとシンボリックな装飾のされた怪しげな一室で、母親は涙ながらに訴えていた。

もともと体の弱かった自分の子が昨晩に発作で倒れ、意識不明になってから必死に教祖にお目通りを願って、ようやく午後になってそれが叶ったのだった。

「不浄のものは持ってきましたか?」

「はい、ここに。5千万円あります。午前中にかき集めました。これで全財産です」

「ならば、こちらへ。貴女を取り巻く穢れを浄化し、神への信仰心を見せる事で、きっと神は貴女をお赦しになりお子さんも助かるでしょう」

祭壇に組まれた松明では赤々と炎が上がっていた。

教祖は祭壇に立つと無造作に、燃え盛る松明の中へ札束を放りこんだ。

立ち上る炎がパチパチと爆ぜながら札の燃え残りを巻き上げ、紙とインクの燃える匂いが辺りを漂う。

しばらく一心不乱に祈祷していた教祖は、やがて母親に向き直ると静かに告げた。

「神は貴女の信仰心を認め、お子さんを助ける事を約束してくださいました。さあ早く、お子さんの元へ戻りなさい。神のご加護があらんことを」

母親が何度も何度も礼をして帰っていくと、祭壇の影にある入口から煤けた顔をした男が入ってきた。

「ご苦労さん」

「ちゃんと下でカネは回収できたか?」

煤けた男はわざとらしく手をはたきながら、にやりと笑う。

「もちろん。束の表が何枚か焦げたがほとんどは大丈夫だ。……しかし札の代わりに、わざわざ新聞紙を燃やすとはね」

「リアリティってやつが必要なのさ」

「あの母親、ガキのところに戻ったら愁嘆場なんじゃないか?こんな詐欺師に引っかかって全財産まで巻き上げられて、まったく、可哀想にな」

「いやいや、こんな小芝居一つで、一時の希望を得られるのならいいじゃないか」

憐れみなど欠片もない様子でたった今入った臨時収入の具体的な分け前について話をしていると、ノックの音がして信者の一人がうやうやしく入ってきた。

「教祖様、さきほど帰られた江渡さんから、お電話が入っております」

詐欺師二人はちらりと視線を合わせた。

なんだ?ずいぶん早いな。戻ったらガキがもう死んでいたか?

「分かりました。繋いでください」

信者の前なので超然と振舞いながら、頭の中ではもし何かこじれるようなら拉致してどこかに売り飛ばそう、などと考えている。

「ああっ教祖様!ありがとうございます!本当にありがとうございます!意識回復の見込みはないと診断された息子が、たった今――」

母親は感激のあまり声を詰まらせてから、信じられない言葉を続けた。

「――目を覚ましました!」



――死のう。

そう決めてしまった途端、心を締め付け重くのしかかっていたものが外れた。

こんなにも生きる事がつらいのなら、無理しなくてもいいんじゃないかな?

ずっと我慢してきた。耐えてきた。だけどこれがこの先卒業まで、ううん、もしかしたら一生続くのなら、もういっか。いいや。いいよね。いいよ。

うん、とひとり頷くと、ゆっくりと立ち上がり制服の埃を払った。

「痛……」

あたしが、ブスだから。貧乏だから。陰気だから。

それがいけない事だとは思わないけど、周りにとっては嫌悪の対象になる事は理解していた。いつだってあたしは誰からも見下されて、友達だっていなかった。

友達だと思ってた人も、影では悪口を言ってるのを知った時、あたしは誰にも心を許してはいけないんだと悟った。

中学生になっていじめはひどくなり、トイレや誰もいない教室や校舎の裏に呼び出されて、罵られては小突き回されたり蹴られたり踏みつけられたり、お金を持ってこいと言われたりした。

