211話
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シャハは激しい音のしたドアの方に視線が行き、急に入って来た千夏を見つめて不思議そうに目をぱちくりしていた。
どうやら師匠達には千夏の叫びは聞こえても、何と言ったのかまでは伝わらなかったようで、器合わせの為に重ねていた手を離し、師匠は袖口で俺の噴き出した唾を拭きながら顔を顰めている。
「主様が、主様が穢されてしもうた……」
そんな中部屋の入り口で崩れ落ちるように膝を突き、勘違いも甚だしい事を呟き呆然とする千夏に近寄ると、俺はその頭に拳骨を落とす。
俺が師匠に云々されたなんて、怖気のするような事を口走った千夏に手加減も忘れた為にかなり痛い思いをした。
何故なら千夏の頭の固さは、まるでコンクリの壁のようだったからだ。
そこから「痛っ! 何をするのじゃ!?」っと千夏が顔を上げて驚いた表情を見せるが、俺の方がよっぽど驚いたわ! 熱を持ち痛む手を擦りながら文句を言おうとした所で、下から階段を上がって来る足音が聞こえ、慌てて冷蔵庫を閉め頭に被っていたターバン擬きを脱ぐ。
あちら側に居るもう一人の俺の耳に「あ奴、急にいったいどうしたと言うんじゃ?」と言う師匠の声が聞こえて、これで冷蔵庫を閉じても繋がりは切れてない事が分かり、師匠達には母さんが来たので扉を閉めたと説明していた。
「あきひ……あら? あなたそんな服持っていたかしら? まあいいわ。それより千夏ちゃんが急に飛び出していったと思ったら、さっき妙な事を叫んでいたのはどういうこと?」
「あ、ああ、俺にもさっぱり。急に部屋のドアを蹴破って中に入って来たと思ったら、千夏が突然叫んで意味が分からないよ。だいたい俺がこの部屋で手籠めって、無理があるだろ?」
「違うのじゃ! 我は確かに見「千夏は黙ってなさい! 変な事を言って俺を困らせるな」……むぅ」
俺はそんな事をされた覚えは全く無いので、自然とそう口にできたのに千夏が余計な事を言いそうになって黙らせる。少しばかり不審そうな視線を受けたが、母さんは俺の様子を見た後に右斜め上に視線を移し「うーん、そうよね。服は乱れてないし、いくらなんでも明人が浅黒い爺専の分けないし……」と千夏に負けないくらいとんでも発言をぼそっと呟いたけど、変な事を想像しないで欲しい。
ただ、下手に突っ込むと危険と思い聞こえてないふりをする。まさに触らぬ神に何とやらと言う奴だ。
「ところで、あなた昨日恭也さんに用事があるって言っていたけど、部屋に籠って碌にお昼も食べずに、何時になったら出掛けるの?」
「そ、そうじゃ! 主様は昼餉も食べずに駄目であろう。あんなに美味いものを食べぬなど、主様はその内罰が当たってしまうぞ!」
母さんは思い出したかのように、恭也さんの事を持ち出して言うと千夏は「お昼も食べず」に反応して、今どき妖のくせに罰が当たるなんて言い……寧ろ妖だから言うのか? 兎に角千夏の様子から察するに、昼に食べた物が余程美味しいと感じたのだろう。
千夏の様子から察するに、七十年も前の食事と現代の食事では雲泥の差が在りそうだ。今も食べた物を思い出したのか、千夏は口の中に溢れる唾を呑み込み、ゴクリと喉を鳴らしている。
正直に言えば部屋で揚げ物をちょこちょこ摘まんだから、そんなに腹は空いてないのだが、命名式に関してはあちら側の俺に任せて、少し食べたら言われたように出掛けようと思う。何故なら箱根崎の怪我の悪化は、俺の仕業らしいので見舞いも兼ねて、不自然じゃない程度に治すつもりだからだ。
「そうだ、うっかり忘れる所だった。少し食べたら千夏を連れて、ちょっと恭也さんの事務所まで行ってくるよ」
「もう、そんな重要な事は忘れちゃダメでしょ? 明人は言うなれば千夏ちゃんのお父さんでもあるんだから、もっと確りしなきゃ。お昼は今暖めてあげるから、きちっと食べてから出掛けるのよ?」
「あっあっ!主様があまりお腹を空いてないなら、我が代わりに食べてあげても良いのじゃぞ? 空腹でもないのに食べて大丈夫かや? 我慢せずに無理ならちゃんと我に言うんじゃよ?」
母さんが出掛けるなら昼を食べろと言うと、千夏はハッとした表情になった後俺の後を着いて回りながら、食べ切れるのかを心配……もとい物欲しそうにしていた。
まだ食べ足りなかったのか、テーブルに着いた後も温めて貰ったトーストと目玉焼きに生ハムとサラダを箸でつっつき、俺が少しずつ食べ出すと横にくっつき口を開ける度に此方を見ながら、同じように「あ~」と口を開ける。
