144話 届いた悲鳴
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分かる範囲の気配を辿る限りでは、結構な数がこの狭い空間の先や左右の壁からも感じ、かなりの至近距離にまで近付かれたと確信する。
先程ここに来た時は、あの子が受けた仕打ちを思い怒りが湧いていた。
だけど今はそれさえ頭の中から抜け落ち、目の前に在る闇と迫りくる何かへの恐怖が全てを上回り、すっかり心が萎縮してしまい胸に点った火も消え、腰が引けている自分を情けなく思う。
今この食いしばった口を開けば、言葉にならない何かを叫びだしそうだった。
目の代わりに鋭敏になった聴覚が、相変わらず嫌になるくらい何かが蠢く音は健在だと、拾い上げた情報から聞き間違えようが無いと告げる。
実はこのまま腕を前に振れば、見えないとは言え相手を殴れるんじゃないかと錯覚してしまうほどだ。
その時不意に顔へ何か柔らかい感触と衝撃を感じはしたが、最初自分に何が起こったのか理解できず「あっ」と滑稽で酷く間抜けな声が漏れた。
だが同時に『今の何!? 何んなんだ!?』とその得体のしれない物がとても怖く感じ、いっぺんに頭の中が真っ白になる。
左手に握ったスマホの明かりも消えた今、前が全く見えずこの暗闇の中でいったい『何が当たった』のか分からないまま、次々にそれが体の彼方此方へ連続してぶつかり始めると、パニックになりかけ湧き上がる衝動と恐れで、「あああああ!?」と意味の無い喚き声を発して、本能のまま勢いよく拳を前に振り払った。
その瞬間“ぐにゃっ”とした感触とそれが発した「チチュッ」と言う“鳴き声”で、今まで俺に体当たりをかましていた物が何なのか、頭の隅で理解したけど今の振り払った俺の一撃が、どうやら“この群れ”の行動を次の段階へ押し上げるスイッチとして、働いてしまったらしい。
「く、来るなー!」
と、やっと歯の根を鳴らさず意思と意味が噛合った言葉を叫びながら、兎に角腕を必死に振り回して“それら”を近寄らせない様に威嚇をするが、それまで鳴き声一つ上げずにいた群れの中から、「チッチッ」とまるで意思を持った存在が、全体を統率するかのような“鳴き声”を出す。
反射的にその鳴き声の発した先へ視線が吸い寄せられ、光が差さない空間にも拘らず、そこに細長い形をした姿が薄ぼんやりと浮かび上がる。
その鳴き声を発した存在は、今まで何処に隠れていたのか分からないが、いよいよもって辺りに漂っていた気配から、俺に対し明確な敵意を感じ始め、とても小さな二つの光点が、俺にアレは奴の“瞳だ”と言う考えを生み出させた。
途端、その小さな二つの組み合わさった光点が、伝播する様に辺り一面に灯り始め、こんなにも数が居たのかとゾワリと新たな悪寒を生みだし、全身へ震えが走る。
そして意思を感じさせる最初の光点以外の、無数に犇めく全ての眼球の、どろりと濁った風な黄土色の無機質な“光の無い瞳”が一斉に俺を捉えた。
それまでギリギリ耐えていた俺の精神と本能は、無意識に逃亡をし始め後退りする事で露わにし、互いの見えない拮抗に致命的な亀裂を生んだ。
ざりっと言う砂利を踏みしめる音に酷くビクつき、思わず自分の足元へ視線をずらしてしまう。
瞬間、山が動いた。
先程までの体当たりをしてきていた鼠達が、今度は己の最大の武器である前歯を噛み合わせる音が耳に届き血の気が引く、恐怖で振り続けた腕に冷たい小さな無数の手足が張り付くと絶望と同時に、鋭い痛みを伴う。
足元からも腕と同じ痛みが襲い始め、脳裏に浮かんだのはただ一つ。
こんな場所で、食われて終わりを迎えるなんて絶対に御免だ。
「痛っ! このっ! やめろ! やめろ来るな! やだ、助け……いやだーー!」
一方的に齧られどうしようもない悔しさと、胸や肩にまで這い上がって来た鼠達の不快な感触に対し、最後に心の奥底に怒りが甦り何かが軋む音を聞いた気がした。
「ねえ真琴、石田君一人で中に入っちゃったけど、本当に大丈夫かしら? あの穴は狭いし汚れそうだから、私は全然一緒に中へ行く気なんて微塵も無かったわ。でも動き難いからと言って、皆で行くのはダメと決めたのは正解だとしても、やっぱり貴女も彼の事、心配よね?」