お母さんに嘘をついてお金を貰ってはあの人たちに差し出すたび、惨めで悲しくて、それ以上に一生懸命働いてくれているお母さんに申し訳なかった。

あたしが死んだらお母さんは最初は悲しむと思うけど、でも余計な出費が減って生活は楽になるし、あたしみたいな不器量な娘がいるより再婚とかもきっとしやすいし、陰気な人間がいて周りが不快な思いをする事もなくなるし、それに……そう、余計な酸素の消費もなくなって地球にも優しいし。

なんか考えるといい事ばっかりみたい。

だから、死のう。

身体の痛みよりも、誰も助けてくれないという胸の痛みには、もうこれ以上耐えられない。上履きで踏みつけられて、その冷たくて硬い靴底の感触はもちろん痛いし悲しいけど、それよりそんな風に蔑まれる対象であるという事実の方がつらい。

唯一の味方のお母さんには、だからこそ言えない。一生懸命女手一つで育てている娘が、嫌悪の対象でいじめの標的で、みんなからいない方がいいと思われているなんて、どんなにがっかりだろう。

それにしてもほんと、神さまっていいかげん。なんであたしみたいな出来損ないを創ったのかな。たぶんいっぱい創り過ぎて途中で面倒臭くなったんだろうね。ちょっとでも丁寧に創ってくれてたら、人から好かれてたかもしれないのに。

まあ、いいや。死ぬって決めたら、なんかホッとしちゃった。今夜はぐっすり眠れそう。最後だし、帰ったらお母さんにいっぱい優しくしてあげよう。

いつもうつむいてばかりの顔を上げ、夕陽の眩しさに目を細める。心が軽い。

――明日、あたし、楽になれるんだ………。



“成人するまで”

それが条件だった。

幼くして両親を失った資産家の娘の財産を管理する未成年後見人として、彼女の伯父にあたる自分が選任されたのだが、その期限を目の前にして私は焦っていた。

平たく言えば、管理運営の名のもと財産に手をつけ、投資に失敗したのだ。

むろん回収の為に奔走はしたが、簡単に取り戻せるような額ではなく、屋敷や別荘、所蔵の美術品といった動産・不動産とも、ほとんどが抵当に入ってしまっている。今はまだ気付かれてはいないが、時間の問題だった。

来年、あの子は20歳になり、事は公になるだろう。

信頼を裏切り非難の目で見られるのも怖いが、何よりこの歳で警察に捕まるのは耐えがたい。

「……そろそろ、だな」

時計を確認し、自分でも安堵とも緊張ともつかない溜め息を吐き出す。

妹夫婦には悪いが、死んでもらうしかなかった。

今、友達と別荘に遊びに行っている姪は、事故を装って近くにある崖から転落死させられる手はずになっている。

「悪く思わんでくれ」

今頃、あの子は……。



「所長………」

報告書から目を上げると、困惑と期待を込めて円卓の一席を占める女性を見つめる。

ざわつく会議室には今、20人ほどの役員が列席していた。

緊急招集がかかったのが夕食の時間帯だった為、食事を取り損ねて不機嫌そうだった役員たちは、だが報告書の内容に目を通すにつれ表情を引き締めた。

世界各国で報告された、“奇跡”の数々。それでもここに挙げられているのはほんの一部だ。

「本当に、これは……」

失うその先を継ぐはずの言葉。それを明言できるのは、世界でもこの場にいる数人しかいなかった。

「私たちの研究と実験の成果です」

「では、貴女の理論は立証され、我々の努力も報われた、と?」

「その通りです」

迷いのない肯定をしたのは、所長と呼ばれた女性だった。

スラリとした肢体に白衣を羽織り、歳は30代後半というところか。役員中最年少であるにも関わらず、会議室中の視線を集めても動じない様子はまさに、“統率する者”だ。

彼女は落ち着き払って言う。

「この島ではすでに、計画通り“科学的”に“奇跡を実現”していたのです。その効果が世界規模で発現しただけの事」

ざわめきはとうに治まっていた。凛と響く声が、有無を言わせぬ強さを持って聞く者を打つ。


「引き続き、管理と統制をお願いいたします。皆さんの協力なくして、このプロジェクトの成功はありません」

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