その様子を簡単に説明するなら、まるで鳥の巣で口を開けて餌を待つ雛鳥のようだ。
流石に食べるのに集中できず、母さんの方へ助けを求めるように視線を送ると、困ったように笑いながら頷いたので、千夏の口へも突っ込んでやるとムフーと鼻息を立てながら頬張り、目を細めて満足そうな笑顔を見せる。
そんな千夏の顔を見て俺はハムスターを連想し、母さんは頬を弛め千夏を膝の上にあげると、頬ずりをしてギュッと抱きしめていた。
食事が終わり、母さんに着替えて来ると言って千夏を残し、二階へ戻ると冷蔵庫を開けて師匠へ『疎通の指輪』を返す。ある程度片言でも喋れるとは言え、これが無いと師匠も困るのだ。因みにもう一人の俺の身に付けていた物は、複製された時点で固定され、体からか離さない限りはそのままだと言う事が分かったので(ターバンをあちら側でも脱ぐと、少ししてフッと空気に融けるように消えててしまった為)、仕組みは今の所よく分からないが、偶々嵌めていた『疎通の指輪』が増えた事は僥倖だと言えた。
「俺ちょっと用事が出来たから、この後は中身も共有しているしそっちの俺に任せるんで、師匠頼むね」
「ふむ……まあ、そこから顔を出すだけよりも、こうしてもう一人お主が居る事の方がワシとしても都合が良いしのう。あい分かった任せるがよい」
「アキートの様子を見ると、もう一人自分がいるのは中々便利そうだな」
師匠にはあちら側の俺も、こちら側の俺も中身は一緒だと伝え不安が無いとは言えないが、多少の事は師匠とシャハがフォローしてくれるだろうと思って、千夏を連れ俺は恭也さんの事務所へと向かって家を出る。
しかし、そこからが大変だった。
何が大変かと言うと、こうして千夏を連れて外に出たのはいいが、外で見る物全てが千夏には新鮮であり、知らない物に溢れていたのだから言うなれば、未知の玩具が詰まった箱を、子供の目の前でひっくり返して見せたような物だった為に、目を輝かせ「主様! あれは何じゃ!?」が連続して飛び出し、兎に角目につく物を指差し大きな声で尋ねてくるのだ。
千夏の手を繋いでいなければ、きっと何処までも興味のまま走って行ってしまった事だろう。
お蔭でやたら目立つ上に、周りからも注目を浴びてしまい視線が痛かった。
更に言うなら、千夏は妖とは言え元は艶やかな美女なので、今の姿の容姿は抜群に可愛いので仮に黙っていても、視線が集まっていた事も否定できない。
明恵の外行きの白いワンピースを着て、大きなリボンのついた帽子を被り、足元は涼しくサンダルを履いて、ちょっと良いところのお嬢様みたいだ。
そんな可愛らしい子と一緒に居る俺は顔の共通点はあまり無く、何処から見ても年の離れた兄妹には見え難い上に、千夏が俺を呼ぶ際“お兄ちゃん”ではなく“主様”なのが、余計に妙な視線を集めているに違いなかった。
これで千夏が笑顔で俺と手を繋いでいなければ、きっと誰かが通報していたのではないかと容易に想像できて冷汗を掻く。
仮に警察でも呼ばれようものなら、戸籍がまだない千夏は怪しい事この上なくややこしい事になったに違いない。
これならタクシーでも呼んで行けばよかったと、後悔し始めた所で千夏の質問に答えながら商店街の近くまで来たのだが、そこで何処かで見た覚えのある顔を見つけ、その相手が誰だったか頭を捻る。……どうにも俺は、人の名前を覚えるのが苦手なので、忘れてしまう事の方が多いのだ。
「つい最近の事なのに、誰だったああああっ! 思い出した!」
「主様、何をそんぶっ」「シーッ! 千夏静かに!」
俺はその名前を思い出し、ズボンを引っ張って声を出そうとする千夏の口を途中で遮り注意を促す。視線の先の人物は、そんな俺達を気にも留めず商店街の雑踏の中に紛れ込んで行った。
「あいつ、館川だよな……。こんな所で~て言っても、停学処分中だし昼間に居ても別に不思議じゃないか」
「ぷは。主様、我と言う者が在りながら、あの女子が気になるのかや?」
「あ、いや。気になると言えば間違いじゃないが、言っておくけどお前の考える様な意味じゃないからな? 単にあまり関わり合いになりたくない相手だってだけだから」
「何じゃ、主様がコソコソしておった理由はそんなことかえ? 心配して損をしたのじゃ~。あっ! あの回っているのは何じゃ!?」
俺は千夏に手を引かれ、そのまま指差す赤と青が回る看板の説明をしている内に、この場で館川を見た事など直ぐに忘れたのだった。
つづく