「奏様の仰る様に全く心配してない、と断言すれば嘘になりますが。先程の石田を主と述べる刀の付喪神を見た後では、万が一と言う事も無いでしょう。それに何かあれば声を出せと言いましたし、無事に戻って来る筈です。……もし奏様が、それほど気になるようでしたら奴に電話でも掛けて、励ましては如何ですか?」
「あっ! それは良い考えね。真琴に言われるまで電話があった事をすっかり忘れていたわ。でも石田君が中に入ってまだ十分と少々位でしょ? 早々何かを見つけたりなんてありえないし、ちょっと早過ぎるかしら。ただ、瀬里沢さんがどうしても彼に電話を掛けたいなら、私は止めないけど」
「う~ん電話は考えておくとして、宇隆さんが言ったあの刀、確かに凄い力だったけどさ、最後浮く力も足りなくて地面に落ちていたんじゃ無いかな? そんなので石田君の役に立つと思うかい? あの中って狭くて刀何て振れそうもないし、寧ろ邪魔になると僕は思うよ」
私と真琴、それに瀬里沢さんの三人で石田君が側溝に降りて、中へ入った場所を見下ろしながらそんな事を話し合っていると、中から微かに石田君の声が聞こえた様な気がして、少し自分の耳に自信が持てず二人の顔を見てしまう。
……どうやら二人にも声は聞こえたらしく、互いに『本当に?』と油性ペンで顔に気持ちを書いてあるように思え、気のせいでは無かったと頷き返す。
瀬里沢さんが、慌てて自分の携帯電話を取り出し、石田君へ電話を掛けているようで、すぐさまここからでもその内容が聞こえてきた。
「お掛けになった電話は、電波の届かない場所にあるか、『電源が入っていない』為お繋ぎ……」と、テンプレートなガイダンスが流れてくる。
そんな折、また石田君の声が中から響き今度は「……るなー!」と後半は確かに
単語に近い語句だった。
電波は少し怪しいけれど、準備不足のまま仕方なく明かりの無い暗い場所へ行く為に、先程瀬里沢さんから変わった使い方の機能を教わったばかりで、間違っても“電源を自ら切る”なんて事は有り得る筈がない。
今の声で更に危機感を募らせたのか、そのまま瀬里沢さんは側溝へと飛び降り、中へ進もうとして咄嗟に同じように下へ降りた真琴が、肩を掴んで止めに入る。
「落ち着け瀬里沢! 今お前が中へ入った所で何か出来るのか? ここは私に任せて、お前は恭也さんを急いで探しに行け。少々暗くとも安永ほどでは無いが、私とてある程度なら気配を掴める。奏様、何分急な話しですがこの場は私にお任せ下さいますよね?」
「そうね。真琴、貴女の言う様に石田君に本当に何か遭ったのなら、ここで躊躇している時間は無いわ。行きなさい! ただし絶対に二人とも無事でなきゃ許さないわよ? 瀬里沢さんもそれで宜しいかしら?」
「……これはちょっと僕が早まったようだね。宇隆さんの言う様に僕は恭也さんを探しに行くよ。ただその前に本当に電波が届かないのか確認してからだけどね」
私と真琴の提案した事に答え、少し緊張した面持ちを気遣ったのか、瀬里沢さんは私達二人に向かってウィンクした後、電波を確かめる為に側溝の続く穴へと身を潜らせたのだけれど、同時に奥から石田君の“いやだーー!”と言う、切羽詰まった様な叫び声がはっきり聞こえ、思わず「嘘っ! 石田君!?」と声が出てしまう。
最悪の予想が頭を過り、一瞬息が詰まるような苦しさを覚えるが、口を引き締め瀬里沢さんが消えた入口へ目を瞠る。
真琴も今の声を聞いて動揺したのか、横穴へと通じる入口へ近寄ったまま、瀬里沢さんが戻ってこないので、その動きを止めた。
そして、私達は思いもよらない様な事を、一日に二度も目撃する事になる。
側溝の横穴の中から轟々と冷たい風……、既に嵐と言って良いくらいの風圧が中から発生し、その風の流れがスカートと髪を舞い狂わせ、入り口の傍に立っていた真琴に向かって、外へと吹き飛ばされてきた瀬里沢さんが互いにぶつかり、側溝のコンクリートの地面へと転がった。
更に夏だと言うのに、小さな氷の結晶が混ざる風が吹き荒れ、暴れる髪とスカートを押さえながら必死に様子を窺っていると、無数の半ば凍り付いた鼠が奥から次々に吐き出されてくる。
もう私には、石田君の安否もこの奥でいったい何が起きているのかも、予想する事さえ出来無かった。
つづく